3-5

「きゃああああっ」

 遅れて山根の甲高い悲鳴が上がる。気が動転した山根は蝦蟇を退けようと足を振り、よろめいてアクリル板の落下防止柵にしがみつく。蝦蟇はべったりしがみついて離れようとしない。山根はハイヒールを脱いで蝦蟇ごと投げ捨てた。田口はずれた眼鏡の位置を直しながら蝦蟇を吐き出した岩谷を怪訝な表情で見やる。

「大丈夫かね、岩谷君」

「げほっげほっ、ぐぼっ」

 岩谷は背中を折り曲げて胃液とともに二匹の蝦蟇を続けざまに吐き出した。まるで悪趣味な大道芸だ。心配していた田口も思わず後ずさる。

「ど、どうなってるんだ」

「きゃああっ」

「やだ、なんでカエルが、気持ち悪い」

 通路を通りがかった女性社員が絨毯の上で飛び跳ねる蝦蟇に気づいて慌てて近くの会議室に避難する。周囲には息ができないほどの悪臭が立ち込める。

 岩谷は自分の身に何が起きているのか理解が追いつかず、絨毯の上をのそのそ這っている蝦蟇を凝視する。生きた蝦蟇を吐き出した嫌悪と恐怖にがたがた震え始めた。それが小刻みな痙攣にかわり、腹部に鈍痛が走る。同時に喉に何かが詰まって呼吸ができない。岩谷は喉を掻きむしる。

「ぐっ、ぐっ」

 岩谷は苦悶の表情でのたうち回る。顔を真っ赤にして狂ったように爪で喉を引っ掻く様は何かに取り憑かれているようだ。岩谷の喉が分厚く膨らんで蠢いている。蝦蟇が喉につっかえて暴れている。

「ぐえええっ」

 岩谷の壮絶な形相に怯えて誰も近付くことができない。岩谷は暴れながらアクリル板の柵に激突した。腹の中で蝦蟇が蠢いている。鼻から抜ける汚泥の臭気に目眩がして、呼吸ができない苦しさに背中を弓のようにのけぞらせた。

「ああっ」

 その場にいた社員たちが全員息を呑む。岩谷が柵を乗り換え、吹き抜けから五階下のロビーに落下した。大理石の床に重いものが激突し、潰れる音がした。田口はおそるおそる吹き抜けを覗き込む。

 ロビーに叩きつけられた岩谷の身体は車に轢かれた蛙のように潰れていた。ロビーでも遅れて悲鳴が木霊した。

「うわあああっ」

「ひえええっ」

 さらに一際大きな悲鳴が上がる。仰向けに倒れた岩谷の口から血まみれの蝦蟇が飛び出してきたのだ。蝦蟇は岩谷の顔にへばりつき、ぐえっと鳴いた。

 蝦蟇は次々出てきて岩谷の腹の上で飛び跳ねている。その悍ましい光景に血の気が引いて倒れる者もいた。救急車が到着したときには、岩谷の身体を埋め尽くすほどの蝦蟇がひしめいていた。


 伊原は東品川の天道聖媽会本部ビルを訪ねた。平日午前中とあって、元はホテルのフロントだった一階事務所の電話番くらいしか人員を配置していないようだ。

「先日の奉仕活動で本堂の清掃をしたとき、ライターを落として」

「まあ、そうですか。ここには届いていないようですわ」

 おっとりした物言いの中年女性は落とし物を保管する棚を確認する。

「ないとなかなか不便で、探してもええやろか」

「どうぞ」

 あっさり館内捜索の許可が出た。女性はデスクについて事務仕事を再開する。

 伊原は階段を上がっていく。二階、三階と人の気配はない。伊原はポケットに忍ばせた妨害電波装置のスイッチを入れた。四階通路に設置してあった防犯カメラはワイヤレスだ。通過中だけノイズを発生させることでカメラに映ることを回避できる。

 通行禁止のポールの横を抜けて四階通路を進む。観音開きの扉の脇にロイヤルホールと錆びた銘板が残っている。扉は施錠されている。昭和のホテルで鍵穴はレトロなタイプだ。伊原は針金を鍵穴に突っ込む。金属音がして鍵が開いた。扉を開けて身体を滑り込ませる。

