4-5

「你好」

 アルミ製の扉の前に立ち、大友が声を張り上げる。ドアは施錠されていない。少し開けてもう一度叫ぶが返事はない。長瀬は併設の小さな倉庫を覗いてみる。中は釣り竿や網など釣り道具が整然と並ぶ。大友にならって叫んでみるが、やはり返事はなかった。

「釣りに出掛けているのか」

 老人は日課を欠かさないものだ。蒲田にある長瀬のアパートに一人暮らしをしている老人も朝六時に起きて必ず近くの公園を散歩していた。寒い日の朝だった。雨でも無いのに老人が散歩に出掛けなかった日がある。気にかけた長瀬が老人を訪ねると、部屋で脳卒中を発症して倒れていた。すぐに救急車を呼び、命は助かった。

「そうですね、家には戻ってくるでしょうから待ちましょう」

 大友はのんびり構えることにしたようだ。陳老人の家から坂道を下るとすぐに小さな浜辺がある。ちょうど崖に隠れて日陰になる。長瀬と大友ははまなすのそよぐ傾斜の急な坂道を下っていく。浜辺に降りると波の音が崖に反響してやけに大きく響いた。黒い岩にぶつかる波飛沫が舞い上がり、また波に溶けてゆく。砂浜の岩に長瀬と大友は並んで腰掛けた。

「蠱術師が見つかったらどうするんだ。蠱術を伝授してもらうのか」

「いえ、簡単にそんなことはできないでしょう。そもそもどんな人物なのかわかりません」

 長瀬は衝撃を受ける。麗子の知り合いの知り合いなら善人だと思い込んでいた。竜仙のように金のために蠱術を悪用するような人物なら、手に負えないのではないか。

「力を貸してもらえるよう頼むしかありません」

「行き当たりばったりか」

 長瀬は怒る気になれず、おかしくなって笑う。

「ええ、なるようになるです。ビートルズの名曲がありましたね」

 レットイットビーのことだ。大友が麗子の敵討ちだと復讐に血眼になっていないことが意外だった。強い蠱術師の力で竜仙を呪い殺すこともできるはずだ。しかし、彼はそれを望んでいないだろう。

「蠱術はかつて、弱者を助けるものだったと祖母は言っていました。病気や飢えに苦しむ人を助けるおまじないのようなものだったと」

 素朴なおまじないがいつしか人の欲望により、多くの命を犠牲にした恐ろしい呪法に発展していく。財産や美しい妻を奪うため他人を呪い殺す、田の水を奪い合う隣村に厄災を呼ぶ。蠱毒は人間の邪な欲望に比例して肥大化してきた。

「祖母は邪悪な人間に蠱術の知識が渡ることのないよう古文書を守ってきました。ぼくはその想いを引き継ぎたい」

 大友の穏やかな口調には強い決意が滲んでいた。

「邪な心で蠱毒を操る竜仙を止めることが麗子さんの弔い合戦になるってことか」

 麗子は蠱毒に苦しむ人を助けるために、危険を顧みず破蠱の術を使った。そのため狙われて命を落とした。欲望を満たすため簡単に他人の命を奪う竜仙を野放しにできない。ましてや神を利用してそれを行うなど。大友の信念に感化されたのか、長瀬にも青い義侠心が芽生えていた。

 岩がごつごつして尻が痛い。長瀬は尻をさすりながら立ち上がる。

「あっ」

 岩場の影に人影をみつけ、思わず声を上げた。小柄な白髪の老人が釣り糸を垂れている。彼が陳文明に違いない。釣り糸が大きく揺れる。魚がかかったようだ。老人は釣り竿を強く引っ張り、リールを巻き取り始める。長瀬と大友は陳老人の健闘を見守る。陳老人は竿を大きくしならせる。糸がぷつんと切れて、陳老人はがっくりうなだれた。

「今日は媽祖様の機嫌が悪いようじゃ」

 意外にも流暢な日本語を話した。陳老人は空の網を引き上げ、坂道を登っていく。長瀬と大友は顔を見合わせ、陳老人の後を追った。歳の割に足腰が丈夫なのか、しっかりした足取りだ。陳老人は竿を網を小屋の定位置に片付ける。

