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「私の話は終わりです」
武野の態度に怯えたのか、江口は愚痴を締めくくった。長瀬も内心安堵している。このまま愚痴のループを聞き続けるのは全く生産性がない。山野が専門外ながら解決策を提案してもすべて却下だ。佐野は最小限のフォローを入れるだけでファシリテーターに徹していた。よく訓練されている。
「私の話を聞いていただけますか」
控えめに手を挙げたのは河井だ。
「ええ、では河井さんお願いします」
「河井です。専業主婦をしています。私の夫は大手ゼネコンで出張が多く、帰宅も遅くて、えっと」
大勢の前で話すことになれていないのか、挙動不審で声も小さい。長瀬は隣の武野がまた貧乏ゆすりをしている気配を感じた。
「息子は一人で、もう三十代になりますが大学受験に失敗してからずっと引き籠もりなんです」
河井は悲痛な声で絞り出す。現在三十三歳になる息子は受験失敗から二階の自室に籠もるようになった。そのうち出てくるだろうとたかを括っていたが、三ヶ月部屋から出てこないことに異常性を感じ始めた。河井は息子に出てくるよう声をかけ続けたが、返事はない。カウンセラーを呼んで話してもらったが、解決の糸口は見つからなかった。不在がちの夫は出来損ないの息子に無関心だ。
「いい加減にして、出てきなさい」
そう声をかけて反応が無いことですっかり興味を失った。部屋からトイレ、週に一度くらいはシャワーを浴びているようだが、それ以外は部屋の中で過ごしている。一日三度の食事は河井が作って部屋の前まで運ぶ。そのまま手をつけずに放置されていることもあれば、食い散らかした状態で置かれていることもある。最近はデリバリーサービスで食事が届き、それを河井が受け取り金を払って部屋の前まで持って行く。
部屋でインターネットショッピングをしており、通販サイトの段ボール箱が届く。代金引換で注文しており、金を払うのは河井だ。断って返品したこともある。しかし、商品が届かないことに激怒した息子は階段を駆け下りてリビングで暴れた。河井も顔や腕に痣を作った。久しぶりに見た息子は髪はべったり油ぎってバランスの悪い食事のために顔はにきびだらけ、陸上部で活躍してスマートだった体型は脂肪の塊だった。トレーナーの胸元には食べこぼしの跡がついていた。醜い息子の姿に河井は呆然とした。
「なるようにしかならない。いつか心を開くだろう」
夫に相談しても呑気に構えて何もしようとしない。河井がもう限界だと食い下がると、お前の教育が悪い、と扱き下ろされた。引き籠もりの息子の世話と無関心な夫。絶望した河井がすがったのが天道聖媽会だった。
「私は天道聖媽会に入会して救われました。ここでは皆さん優しいですし、私を労ってくれるんです」
河井はブランドバッグからハンカチを取りだして目尻に滲む涙を拭いた。河井の壮絶な話に山野と江口は神妙な表情で聞き入っている。佐野はせっせとメモを取っており、武野はテーブルの下で両手を組み、親指をくるくる回していた。
「河井さんはよく頑張っていますね」
「きっとその気持ちは息子さんにも伝わっていますよ」
山野と江口は口々に河井を慰める。しかし、その言葉は河井に届いていない。
長瀬は中年のひきこもりについて記事を書いたことがある。河井の息子は大学受験を失敗して十年間の引き籠もりだ。幸い、親の経済力と食事や身の回りの支援のおかげで困っていない。その環境が続く限り、部屋の外に出ることはない。引き籠もり二十年選手の五十代で両親が死んで経済的に困窮し、孤独死する例も出始めている。河井家も河井が世話をして夫が金を出す限り何も変わらないだろう。
「河井さん、この問題を解決したいですか」
佐野の言葉に項垂れていた河井がのろのろと顔を上げる。
「解決、したいです」
「では、後ほど詳しい話をお聞きします。天道聖媽会ではそうした方への支援も行っています」
カウンセラーでも派遣するのだろうか。長瀬はひきこもり問題をどう解決するのか気になった。それまで無関心だった武野も佐野と河井を見比べている。
「では、次のお話を武野さん、お願いします」
佐野に名前を呼ばれて武野は弾かれたように反応する。
「ああ、自分ですか。今日は初めてこの会に参加したもんで、慣れんのですわ」
「と、いいますと」
「どうも自分のことを話すのは恥ずかしゅうて」
武野はへへへ、と照れながら頭をかいてみせる。つまり、スキップしろということだ。お鉢が長瀬に回ってきた。
「浜田です。ぼくも初参加で緊張しています」
長瀬は飲食店に勤務しており、休みが取れず上司のパワハラがひどい、とありきたりの設定を組み立てて悩みを話した。
「休みが取れないのはスタッフが少ないのかな」
山野は会社勤めをしており、親身に話を聞いてくれる。嘘に対して真剣に考えてもらうのが悪い気持ちになる。
「そうなんです、上司が厳しくてすぐに若いスタッフが辞めちゃって。この間なんて一週間で来なくなったんですよ。参りました」
できるだけ深刻になりすぎないよう軽く流す。
「休み時間も取れないなんて、労働基準局に行けばすぐよ」
江口は仕事で人事関連に携わっているらしく、意外と真っ当なアドバイスをくれた。それなら最初の学習教材販売会社のときに実行すれば良かった、と長瀬は悔やむ。
「皆さん、時間となりました。しっかり話をされましたね。それではこれから槙尾竜仙様の講話です」
司会者が合図をすると、金色の袈裟を纏った竜仙が壇上に上がった。
「人の一生は重い荷物を背負って遠い道をゆくものです」
竜仙は参加者の顔を見渡すようにして語りかける。その声はゆったりと穏やか、心地良い抑揚があり、参加者たちは皆聞き入っている。一人一人の人生の苦労を称え、媽祖はそれを見守っており、信者は仲間だという美談で締めくくられた。竜仙がマイクを置いて退場するときには会場から盛大な拍手で見送られた。
座談会は二時間、講話は一時間。長い間座りっぱなしだったこともあり、長瀬は会場を出たときに軽い立ちくらみを覚えた。
「浜田さん、入会の決意はつきましたか」
長椅子に腰掛けていた長瀬に佐野が声をかける。
「ええ、そうですね。良い会でした」
「竜仙様のお話は人生の助けになりますよ。入会すれば毎週座談会に来ていただけます。この後媽祖様の特別拝観があるんですよ。参加してみませんか」
特別拝観はこの本部ビル五階に媽祖のご本尊があり、信者は月に一度その姿を拝むことができるという。
「あなたは幸運ですよ。媽祖様に祈りを捧げるとご利益がありますよ」
「それはぜひ、拝観したいです」
本部ビルに何があるか調べることができる。拝観は入会書類を出すことが条件だという。長瀬は記載してきた入会書類を佐野に手渡した。これでポイントが上がるのだろう、佐野は喜んで五階のエレベーターへ長瀬を案内する。エレベーターの待ち列には河井の姿もあった。
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