 天井のシャンデリアは光量を落としてあり、ホールの中は薄暗い。スチールラックが等間隔で並び、小さな水槽が設置されている。ペットショップのような独特の生き物の匂いが充満していた。子供の頃にカブトムシを飼っていたときの虫かごの匂いを思い出す。

 伊原は水槽に挟まれた通路を進む。泥と少量の水が入った水槽には蟇蛙がいた。別の水槽には腐葉土と石。石の上にムカデが這い回っている。蝶に蜘蛛、バッタなど、様々な種類の虫を飼育している。大きな水槽には大量の蛇が蠢いていた。水槽の数は百、いや二百を越えるだろうか。温度や湿度、光を適正に管理してある。まるで研究施設だ。

 新宿のホストはムカデ、ひきこもり息子は蜘蛛を吐いて死んだ。天道聖媽会は長瀬の言うように、本当に蠱毒で人を呪い殺しているのだろうか。しかし、生き物を飼育しているというだけでは殺人の証拠にならない。伊原はスマートフォンで飼育現場の写真を撮影し、ホールを出た。

 五階へ上がると、本堂の扉は開かれていた。香炉に立てた線香から煙が立ち上っている。本尊の御簾は下ろされ、媽祖観音の姿は隠されている。本尊の足元に並ぶ神像のひとつにつけた隠しカメラを本体ごと回収し、新しいものに付け替える。

 御簾を捲り上げてみると、線香に混じって微かに饐えた匂いが鼻をついた。白い紙を置いた三宝に奇妙なものが置かれていることに気がついた。大きさ約二十センチ、厚みは一センチ、白木の板を人型に抜いたものだ。人間を表わす素朴な形状がいやに不気味に思えた。

 本堂の脇の通路を進むと、もとのホテルのデザインにそぐわない黒木の扉があった。この扉はわざわざ付け替えたようだ。特別な部屋に違いない。扉を軽く押してみると、意外にも施錠されていなかった。室内は壁全面が赤色に塗られており、天井には金色の煌びやかな天蓋が吊されている。正面は赤、黄色、青の布が張られ、中央には媽祖の掛け軸、両脇のひな壇に百以上の神像が並んでいる。

 何かの儀式だろうか、護摩壇に火が焚かれている。炎の中に本堂で見た人型の木片が燃えているのが見えた。本堂にある木札は白かったが、燃えている木札はどす黒い。伊原は薄ら寒いものを感じてそっと扉を閉める。

 通路の奥から信者たちがやってくる。伊原は慌てて扉の前を離れ、階段を降りていく。

「将希」

 名前を呼ばれ、伊原は足を止める。振り向けば、白い合わせの着物に黒いズボン、赤色に金の装飾の刺繍が入った和袈裟をかけた姉の梨沙が立っていた。同じ装束を着た他の信者たちは本堂へ入っていく。

「姉貴、ここにいたのか。連絡もつかないし、心配して探してたんだぞ」

 伊原は階段を駆け上がり、梨沙と向き合う。最後に会ったときより少しやつれているように見える。

「住み込みで精神修養をしているの、邪魔しないで」

 梨沙は伊原の手を振り払う。

「何言ってんだ」

「悟りを開くまで家族と会うのも禁じられているの」

 梨沙は伊原を無視して他の信者に続いて本堂へ入ろうとする。伊原は梨沙の腕を掴み、強引に引き留める。

「そんなのおかしいだろ」

「悟りを開くために世俗を棄てることが必要なのよ」

「一体どうしたんだよ、姉貴」

 伊原は梨沙のかたくなな態度に戸惑いを覚える。

「どうしました」

 間に割って入ったのは教祖の竜仙だ。黒い着物に手の込んだ刺繍の金色の袈裟を身につけ、三重にした長い数珠を首から提げている。穏やかな笑みを浮かべながら伊原を見据える。その背後には黒い着物の男が二人、後ろに控えている。

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