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 蠱術師に出会えなかった失意は疲労感を否応なく増大させた。事件に巻き込まれた可能性が高いが、そもそも村で人が生活していたかもわからないし、暗い中で見たのが血痕だったのかも疑わしい気持ちになっていた。そう思いたかったのかもしれない。あまりにも確証が無く、警察に相談するわけにもいかない。

「あのまま村のことは触れずにおこう」

 第六坑道を戻り、長瀬と大友が出した結論は同じだった。やりきれない気持ちで馬祖村の民宿に到着するまで始終無言だった。

 Tシャツは汗まみれ、スニーカーの中が冷たい泥水でぐちゃぐちゃで最高に気持ちが悪かった。民宿ですべて脱ぎ捨てて温いシャワーを浴びるとずいぶん頭がすっきりした。着ていたものを手洗い洗濯しておく。着替えが少ないのでハードローテーションだ。

 もう深夜だというのに、おせっかい好きな民宿の老板オーナーが食事を用意してくれた。老酒麵線は塩気のある細い麺を軽く茹で、フライパンで焼いた丸いふわふわ卵をのせたものだ。スープは老酒の香りがする。馬祖では名物の老酒を使う料理が多い。ムール貝の老酒酒蒸しと紅麹を使った蒸し鶏サラダ、長瀬は狭い土産ものコーナーで馬祖老酒のボトルを買って大友と今日の苦労を労った。

「今夜は条件が揃ってるから藍眼淚を見に行くと良い、とオーナーが言ってます」

 藍眼淚は春から夏にかけて海面が青く光る現象で、馬祖列島でしか鑑賞できないという。

 疲労困憊ですぐにでも寝たいと思ったが、長瀬は民宿のスリッパを借りて大友と海岸に行ってみることにした。月もない夜空には星が瞬いている。海岸に降りて、大友が無理にでも引っ張っていこうとした理由が分かった。

「すごい、本当に青い」

 幻想的な光景に長瀬は目を見張る。海岸に打ち寄せる波がイルミネーションのように青く煌めいている。

「月明かりが無くて、風が波を起こす満ち潮が条件なんだって。この光は夜光虫というプランクトンだと言われているよ」

 これが自然現象とは、まさに地球の神秘だ。

「藍眼淚って青い涙って意味か」

 長瀬は浜辺に座り、潮騒の音を聴きながら青い涙の海を時間を忘れて眺めていた。


 強風でフライトが遅延し、台北に戻ったのは翌日の夕方だった。龍山寺エリアの同じホテルに宿泊することにして、初日と同じ華西街観光夜市で海鮮ベースのスープの担仔麺、牡蠣オムレツ、空心菜の炒め物を注文する。ドリンクは台湾で定番のタピオカミルクティーにした。

「タピオカミルクティーは日本でも流行ったよ」

 タピオカミルクティーの店はヤクザがいち早く目をつけて大流行させた。ドリンクだけなので店の面積は最小限で開店コストが少なく、原価が一割程度と安い。タピオカ増量サービスは実は店側に利がある。ドリンクの方が原価が高いため、タピオカを増量してくれると儲けが増えるのだ。長瀬が書いたこの記事も二番煎じだったがよく読まれた。

「この時期はまだ生のマンゴーが食べられます」

 大友の勧めでスイーツ専門屋台でマンゴーかき氷を注文する。丼に大ぶりのカットマンゴーがこぼれんばかりごろごろ載った練乳がけのかき氷は豪勢でボリューミーだ。マンