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検索文字列を「伊原」として氏名列をソートすると、十六名の候補が表示された。「伊原、
伊原に聞いた姉の名前を呟く。表示されなければ良かった、と思う。伊原の姉は天道聖媽会の信者リストに載っていた。伊原は連絡がつかないと言っていた。否応なしに不安が過る。
東品川の本部ビルは元ホテルで客室がある。住み込みの信者がいても不自然ではない。あの建物で講話や座談会などで開放されているスペースは半分にも満たない。つまり、半分は何に使われているのか分からない。信者を隔離して洗脳するというのはよくある話だ。
うなされているのか、ベッドで寝ている知佳が寝苦しそうに寝返りを打つ。図々しくて面倒な男だが、伊原は知佳のために親身になってくれた。彼の姉が無事であればいいが。
長瀬は苦い表情でスマートフォンを取り出す。伊原はリストの結果をすぐにでも知りたいはずだ。しかし、教えた途端、天道聖媽会本部ビルに乗り込まないか心配でもある。時計を見れば深夜二時。長瀬は悩んだ末、伊原のスマートフォンをコールした。
「おう、待ってたぞ」
伊原はすぐに電話に出た。半分寝ぼけ声だが、連絡を心待ちにしていたに違いない。
「起きてたのか」
「どうだった」
「梨沙さんの名前があった」
しばしの沈黙。空気が硬直しているのを感じる。
「わかった、おおきに」
「ちょっと待てよ」
長瀬は珍しく強い口調に出た。
「なんや、もう眠い」
「天道聖媽会に殴り込みをかける気だろう」
「アホ、俺はそれほど間抜けやない。菓子折でも持って丁寧にいくがな」
やはり乗り込む気だ。しかし、この男の気性では止めることはできないだろう。長瀬は話をしたことを後悔した。
「あんたに何かあったら寝覚めが悪い」
「ほう、俺のこと心配してくれるんか。ま、何かわかったら連絡する」
一方的に通話を終了された。警察に頼るにはあまりにも情報が乏しすぎる。長瀬は頭を抱える。はじめは鳴美の興味本位からの調査依頼だったが、いつの間にか天道聖媽会にのめり込んでいることに気が付いて苦笑する。
そういえば、美容サプリのWEB広告記事の締め切りが近い。全く興味がない商材だが、お決まりの訴求ポイントがある。クラウドサービスのファイルにアクセスして商品説明を読み込むうちにいつの間にか眠りに落ちていた。
テレビから流れるニュースの無機質な声に目を覚ました。気絶するように眠っていたようだ。長瀬はつけっぱなしだったノートパソコンの電源を落とした。
「おはよう、朝ご飯作るよ」
知佳は何事もなかったかのように明るく振る舞う。
「ああ、ありがとう」
長瀬は洗面所に立ち冷たい水で顔を洗う。鏡に映る顔はひどいものだ。泣き腫らした目はまだ赤みを帯びている。濡れたタオルで目を冷やすと気分も明瞭になってきた。
小さなテーブルにはサラダとカリカリに焼いたトースト、即席のコーンポタージュが並ぶ。
「コーヒーはブラックだったよね。インスタントだけど」
家族で食卓を囲むのは何年ぶりだろう。昔はここに父親と母親がいた。そんな平穏な日常が続くと思っていた。長瀬は記憶を掻き消すようにブラックコーヒーを流し込む。
「では、次のニュースです」
男性キャスターの声が急にかしこまる。これから悪い事件を伝える準備だ。
テレビ画面に映ったのは、先日歩いた神保町のすずらん通りだ。朗読会の集団ヒステリーを取り上げるのかと思いきや、風景は細い路地に切り替わる。
「古書店春眠堂の店主、城山麗子さんが遺体で発見されました。遺体には鋭利な刃物による刺し傷があり、店内が荒らされていたことから警察は強盗殺人事件として捜査を」
長瀬は画面に釘付けになる。柔和な笑顔でお茶を振る舞ってくれた麗子の姿を思い出し、愕然とする。俄に信じられず、スマートフォンでニュースサイトを検索する。城山麗子(78)死亡の文字が目に飛び込んできた。これは現実だ。
「知り合いだったの」
「ついこの間行った本屋さんで、彼女と話したよ。とても親切にしてくれた」
長瀬の落胆ぶりに知佳も言葉を失う。ニュースサイトには麗子は近隣住民に慕われており、まさか彼女が事件に巻き込まれるなんて、と驚きと悲しみの声が上がっていた。
春眠堂は平日の昼間は老人のサロンになるような鄙びた古書店だ。強盗がそんな店を狙うなんて考えにくい。裏通りだから人目につかないという理由があるかもしれない。それにしても殺す必要はあったのか。
長瀬は麗子が朗読会会場で破蠱の術を使ったことを思い出した。蠱毒を用いた者が彼女を脅威に感じて殺害したのではないか、という疑念が生まれる。天道聖媽会と事件を結びつける手立てはないだろうか。キーワードは蠱毒だ。
新橋にある不動産会社徳永ホールディングスの営業フロアで怒声が鳴り響く。営業部長の岩谷剛史が見込み客との約束を月内に取り付けられなかった中堅社員を扱き下ろしている。パワハラは日常茶飯事の職場だ。中でも岩谷の部署のやり方は恐怖政治と揶揄されている。岩谷について行く者は優秀な者が多いが、落伍者の烙印を押された者は精神を病んで会社を去ってゆく。
不出来な人間は排除するのが岩谷の信条だ。結果を残してきた岩谷の貢献度は高い。経営陣もパワハラに目を瞑っているのが現状だった。
「ガキの使いでも出来ることじゃないか、アポを取るまで顔を見せるな」
萎縮した社員は俯いたまま震えている。
「早く行け、目障りだ」
デスクで事務仕事をしている部員たちは助け船を出すことはない。余計なことをすれば、次は自分が標的になる。いじめと同じ構図だ。
岩谷は憤慨しながら営業フロアを大股歩きで出ていく。これから役員への報告会があるためだ。今月は成績が目標ギリギリだ。それも苛立ちの原因だった。ガラス張りの吹き抜けの通路を闊歩していると、若い女性秘書山根を連れた常務の田口が通りかかる。田口は中年太りのブルドッグ顔で、豊かな黒髪はかつらだともっぱらの噂だ。
「田口常務、今度の土曜日はお手柔らかに」
岩谷はゴルフクラブをスイングするポーズを取ってみせる。上役とのゴルフコンペが未だに政治的に有効な職場だ。
「君も腕を上げているじゃないか」
当たり前だ。本気で挑めばこんな奴に負けはしない。心の中でぺろりと舌を出しながら岩谷は大げさに恐縮してみせる。
「いえいえ、常務にはとても、ぐえっ」
岩谷の喉からゲップのような音が漏れる。山根はあからさまに不快そうに顔を背ける。岩谷は慌てて両手で口を塞ぐ。腹の中で何か蠢いている。胃が迫り上がる感覚に岩谷は耐えがたい吐き気を催す。
「ぐえええっ、げぼっ」
胃の内容物が勢い良く逆流してきた。その場に激しく嘔吐する。周囲に酸味と腐臭の混じった悪臭が広がる。
吐瀉物の中から背中にいぼのある茶色い
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