3-3

 長瀬は知佳の肩に触れる。体温を感じて安堵に涙が滲む。震える手で肩を揺する。

「知佳、起きろよ。頼むから」

 知佳が微かに身じろぎした。右手に果物ナイフを握り締めていることに気が付いて、長瀬は呼吸を止める。最悪の結果を覚悟したが、知佳はゆっくり顔を上げる。涙に濡れて目の周りが赤く腫れていた。左手首に二本の線、線に沿って血が滲んでいる。

「やろうと思ってできなかったの、ごめん」

「こんなことしなくていいんだ、良かった」

 長瀬は大きく息を吐き、一気に脱力して床にへたりこんだ。周囲にはチラシが散乱している。

「事故物件にならずに済んで良かったの。邪魔するで」

 伊原が部屋に上がり込んできた。床にばら撒かれたチラシを手に取り、あからさまに唇を歪める。

「なんやこれ、いい歳こいたおっさんが誕生日会祝えというとるのか」

 カメラ目線の髭顔の壮年男性のアップ写真に神世透光教団教祖生誕祭と武骨なフォントが被せられたチラシだ。日付は九月十五日の日曜日で、総本山で大々的な式典が行われるようだ。背面には教祖である深江ふかえ琉架るかの神秘体験の経歴が細かく記されている。

 伊原は小馬鹿にして鼻で笑う。見知らぬチンピラが部屋に上がり込んできたことに驚愕の表情のまま、知佳は固まっている。

「知佳ちゃん言うたかな、このチラシぎょうさんあるけど君はこのおっさんのファンなんか」

 伊原は首を傾げてみせる。

「違います」

 知佳は断言し、伊原を睨み付ける。伊原は唇の端を吊り上げてにやりと笑う。

「知佳、この人は俺の友だち、でもないか、仕事仲間の伊原さんだよ」

「お兄ちゃん、こんなチンピラみたいな人とつるんでるの」

 知佳は呆れて長瀬と伊原と見比べる。知佳の隙をついて伊原が果物ナイフを取り上げた。知佳はばつが悪そうに手の傷を隠す。

「やけっぱちになった理由を聞かせてもらおか。俺はここまで君のへなちょこな兄貴を連れてきてやった。その権利はあるで」

 伊原のドスの効いた声に、知佳は唇を噛んで俯く。伊原はその場にあぐらをかいて座る。話を聞くまで帰らないという意思表示だ。

「何があったんだ」

 長瀬の穏やかな口調に、知佳はひとつ溜息をついて話し始める。

「仕事から帰ったら、お母さんからの荷物が届いたの。中身はこのチラシよ。三百枚はある」

 知佳は部屋の中にぶちまけたチラシを横目で見やる。その顔には露骨なまでの嫌悪感が浮かんでいる。

「透光教団の教祖の生誕祭で人を集めて欲しいって。私、断ったわ」

 知佳は母親と自分の人生を狂わせた透光教団を憎んでいる。透光教団の歪な教義を妄信する母をきっぱり離縁することもできず、実家を出ることで距離を取って生活していた。それは長瀬も同じだ。

 母親は子に見捨てられてもかたくなに信仰を守り、親戚縁者に借金して身の丈に合わない寄付をしている。教祖生誕祭は一年で一番大きな行事だ。全国から信者が総本山に集い、莫大な寄付が集まる。そこで知佳に聖誕祭の広報と寄付を強要してきたのだ。電話でこんなことはやめるよう抗議した知佳に、母親は暴言を浴びせてきた。

「悪魔に憑かれてるだの、罰当たりだの、そんな下らない言いがかりは我慢できたわ」

 しかし、最後の言葉は知佳のじくじくと疼く古傷を抉った。

「お前なんて産まなければ良かった、って」

 長瀬は絶句する。父親は知佳が母親のお腹にいるときに浮気をした。それが初めてだというが、もはや定かでは無い。二人の子育てに必死だった母親を尻目に何度も職場の若いスタッフと浮気を繰り返した。それを知佳のせいだと母親が言い出したのは透光教団に入信した頃だ。

「親父さんの浮気は知佳ちゃんのせいやない。そら親父さんのせいや」

「そう、頭では分かってるの。でも、お母さんをここまで狂わせたのは全部自分のせいなんじゃないかって、堪えられなくなって」

 ナイフに手が伸びた、と言う。多感な思春期から母親の憎悪を浴び続けた知佳は心に深刻な傷を負っている。

「知佳ちゃん無事やったし、安心した。俺は帰るわ」

 伊原は部屋を出て行こうとして、壊れたドアの鍵を見て頭を抱える。

「悪い、鍵壊しちまった。鍵屋呼んで修理が必要や」

「これはまた、派手にやったな」

「長瀬くん、鍵屋くるまでここに居れよ」

 伊原は長瀬の肩を叩き、唇の端を吊り上げてみせる。長瀬は伊原の気遣いに内心感謝した。伊原は背中越しに手を振りながら階段を降りて行く。長瀬はそれを見送ってドアを閉めた。明日朝一番に大家に相談して修理してもらうことにしよう。

 知佳はグラスを二つ取り出し、冷蔵庫に冷やしておいた麦茶を注ぐ。テーブルに置いて長瀬の隣に座り、膝を抱える。

「伊原さん、良い人だね」

「そうだな」

 長瀬は小さく笑う。知り合って間も無いのに、懐かしい古い友人のような気がする。それほど距離の詰め方が強引だ。それも悪い気はしない、と思いかけていた。

「ごめんね、お兄ちゃん。迷惑かけて」

「俺の方が謝らないと、ごめんな。辛いときに助けてやれなくて」

「ううん、今だって助けに来てくれたよ」

 知佳は涙を拭い、ぎこちない笑顔を作る。そして部屋に散乱したチラシをかき集め始めた。長瀬も無言でそれを手伝う。一枚も残っていないことを確認してゴミ箱の蓋をあけ、二人でチラシを奥底まで押し込んだ。

「お母さんを憎みきれないのは、可哀想な人だから」

「お前は優しいな」

「お母さんがいつかもとの優しいお母さんに戻ることを期待しているのかも」

 希望は裏切られる。今日だって知佳は絶望を味わって命を絶とうとした。長瀬はもはや母に何も求めていない。狂信者となった母との関係修復は不可能だと考えているし、絶縁しても構わない。知佳の考えは母親への甘えだと思っている。

「俺もそう願ってる」

 心にもない言葉に、口の中が乾くような錯覚を覚えた。

 知佳に休むよう促し、長瀬はノートパソコンを借りて溜まった仕事を片付けることにした。まず第一にやることがある。それは天道聖媽会から拝借した信者リストを調べることだ。USBメモリをスロットに差し込み、フォルダを開く。ウイルスチェックは問題ない。表計算ソフトを開くと、信者の一覧が表示された。名前と住所、電話番号だけに絞られたものだ。入会申込書に記載した詳細内容から会報を送るために必要な情報だけを取りだしたリストになっている。

 長瀬が記載したでたらめな名前、浜田健司の名前もあった。住所は廃墟になって久しい新宿の幽霊ビルだ。会報が郵送されても宛先不明で戻ってくるだろう。

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