3-6
竜仙は四十代後半だろうか、白髪混じりの短髪で、品の良い佇まいだが人の心を見透かすような油断ならない眼光を湛えている。低めの落ち着いた声音はかすかに威圧感を纏う。
「この人、モラハラ気質でストーカーしてくる元彼です。ここまで追いかけてくるなんて最悪、もう関係ありません」
梨沙は伊原を睨みつけながら嫌悪感を剥き出しにして吐き捨てる。
「モラハラでストーカーって」
伊原は思わぬ暴言に言葉を失う。梨沙は顔を真っ赤にして興奮しているが、その目は正気を失っているようには見えない。
「ではお帰りいただけますか」
竜仙の慇懃無礼な態度に伊原は苛立ちを覚えたが、ぐっと奥歯を噛んだ。
「わかったよ、悪かったな」
伊原は素直に引き下がり、階段を降りていこうとする。
「探し物は見つかりましたか」
背中から投げかけられた竜仙の声に伊原は足を止める。ここに来てからの行動を知られているのか、背中に冷たい汗が流れ落ちる。伊原はポケットに手を突っ込み、振り向きざまにロンソンのシルバーアラベスクを取り出して見せる。
「おう、あったで。手に馴染んだライター《こいつ》でないと落ち着かんのや」
「それは良かったです」
壇上に立つ竜仙は伊原を見下ろしながら会釈する。そしてしずしずと本堂に入っていく。背後についていた黒い着物の男のうち、黒髪を後ろに流した若い方が威嚇するように伊原を凝視する。三十代半ば、凛々しく整えた眉に奥二重の切れ長の目は冷酷な光が宿る。高い鼻筋に薄い唇は酷薄な印象を与える。伊原も目を逸らさぬまま男を見据える。男は微かに唇を歪めて笑った。そして踵を返して本堂へ入り、もう一人の初老の細身の黒い着物の男が扉を閉めた。本堂から腹に響くような鐘の音が鳴り、読経が聞こえ始めた。
伊原は大きく息をつき、階段を駆け降りる。本部ビルを出てすぐにパーラメントに火を点けた。煙を思い切り肺に吸い込むと血管が収縮し、落ち着きを取り戻した。
「あいつら絶対に怪しい。姉貴、一体どうなってるんだよ」
伊原はひとりごちて本部ビルを振り返る。ペットショップ顔負けの虫の飼育場、人を形取った木札、裏社会の影を落とす取り巻き。姉の態度も気になる。あんな嘘をついて肉親であることを否定した。
伊原は駅前の喫茶店に入り、スマートフォンを取り出して昔馴染みの名前を呼び出しコールする。
「伊原だ。ああ、生きてるよ。ちょっと頼みがあるんや」
注文を取りにやってきた女性店員が電話中の伊原を見て立ち去ろうとする。
「あ、待って。ミルクセーキちょうだい」
「かしこまりました」
伊原はメニューを閉じてパーラメントとロンソンのライターを取り出す。
「おお、すまんすまん。東品川に天道聖媽会ゆうてあるやろ、胡散臭い新興宗教ちゅうやつや。そこのボスの槙尾竜仙の素性を知りたい」
伊原は神妙な表情で何度も相槌を打つ。
「頼むわ、俺の姉貴が面倒に巻き込まれとるかもしれん。ああ、そっちの邪魔はせん。頼む、こっちもまた電話する」
伊原はスマートフォンの通話終了ボタンを押してパーラメントに火を点ける。ランチタイムまでは喫煙できるのがありがたい。
「ミルクセーキです」
女性店員が店のロゴが入ったコースターの上にミルクセーキを置く。
「おおきに」
伊原はストローを使わずにグラスを掴んでミルクセーキを流し込む。天王寺の馴染みの喫茶店の味には及ばないが、悪くない。ミルクセーキのある喫煙可能なレトロな喫茶店はありがたい。メニューには鉄板ナポリタンがあった。このまま昼飯を食べて帰ることした。
結局、伊原が壊した鍵の修理が完了したのは昼過ぎだった。修理代は高くついたが、伊原には感謝している。
「お兄ちゃん、ありがとう。元気出たよ、もう馬鹿なことはしない」
知佳は今日一日仕事を休むことにして、明日から出勤すると言う。
「無理するなよ、辛くなったら電話してくれ。今度はチャイムを鳴らすよ」
「うん、伊原さんにもよろしくね」
川崎の知佳のアパートを出てJRで新宿に出た。ゴールデン街にあるバーたまゆらのランチタイムには間に合うはずだ。
ゴールデン街はほとんど飲屋街で夕方からの営業が多い。昼間は閑散としてゴーストタウンの様相だ。たまゆら立て付けの悪い扉を開けると、マスターの真島が手を振る。
「お、長瀬くんランチに来るのは久しぶりだね」
「今日のランチ、チキン南蛮か。お願い」
長瀬はカウンターに腰掛ける。たまゆらのチキン南蛮はボリュームたっぷりで自家製のタルタルソースが絶品だ。夜の飲み客が裏メニューと知って注文するほどの人気メニューだ。ライスにサラダとコンソメスープ、コーヒーがついて九百八十円、コスパも良い。以前、ネット記事に書いたバーで食べるランチ特集で紹介し、夜の客も増えて真島も喜んでいる。
長瀬はスマートフォンでSNSの話題を流し読みする。隙間時間でトレンドを確認しておくことでアンテナを張っている。その中で気になる見出しを見つけた。
「会社員の転落死、現場に大量の蛙」
ニュースに出る前に飛び交う現場にいた野次馬のSNS投稿がリアルタイム情報になる。目撃者のコメントは全てを真に受けるかどうかは別として、ニュースで報道されない生々しい現場の状況が把握できる。
今日の午前十一時頃、会社員が新橋のオフィスビル内吹き抜けの五階から落下して死亡。遺体の傍には大量の蛙が飛び跳ねていたこと、その蛙は死亡した会社員の口から飛び出してきたと書かれている。
新宿歌舞伎町で起きたホストの突然死と結びつけたコメントも飛び交い、呪いだ祟りだと騒がれている。落ち着いていた長瀬の蠱毒の記事もアクセス数が急激に伸びている。
「はい、お待たせ」
真島がチキン南蛮とスープをカウンターに置く。肉厚のチキンに照り焼きソース、たっぷりの自家製タルタルソースが乗っており、食欲をそそる匂いがたまらない。隠れ家ランチとして人気で時間をずらしてやってきたサラリーマンでテーブルも満席だ。
「歌舞伎町で死んだホストの、あるじゃん」
「あのムカデ大量に吐いたってやつ。マジで超きつい」
背後のテーブルで食後のアイスコーヒーを飲んでいる若者の会話が聞こえてくる。
「俺トラウマなんだよね、ムカデ。映画でさ、エルム街の悪夢ってあるじゃん。あれ子供の頃に観ちゃってさ」
前髪を眉毛に揃えて直線にカットした若者が食い気味に話している。
「あーめちゃ古いホラー映画だろ、ホッケーマスクでチェーンソー持ってる大男の」
「違うって。それ十三金のジェイソンだよ。じゃなくて、エルム街の悪夢はナイフの爪をつけて夢に出てくる殺人鬼フレディ。その映画で女の子の口からムカデが出てくんの、マジで夢に見る勢い」
「へー、昔のホラー映画って気合い入ってるもんな」
向かいに座る明るい茶髪の若者はさして興味もなさそうに適当な相づちを打っていた。長瀬は食後のブラックコーヒーを口にする。思いついて春眠堂に足を向けてみることにした。
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