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台湾本土から約二百十キロの距離にある馬祖列島は五つの島から構成される。島名の由来は媽祖の伝説だ。媽祖は宋代の官吏の娘である林黙娘が神格化されたといわれている。黙娘は幼少の頃から賢く、十六歳で神通力を持って村人の病を治し、悪を退ける数々の奇跡を起した。彼女が二十八歳のとき、父親が海で遭難し行方不明となる。彼女は父を探して海に船を出したが遭難し、その遺体が馬祖列島に流れ着いた。黙娘は道教の神媽祖となり、航海の安全や疫病や災害から人々を守るとされている。
媽祖の故郷である中国福建省に媽祖廟が祀られ、歴代皇帝から信奉された。福建省南部から台湾に移民する開拓民は航海の安全を祈願し、無事到着したことで感謝の意を表して台湾各地に媽祖廟が建てられた。台湾では媽祖を広く信仰し、媽祖はもっとも親しまれている道教神の一人だ。
馬祖列島へは台北から飛行機で約一時間。台湾の離島として人気を集めており、週末の便は満席になることもある。龍山寺東側に広がるスラム街の裏路地にいた老婆から大友が聞き出した情報は、力のある蠱術師が馬祖列島のひとつ、南永という島に住んでいるという話だった。
長瀬が話を聞いたのは当日の朝だ。大友とホテル近くの食堂に朝食を食べにきた。豆乳ドリンクと細長い揚げパン油条、さつまいもの入ったお粥、茶葉と香辛料で煮込んだ茶葉卵。台湾の定番朝食がアルミテーブルに並ぶ。
「飛行機でここから二百キロ先の離島に飛びます」
油条をかじりながらスマートフォンを操作していた大友の言葉に、長瀬は面食らった。すでに飛行機のチケットは予約済だという。
「台湾から一番遠い離島です。中国大陸との距離は約十キロですよ」
マップアプリの地図で確認すると、大友の言う位置関係がよく分かった。
龍山寺から地下鉄で台北市街地にある
「天候が不安定な日が多いので、飛行機が飛ばないこともあります」
濃霧で欠航や大幅な遅延がよくあると大友は言う。帰りが心配になったが、どうせ予定の立たない旅だ。長瀬はおおらかに構えることにした。フライト時間は予定通り、午後一時すぎに南永島の空港に到着した。
「南永島は複数の小さな村で構成されています。その立地から軍事施設の跡地が多いです。それから、今は廃坑になっていますが、金の鉱山がありました」
「へえ、こんな小さな島で」
日本でも二〇二四年に世界遺産に登録された佐渡島の金山は有名だ。 金高床は火山活動によるマグマと地下水でできると言われている。この島も環太平洋火山帯に属するため、金脈が発達したのだろう。資源の乏しい小さい島だけに、金の採掘が一大産業になったのも頷ける。
小さな空港を出ると濃い青空が広がっており、強烈な陽射しに晒される。 空港からバスに乗り、島の西へある馬祖村へ向かう。バスの運賃は悠遊カードを使うことができた。島の東端にある空港から約二十分ほどで西端の村へ到着した。
バスを降りると、小高い丘の上に建つ巨大な白亜の像が見えた。物珍しさに長瀬は呆然と像を見上げる。
「あれは媽祖巨神像です。高さは約二十九メートル、世界最大です」
大友について階段を上り、像の足元にやってきた。近くに来るとその巨大さに圧倒される。穏やかな表情で海を見守る媽祖巨神像はまさに海の守護神だ。巨像の左右に小さな像が建つ。
「媽祖の随神である千里眼と順風耳です。もとは悪神ですが、媽祖によって改心しました。近くに馬祖境天后宮があります。この島の媽祖信仰の拠点です」
媽祖巨神像から歩いて五分ほど、絡み合う龍の彫刻が施された階段を上ると鮮やかな橙色の反り返った屋根の馬祖境天后宮が建つ。海風に乗って線香の匂いが漂ってきた。正面の香炉で参拝者が手を合わせている。右手入り口から拝観する。祭壇正面に龍か刻印された重厚な石棺が安置されていた。
「ここは媽祖の遺体が安置されていると言われています」
「なるほど、媽祖の遺体が流れ着いたのはこの島なのか」
媽祖伝説が目の前にあることを長瀬は実感する。祭壇前には果物や花が供えられており、人々は線香を手に静かな祈りを捧げている。長瀬は神を信じないが、否定するつもりはない。素朴な祈りの空間には清らかな空気が感じられた。
長瀬はふと東品川の天道聖媽会本部を思い出す。煌びやかな祭壇、線香の匂い、媽祖観音。天道聖媽会でも純粋な信仰心を持つ信者が大多数なのだろう。しかし、金に目が眩んだ教祖竜仙のやっていることは邪悪だ。金色の仮面をつけた媽祖観音は異様に不気味だった。宗教は人の心の拠り所だ。それを悪用する者が信仰の対象を歪めている。竜仙は媽祖というアイコンを利用しているのだ。長瀬の心中でくすぶっていた嫌悪感の正体が明らかになった。
馬祖村は海に面した小さな村だ。村のどこからでも媽祖巨神像を拝むことができる。コンクリート造りの道は最近整備されたばかりで、綺麗なものだ。石を組み上げた壁はまるでヨーロッパのような異国情緒を感じられる景観だ。建物の壁は石の煉瓦かコンクリート製だ。小さな島なので強烈な海風に晒されるためだと大友は言う。
遅めの昼食に全面を黄色に塗られたコンクリート壁の食堂に入る。大友が店のおばちゃんに馬祖の名物を適当に見繕ってもらうことにした。おばちゃんが厨房に引っ込んだかと思うと、時間を置かずニラと豚肉入りの卵焼きとごまがたっぷりのベーグルが出てきた。
「これは継光餅です。卵焼きを挟んで食べます」
大友がおばちゃんの説明を通訳する。店のポスターの写真にもある料理で、島の推しらしい。
「明代の武将戚継光が軍の食料として携帯させたのが由来だそうですよ。馬祖バーガーとも呼ばれています」
「こんな場所にもご当地バーガーってあるんだな」
プレーンのベーグルは胡麻の風味が香ばしく、卵焼きを挟んで食べると塩っぱさがよいスパイスになる。おばちゃんがチーズを持って来た。長瀬はチーズ入りが気に入って二つを平らげた。大友はおばちゃんと話をしている。蠱術師の所在を知る人物について訊ねているようだ。
「村のはずれに住んでいる陳文明さんを訪ねます」
お茶を継ぎ足しにきたおばちゃんが早口で捲し立てる。
「陳さんは昼間は釣りに出ているかもしれない、と言っています」
陳文明は村一番の高齢で八十七歳の老人だという。食堂を出て海沿いのコンクリート造りの道を歩く。海の波は穏やかで、太陽の光を反射して金色に輝いている。潮騒が耳に心地良い。彼方に見える島影は中国大陸だ。
ゆるやかな時間が流れる村だ。すれ違うスクーターに若い女性と子供がノーヘルで二人乗りをしていた。道はさらに細くなり、ガードレール代わりの石柱も無くなった。この先に住む人がいるのだろうか、と不安になりかけた頃に石造りの塀に囲まれた平屋建ての家が見えてきた。
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