「わしに用事かね」

 家の扉を開けて振り返った。

「はい、島に住む蠱術師について教えてもらえませんか」

 大友は率直に訊ねる。陳老人は豊かな白髭をしごきながら黒い眉をぴくりと持ち上げる。

「あんたは麗子さんの孫かね」

「はい」

 陳老人はひとつ頷き、家に入るよう促した。浜辺の会話が聞こえていたようだ。

 キッチン中央には武骨な木のテーブルと椅子がある。長瀬と大友は椅子に腰掛けた。冷蔵庫の上に電子レンジもあり、世捨て人は意外と現代的な暮らしをしているようだ。陳老人は不揃いのアルミコップに茶葉を入れ、ポットで沸かした湯を注ぐ。

「普段は茶器を使わずこうして飲むことも多いよ」

 茶葉の浮いたコップを見て驚く長瀬に大友は説明する。春眠堂で見せてくれた茶芸は特別なお客さんをもてなすときなのだと。コップに口をつけると、清々しい香りが鼻に抜ける。簡単な淹れ方でも充分味と香りが良いと感じた。

「四季春という緑茶だよ」

 大友は茶の匂いと味で銘柄がわかるようだ。

 陳老人が木皿に近所のばあさんの手作りだという鳳梨酥を持って出してくれた。老人は五年前に妻を亡くして以来独居生活しており、海で釣った魚や蟹と村の市場に並ぶ野菜や卵などを交換してほぼ自給自足の暮らしをしている。時折、気に掛けて訊ねてくる隣近所の村人が手作り菓子を持ってきてくれるのが楽しみだと笑う。

「そうか、麗子さんは亡くなったのか、もう一度くらい会いたかったが」

 陳老人は麗子の死を哀しみ、目に涙を滲ませる。

「君が来たのは事情があるんだろうな」

 隣の寝室から古いアルバムを持ってきてテーブルに広げた。不規則に並ぶ古い白黒写真は糊が剥がれ掛けて、ところどころ浮いている。

「この島の伝説から話そう。この島にはかつて鎖門金山と呼ばれた金鉱があったんじゃ。金鉱が見つかったのは日中戦争の後で、進駐してきた日本軍が発掘の指揮を執った」

 金の採掘は島を上げて行われた。古い写真にはレールを走るトロッコやピッケルを持つ鉱夫が映っている。鉱脈は島の南側に広がっており、機械や人を投入し急速に採掘が進められた。掘れば掘るほどに穴は深くなり、採掘コストは上がることになる。採掘量が減少して日本軍が頭を痛めていたとき、浅い場所に新しい金脈が発見された。しかし、新しい金脈は地盤が緩く落盤事故が何度も発生し、採掘が進まなかった。

「そこで極秘裏に人身御供が捧げられたんじゃ」

「それってまさか、人柱ってことですか」

 長瀬はアルバムの写真に目を落とす。江戸時代ならまだしも、これほど近代的な機械を使った採掘現場でまさかそんなオカルティックな蛮行が行われていたとは。

「人柱に選ばれたのは金鉱近くの村人だった」

 誰しも死にたくはない。一体どうやって選ばれたのか。陳老人はアルバムを捲る。椰子の森を背景に日本兵と並んだ現地の村人の写真だ。顔は掠れてほとんど見えない。

「村の有力者の息子が若い娘に横恋慕をした。彼女は結婚しており、身籠もっていた。彼女に結婚を申し込んで断られた息子は逆恨みで日本軍に恐ろしい提案をした」

「それが人身御供だった」

 大友は低い声で呟く。長瀬はそんな理由で選ばれた女性の恐怖と絶望を想像し、ぞくりと肌が粟立つ。

「しかし、息子は彼女だけを犠牲にしなかった。そうすれば、個人的な恨みから出た考えだと悟られてしまう」

 そこで、息子は身重の女性とその家族、両隣の住人の二十名を深い縦穴に生きたまま落として人柱にした。人柱のおかげか、落盤事故の発生はなくなり採掘が順調に進んだ。しかし、終戦間際には金を掘り尽くしてしまい、廃坑となった。

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