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 JR大井町駅で電車を降りる。地図アプリに掲載されていたのは、健康食品販売会社のサテライトオフィスの名前だ。引き払われてから天道聖媽会が漢方サロンを開業して間も無いようだ。

 坂道を下り、シャッター通りの目立つ鄙びた商店街のはずれに好日薬房大井町店はあった。風流な木の看板に店名が墨文字で書かれている。窓から覗き込むと無機質な事務所然とした狭い店舗だが、女性が好みそうなアジアンテイストの装飾を施して親しみ易い雰囲気を演出しようとする努力が窺えた。開店時間は十一時三十分。開店まであと五分だ。

「いらっしゃいませ、お食事ですか」

 長瀬が店の前に佇んでいると、愛想の良い中年女性がドアを開けて声をかけてきた。

「はい、ランチやってますか」

「ええ、どうぞ」

 女性は溌剌とした声で長瀬を案内する。店内に足を踏み入れると、漢方薬の匂いが鼻をつく。不快ではないが、独特だ。

 赤地に中華文様のテーブルクロスが掛けられた席につく。三つのテーブル席と、狭いカウンターの奥に厨房がある。ラミネートされた一枚紙のメニューには今週の薬膳ランチが一種類、裏側には台湾茶の銘柄が書いてある。茶器を使った本格的なお茶体験ができる趣向だ。ペットボトルでも見かける凍頂烏龍茶は知っているが、他の名前は聞いたことがない。

「男性のお客さんは珍しいんです」

「そうなんですね、通りがかりで気になって」

「そう、大歓迎よ。ランチでいいですね」

 一種類しかなくて、と言いながら厨房に戻っていく。接客業とはいえ初対面から心をフルオープンにしたこの底抜けの明るさに長瀬は苦い気持ちを思い出す。母に連れられて行った神世透光教団の集会と同じ空気を感じ取ったからだ。皆慈愛に満ちた笑顔を貼り付けて、強力な仲間意識で結ばれている。母もそこに安心感を持っていたのだろうが、教団の言いなりになっていれば、の話だ。自我を発揮しようものなら途端に村八分にされ、孤独と疎外感に苛まれる。それが囲い込みの手口なのだ。

「お茶をどうぞ。ちょっと癖があるかもしれないけど、高麗人参茶。漢方のお茶だから身体に良いのよ」

 小ぶりの湯飲みで出だされた茶は濃い茶色をしていた。鼻を近づけてみると、微かに土の匂いがする。一口含んでみたが、口直しの水が欲しくなった。

 料理を待つ間、若い女性会社員二人連れと中年女性が一人やってきて満席になってしまった。女性社員は職場の愚痴やゴシップの話題で盛り上がっている。彼女たちの憎悪に満ちた悪口を当事者の課長が聞いたら、明日から会社に出勤できないかもしれない。

「お待たせしました」

 四角い盆で運ばれてきた料理は蒸し鶏の野菜サラダにきのこのおひたし、鶏肉の薬膳スープ煮、おつまみ三品盛り合わせ、たまご豆腐に五穀米と味噌汁で色合いも見目もよい。デザートにひとくち団子がついていた。

「栄養バランスも良いし、出汁には漢方薬に使われる素材を使っているんです」

 立ち上るスープの湯気から独特の匂いが漂う。他の客の料理を提供するため、店主は厨房に引っ込んでいった。健康を謳っているだけあり、料理は味付けが丁寧で上品、素材も新鮮な旬のものを選んでいる。長瀬はグルメ記事を書くこともあるが、この店はお世辞ではなく太鼓判を押せそうだ。

 食事をしながら壁の張り紙に目を泳がせる。医食同源の話題から薬膳学の基本理念と雑学が啓示してある。店の本業である漢方薬の販売についてはまず気になる症状を相談するように、と書かれている。奥の棚にガラスに入った得体の知れない植物の種や葉が所狭しと並んでいた。漢方薬の材料になるものだ。思えばお茶だってもとは木の葉だ。木の葉から出た煮汁を有り難がって飲んでいる。それを言うならコーヒーだって豆の煮汁に過ぎない。

 食事を終えた女性社員は会計を済ませて店を出て行く。長瀬は天道聖媽会の情報を掴まねば、と店内を観察する。

「漢方にご興味がありますか」

 料理を提供し終えて手が空いた店主が下げ膳がてら声をかけてくる。

「はい、母がいつも冷え性だ膝が痛いだとぼやいているのですが、病院嫌いで」

 嘘も方便だ。長瀬は困ったものです、と肩を竦めてみせる。店主は我が意を得たりと、湯飲みにお茶を継ぎ足して長瀬を足止めする。中国の伝説の不死薬から陰陽五行、歴史上の名医華陀まで立て板に水の勢いで口が止まらない。

「あなたハンサムだから彼女はいるのかしら。漢方は身体の中から健康になるから美容にもいいのよ。あなたの年じゃまだいらないかもしれないけど、滋養強壮に効くものもあるわ。夜も元気が出るわよ」

 話を広げて巧みに個人情報を聞きだそうとしている。精力剤まで勧められてげんなりする。長瀬は嫌悪感を露わにせぬよう始終作り笑いで店主と向き合い、思いつく質問をして興味があるように振る舞う。

「ねえ、良かったら詳しい話を聞きにこない」

 静かに食事をしていた中年女性が声をかけてきた。

「そうね、もっと詳しい先生のお話が聞ける機会があるのよ」

 思いついた、とばかり店主は手を打つ。大した演技力だ。

「これ、集会の案内よ。来週の日曜日、品川で」

「面白そうですね。ありがとうございます」

 店主から受け取ったチラシは天道聖媽会の品川本部で開かれる定例会の案内だ。アジア伝統芸能の講演や聞茶体験、漢方相談、人生訓話など興味を引くラインナップになっている。ここで宗教色は出ていないが、長瀬には分かる。突然宗教の話をされると人は警戒するものだ。しかし、このように趣味の仲間と集まる場であれば警戒心は薄れる。

「若い男性が興味を持ってくれるのは嬉しいわ」

「ぜひ、いらしてね」

 店主と女性客はにこやかに長瀬を見送る。思ったほど高圧的ではなかった。長瀬はほっと胸を撫で下ろす。

 母が信仰している神世透光教団では信者を集めることも重要な試練だった。信徒が集まれば金も集まる仕組みだ。集めた寄付金に応じて教団内のランクが上がっていく。金額が低ければ下がることもある。金額の多さは信仰心の厚さと同義だった。

 母は煉獄へ堕ちることを怖れてなり振り構わず知り合いを勧誘し、やがて周囲に人が寄りつかなくなってしまった。

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