第五章

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 東品川にある天道聖媽会本部ビル。槙尾竜仙は本堂の蝋燭にひとつひとつ火を灯す。揺らめく炎に輝く金色の媽祖観音が跪く竜仙に微笑みかける。竜仙はそれに応えるように口元を綻ばせる。憎しみと愛しさがない交ぜになった複雑な感情を押し殺し、祝詞を唱えて心を平安に保つ。

「竜仙様、蠱毒が完成しました」

 黒いスーツ姿の男、千里眼が竜仙の足元に膝をつく。赤いビロードの布に置いた緻密な彫刻が施された短剣を掲げると、鋭い刃が鈍い光を放つ。

「ずいぶん待たされた」

「はい、人間の生命力は思ったよりも高いようです」

「そうだ、その方がより強大な力を得られる」

 恨みを持つ者は特にそうだ。生きようという執念が強い。竜仙は千里眼に導かれ、本堂を出てゆく。千里眼の背後に影のように控えていた順風耳が最後に続いた。

 エレベーターに乗り込み、千里眼が操作パネルに解除キーを差す。地下一階のボタンが開放された。エレベーターはがくんと振動し、地下へ向かって降りて行く。地下階には古いボイラー室や、物品保管倉庫に使われていた部屋がある。エレベーターを降りて、古びた蛍光灯が照らす暗い通路を進む。千里眼が一番奥の鉄製のドアの鍵を開ける。重いドアを開くと、生臭い鉄錆と汚物の混濁した異様な匂いが鼻をつく。遅れて腐臭がやってきた。

 窓の無いコンクリート打ちっぱなしの部屋だ。床は粘性の液体で満たされていた。その中に何人もの死体が転がっている。床の液体は死体が垂れ流す血と汚物だ。竜仙と千里眼は悪臭をものともせず、まさに地獄絵図のような部屋に足を踏み入れる。

 天井の蛍光灯は切れかけて不規則に点滅している。死体の数は十以上、部屋の端にも積み重なっているものを含めると二十体はくだらない。

 部屋の隅で血飛沫が飛び散る壁に体重を預けてしゃがみこんでいる者がいた。細身の女だ。髪は血糊に塗れてごわごわで、顔にもべったりと血が塗りたくられていた。頬は痩けて肌に張りはなく面影が薄いが、渡辺万莉絵だ。万莉絵はか細い声で嗚咽している。リボンとフリルのついたドレスはもとの色が白と分からないほど赤黒く染まっている。露出した血塗れの腕には無数のひっかき傷が走り、もはや誰の血なのかはわからない。万莉絵は手にナイフとドス黒い血肉の塊を持っていた。

 万莉絵は気怠げに顔を上げる。竜仙の姿を見つけ、血走った目を見開いた。よろめきながら竜仙に近付いていく。千里眼が万莉絵の動きを制する。

「竜仙様、みんな死んであたし、生きてます。これで塔夜くんが戻ってくるんですよね」

 万莉絵は恍惚とした笑みを浮かべる。その表情は狂気に支配されていた。血の海から腕が伸びて、万莉絵の足を掴んだ。

「身勝手な馬鹿女め、殺してやる」

 しわがれた声で渡辺にしがみつくのは瀕死の浅野だった。怒りに突き立てた爪が万莉絵の肉に食い込み、血が滲む。

「いやぁ、塔夜くん助けて」

 万莉絵は甲高い声で叫びながら浅野の首筋に迷わずナイフを突き立てた。浅野は血の海に倒れ込み力尽きたが、万莉絵はナイフで背中を執拗に突く。

「竜仙様、お願いです。塔夜くんに会わせて」

 万莉絵はナイフを手にして幽鬼のように立ち上がる。確かな足取りで竜仙に近付いていく。

「お前は強欲だ。惚れた男を殺してくれと頼んでおきながら、また手に入れたいと言う」

 竜仙は甘い声で囁く。万莉絵の肩を掴み、胸に短剣を突き立てた。

「お前のような人間が私に力を与えてくれる」

「嘘、どうして。塔夜くん、塔夜くん」

 万莉絵は胸から吹き出す血を呆然と見つめている。やがて目の前が真っ暗になり、気絶しそうなほど酷い悪臭を感じなくなり、ずっと聞こえていた怨嗟の呻き声は聞こえなくなった。万莉絵は膝から崩れ落ち、鈍色の血の海に沈んでゆく。竜仙は鮮血に塗れた手をべろりと舐める。鉄錆に混じって甘美な匂いが脳髄を貫き、口元を歪めた。

