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 JR蒲田駅の東口を出て繁華街の喧噪を抜けて歩くこと二十分。築三十八年パークサイド浦田の一〇三号室の鍵を開ける。地主の名前がで、ここに住み始めたときはよく蒲田と間違われて配達物が届かない面倒があった。八畳のワンルームでバストイレ別。家賃も手頃で単身者の長瀬には充分だ。深夜に繁華街に呼ばれるパトカーと救急車のサイレンがうるさくも感じていたが、住んでいるうちに慣れてしまった。

 長瀬は熱めのシャワーを浴びながら、立ち上る湯気をぼんやりと見つめる。宗教団体に潜入するという鳴美の依頼を受けたのは間違いだったかもしれない。壁に手をついて深い溜息を吐く。

 歯科医師だった父は職場のスタッフと浮気を繰り返していた。度重なる約束不履行と屈辱に堪えかねた母の清美は離婚を切り出し、長瀬と妹の知佳ちかは清美について暮らすことになった。長瀬が十七歳、知佳が十四歳のときだ。清美は元夫から養育費をもらいながら地元のスーパーにパート勤務に出た。これから学費がかかる二人の子を抱え、それまで夫を支える専業主婦だった清美には想像を絶する苦難だった。

 そんな中、清美はスーパーのパート仲間から誘われ、ある集会に参加した。素晴らしい体験だった、と目を輝かせて話す恍惚とした母の顔を長瀬は忘れることはできない。あのとき、疲れ果てた清美の心を救ったのは神世透光教団しんせいとうこうきょうだんだった。

 神世透光教団はキリスト教の流れを汲み、主神はキリストだが預言者ルカの教えを称えるいわば亜流だ。教祖は世襲の二代目、日本全国に三万五千人の信者を持ち、年々その数を増やしていた。長瀬もはじめは辛い環境にある母の心の拠り所になれば、と看過していたが信仰が深まるにつれ弊害が出てくるようになった。生活の全てが透光教団の教えに準ずることを強要し、反すれば清美は激怒した。教えを守らねば煉獄に堕ちると激昂し、長瀬と妹に手を上げるようになった。温厚だった母のこの世のすべてを憎む鬼のような形相に衝撃を受けた。

 透光教団内での奉仕活動が認められ、地位が昇るにつれて清美は高額な奉納金を差し出すようになった。養育費として送られた金もすべて奉納金と消えて一家は極貧生活を送るようになる。清美は二人の子を透光教団に無理やり改宗させ、毎週末の会合にも連れていくようになった。

 清美の使い込みにより学費の援助は絶望的だったが、長瀬は推薦で地元大学に進学し、家を出た。透光教団を妄信する家族から離れなければ破滅する、と思ったからだ。奨学金をもらいながら苦労して大学を卒業した。

 なんとか新卒で一般企業に就職できたものの、清美に植え付けられた透光教団の教えが頭の片隅に澱のようにこびりついていた。ルカの教えを実践しない者は無価値だ、そんなことはデタラメと分かっていながら呪詛のように深層心理に作用していた。人間関係をうまく築けず、営業成績も上がらず、陰湿な上司から目の敵にされひどいパワハラを受けて会社を去ることになった。いわゆるマインドコントロールだ。自己肯定感を回復するために何年も費やした。そんなときも清美は寄付金が必要だからと金を無心した。

 長瀬は家に残された知佳をいつも心配していた。清美の妄信をどこか醒めた目で見ていた長瀬は教えに飲まれることはなかったが、両親の離婚を経験し不安定な時期だった知佳はそうではなかった。時々実家に顔を出すと清美と知佳は案外うまくやっているように見えた。それは知佳が従順に教義に従っていたからだ。

 二十四歳になった知佳が結婚することになった。清美も喜び、長瀬も共に両家の顔合わせに出ることになった。そのとき、歪みが露呈した。清美が知佳の夫になる男性に透光教団への改宗を強要したのだ。長瀬は清美を止めようしたが、彼女は激昂して異教徒は家に入れないだの、煉獄に堕ちるだの騒ぎ立てた。結果、婚約は破談となった。

 知佳は将来夫になるべき人を母の暴挙により失い、そのときようやく母と透光教団の異常さに気がついた。知佳は清美と大げんかし、家を出ることになった。知佳もマインドコントロールが抜けず、泣きながら長瀬に電話をかけてくることもあった。家族を離散させ、不幸にしたのは過激な教義で人を縛り付ける透光教団のせいだと思っている。未だに鬼のような清美の顔がフラッシュバックすることがある。

 神などいない、それが長瀬の信条となった。神も超常現象も奇跡もこの世にはない。それでもライターとしてオカルト系記事を書いているのは、ある意味アンチテーゼなのかもしれない。

 どのくらい湯を浴び続けていたのだろう。ひどく上せてしまった。長瀬はシャワーを止め、バスタオルで雑に身体を拭いてTシャツとジャージのパンツに着替えた。クールダウンとばかり冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、こたつテーブルに置いたノートパソコンの電源を入れた。

 仕事用のメールボックスには企業の新商品の宣伝記事の依頼が五件入っていた。連載中の怪奇雑誌のエッセイの校正、新規依頼でホラーゲームのシナリオ依頼、その中に鳴美からのメールも届いていた。長瀬はチューハイを煽りながらメールを開く。圧縮ファイルを解凍すると、個人探偵の調査結果、天道聖媽会の基本情報がまとめられていた。

 探偵の調査結果には塔夜を指名していた女性たちのイニシャル、その中から恨みが深そうな人物として挙げられた候補に渡辺万莉絵の名前があった。渡辺万莉絵についてもかなり詳しく調べているようだが、概ねたまゆらで鳴美から聞いた情報通りだ。

 ファイルの中には動画投稿サイトやSNSにアップされていた事件当時の写真があった。祖父母の家が埼玉の山間にあり、夏休みにはよく妹と泊まりにいった。夜仏間で寝ていると、大きなムカデが天井から降ってきて大騒ぎしたことがある。田舎の虫のスケールに驚いたものだが、塔夜が吐き出したという巨大ムカデはその比ではない。仰向けになった身体に口や鼻から出てきた巨大ムカデが這い回るさまはまるで悪趣味なホラー映画だ。

「天道聖媽会か、聞かない名だ」

 長瀬は別ファイルを開く。天道聖媽会のご神体は媽祖まそだ。媽祖は航海や漁業など海の守護神として中国沿海部や台湾を中心に信仰を集めている道教の女神だ。日本でも横浜中華街には大きな媽祖廟があり、親しまれている。

 本部の所在地は品川。倒産した観光ホテルを買い取って改修を行い、本部事務局、集会所として利用している。大阪と福岡に支部を持つ。開祖は槙尾竜仙まきおりゅうせん、本名は和憲かずのり。年齢は四十四歳とまだ若い。女性を中心に信者を増やしており、現在約九千名が属している。漢方薬サロン好日薬房を全国二十八箇所に出店し、漢方薬の知識を学びながら薬膳料理やお茶を楽しめる場を提供している。好日薬房でアジア文化に興味を持つものを集めて天道聖媽会へ導くのが手口だと鳴美は言っていた。

「一番近くにあるのは大井町店か」

 大井町は蒲田から電車で二駅だ。フリーランスのため予定は自由が利く。長瀬は明日にでも好日薬房へ行ってみることにした。

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