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 地下鉄神保町駅の階段を上り、すずらん通りに出る。飲食店は書店は通常通り営業しており、通りを行き交う人も多い。何も変わらない日常のように思える。タイ料理店の角を曲がると、春眠堂がある。一度しか訪れていないが、妙に懐かしい場所に感じられた。警察の現場検証は終わっているようだ。軒先には中華雑貨のワゴンが出ており、いくつもの献花が置いてあった。

「麗子さん、可哀想に」

 長瀬が店の前で佇んでいると、近所に棲んでいるという高齢女性が話しかけてきた。腰がほぼ直角に曲がっており、手押し車を押している。

「私は腰が痛くて、良く効く漢方薬を出してくれていたのよ。お世話になったわ。お店でお茶を出してくれて、素敵な人だった」

 彼女は麗子を偲んで誰かと話をしたいようだった。

「俺もお茶をいただきました。麗子さんは漢方薬にも詳しかったんですね」

「そうよ、お医者さんの薬より効くんだから」

 そう言って麗子のことを思い出しているのか、涙を拭う。

「なぜ春眠堂が狙われたんでしょうか」

 麗子が、とは敢えて言わない。女性は首を傾げて困った顔をする。

「警察もはっきりしたことは教えてくれないのよ。捜査中だからってね。でも、彼女は人に恨みを買うようなことはしていないわ。お店が人通りの少ない場所にあったから、強盗に入って見つかって、衝動的な犯行だろうって聞いてるわ」

 何も殺さなくてもねえ、と女性は涙ぐんで店に向かって手を合わせる。ひとしきり長瀬に話をして気が済んだのか、手押し車を押しながら去って行った。

 店のすすけたガラスの向こうに人影が見えた。ドアを押してみると施錠されていない。

「こんにちは」

 長瀬が声をかけると、書棚の向こうから本を抱えた青年が顔を出した。

「こんにちは。今お店はやっていないです」

 棒読みの口調に微かに外国人訛りを感じた。麗子の縁者だろうか。年は二十代半ば、眉にかかる長めの前髪を軽く分けてプラスチック製の黒縁眼鏡をかけている。目鼻立ちがはっきりしており、少し厚みのある口元に麗子の面影があるような気がした。本を持ったままこちらに近付いてくると、意外と上背がある。鯨のイラストがデザインされた黒いTシャツにジーンズ姿だ。

「こちらの店主麗子さんには生前お世話になりまして」

 あえて名前で呼ぶ。一度しか会ったことはないが、嘘も方便だ。

「あ、えっと、お名前は」

 青年は本を平台に起き、カウンターの内側にあるメモに目を走らせる。

「長瀬と言います」

「長瀬さん、ですか。祖母から話は聞いています」

「えっ」

 思わぬ返事に長瀬は驚きの声を上げる。どうぞ、と勧められて丸太の椅子に腰を下ろした。

「ぼくは大友おおとも史弥ふみやです。城山麗子はぼくの祖母に当たります。ぼくの母は日本人です。今日台湾からやってきました」

 麗子が亡くなったという知らせを受け、大友は台湾人の父と母と共に日本にやってきたという。台北に住み、日本語学校の講師をしながら両親が経営する旅館を手伝っているため、北京語も日本語も話せる。父母は葬儀の手配と遺骨を母国へ持ち帰る手続きで出払っており、店の片付けを任されていると話した。