「始末を頼む」

 竜仙は血塗れの部屋を出ていく。千里眼は無表情のまま鍵を閉める。血と汚物に汚れた靴を見て、忌々しそうに舌打ちをした。部屋の外に待機していた順風耳は頭を下げたまま拳を震わせていた。


 新宿ゴールデン街に軒を連ねるバーたまゆらに伊原の快気祝いで集まった。長瀬と大友は台湾土産に定番の鳳梨酥と馬祖の老酒を手渡す。長瀬は大友がまた日本に戻ってくれたことを嬉しく思っていた。

「ほんまおおきに」

 伊原は長瀬と大友の肩を抱いて涙ぐむ。長瀬は台湾で食べた料理を飯テロで逐一LINEしていたので、検査のため絶食の伊原は病院のベッドでもんどり打って悔しがっていたらしい。

「人間って丈夫なんやで、傷ついた胃壁も自然と治るんやて」

「暴飲暴食はしばらく御法度なんじゃないか」

 長瀬に釘を刺されて伊原は気まずそうだ。おそらくアルコールは禁止されている。伊原がブランデーや焼酎ではなくビールを飲んでいることからお見通しだ。伊原は本場の蠱術師に会えたのか聞きたがった。

「蠱術を受け継ぐ女性と話ができたよ」

 他の客もいる狭い店内だ。長瀬はかいつまんで話をした。

「血ぃもろてどないするんや」

 伊原の疑問は長瀬も持っていた。大友は春美の血を受け取っているが、それを一体どうするのだろう。

「ぼくにも使い方は分かりません。祖母の店に保管してある古文書を読み解いてみようと思っています」

 不思議なことに、通常凝固するはずの血は瓶の中で鮮やかな赤色の液体のままだという。大友は春眠堂のシャッターを閉めたまま店に籠もるつもりだ。天道聖媽会に監視されている危険がある。

「俺の方も福永から情報が入ってる」

 探偵殺しの現場である幽霊ビル周辺で黒いスーツの男が街に設置されている防犯カメラに映っていたという。同じ背格好の男が神保町の朗読会会場にいて、騒ぎが起きたあとも冷静に現場を観察していたと。

「今は監視社会や。あっちこっちに防犯カメラがある。カメラの精度もええ。びっくりするほどよう撮れてる。悪いことはできひんのう」

 警察も街中に設置してある防犯カメラを辿って犯人を追うことも多いという。伊原はパーラメントに火を点ける。病院では完全禁煙だったため、禁断症状に苦しんだようだ。

「俺がピンで天道聖媽会の本部ビルに挨拶に行ったとき、やたら目つきの悪い男が竜仙のエスコートをしとった。そいつが怪しい。平然と人を殺せる目や」

 伊原は深刻な表情で煙草の灰を落とす。福永に話をしたが、すぐに立ち入り調査をするのは難しいということで、苛立っている。煙に釣られて長瀬もアメリカンスピリットに火を点ける。大友に勧めてみたが、酒と煙草は同時にやらないというポリシーを持っているらしく丁重に断られた。

「あら、おそろいじゃない」

 鳴美がやってきた。シャンパンベージュのキャミソールに白のニットカーディガン、足首を見せる黒のパンツにサンダル姿だ。伊原の横に座り、脚を組む。

「長瀬くん台湾行ってきたんだ。へえ、大友くんは日本と台湾のハーフなの、目鼻立ちくっきりイケメンね」

 鳴美は来月台湾旅行を予定しているらしく、嬉々として大友から現地のグルメ情報を聞き出している。マスターの真島がソルティドッグをテーブルに置く。

「来月までマンゴーかき氷あるかな」

 頬杖をつきながら本気で悩んでいたが、何か思い出したようでコーチのバッグからチラシを取り出す。それは知佳のアパートで見た神世透光教団の教祖生誕祭のチラシだった。

「鳴美さん、ここの信者なの」

「いや、まさか。うちの父なんだよね」

 鳴美の父は栗原記念病院の病院長だ。そんな権威ある人間が新興宗教に所属しているのだろうか。長瀬は神世透光教団の影響力の強大さを嫌悪する。長瀬の神妙な顔を見て、鳴美は笑い出す。

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