「祖母は良い人でした。とても悲しいです」

「そうですね。お悔やみ申し上げます」

 長瀬は深く頭を下げる。大友は麗子がしてくれたように流れるような所作でお茶を淹れる準備を始める。

「凍頂烏龍茶です。台湾でよく飲まれているお茶です」

「ありがとう」

 白い器に出されたお茶は想像する烏龍茶の濃茶色ではなく、緑がかった明るい琥珀色だ。器を口に近づけると微かに甘い花の香りがする。

「烏龍茶の一種ですが焙煎が浅めで緑茶に近いです」

 涼やかな風味で上品な甘い香りがすうと鼻に抜ける。大友はすぐに空になった器に茶を注ぐ。澄んだ茶が蛍光灯の明かりを反射して揺らめく。

「長瀬さんは蠱毒について調べているんですね。協力するようメモが置いてありました」

「ええ、そうなんですか」

 麗子は社交辞令でまた来て、と言ったのかと思ったが律儀に長瀬の名前を残していたことに驚いた。

「日本に蠱毒を使う蠱術師がいると聞いています」

 温和そうな大友の表情が険しくなる。彼も麗子のように蠱毒の知識を持っているのだろうか。長瀬のスマートフォンが振動する。伊原からの着信だ。

「長瀬くん、ちょっとこれから会わへん」

「ええ、いいですよ。どこにいますか」

「今、品川や。長瀬くんは」

「神保町の書店です。あ、ちょっと待ってもらっていいですか」

 長瀬はここに知り合いを呼んでも良いか大友に尋ねる。大友はすぐに快諾した。

「じゃあ、春眠堂というお店で待ってます」

 伊原はこれから電車に乗り、品川から神保町まで三十分ほどで到着できるという。長瀬は麗子が神保町の朗読会で蠱毒の呪いを破ったこと、歌舞伎町のホストとひきこもり息子、昼聞いた会社員の怪死事件のことを話した。天道聖媽会を疑っていることも付け加える。

「天道聖媽会は媽祖を最高神として祀っているんですね。媽祖は台湾でもとても親しまれている神様です。この煌びやかな祭壇の様子は台湾の道教のお寺に倣っています」

 大友は長瀬がタブレットで見せた天道聖媽会のホームページを興味深く読み込んでいる。確かに、本部ビルで見た本殿は成金趣味だと感じるほど豪華絢爛だった。日本の寺と違う異質な雰囲気を感じたのは台湾の様式を真似ていたからだと気が付いた。

「長瀬さんは蠱術師の悪事を暴きたいですよね」

「うん、ここまで来たら真相を知りたい」

 大友に言われてどうしてここまでのめり込んでいるのか、長瀬は自問する。

 最初は鳴美のお気に入りのホスト怪死に関わる天道聖媽会の調査依頼だった。旨い日当と、ライターとしての興味もあって潜入調査をしていくうち、姉と連絡がつかなくなったという伊原と出会い、天道聖媽会への疑念が肥大化していった。本当に天道聖媽会が蠱毒を使って殺人を犯しているというなら、世間に暴く必要がある。母が妄信する神世透光教団への恨みを重ねているのかもしれない。

「祖母は蠱術師に殺されたと思います。でも蠱術ではありません。警察が調査した殺害状況は刃物による刺殺です。なぜなら、祖母に蠱術をかけたら破蠱されて呪いが自分に返ってくるからできないのです」

 大友によれば蠱毒を返す呪い返し、つまり破蠱されるとかけた呪いが何倍にもなって術者自身へ降りかかるのだという。

「破蠱術ができる人間はとても限られています。祖母はその一人です」

「麗子さんは蠱術師だったんですか」

 長瀬は麗子が蠱術師の家系の血を受け継いでいる、と話していたことを思い出す。

「正確には違います。祖母は蠱毒に関する知識を持っていますが、使えるのは破蠱の術だけです。それほどに血によって選ばれているのです」

 大友が茶棚の仕掛けを作動させる。背後に隠し棚が出現し、古びた書物が並んでいた。

「先祖代々伝わる蠱術を記した古文書です。祖母はこれを守るために祖国を離れて日本へやってきました。蠱毒は門外不出の最凶の呪法です。これらの古文書が心無い者に一部書き写され、劣化版として世に出ているのも事実です。天道聖媽会はそうした劣化版写本を持っているのかもしれません」

 大友は小ぶりの急須に湯を注ぐ。ガラス扉を叩く音に話に、話に聞き入っていた長瀬は息をするのを忘れていたことに気が付いた。

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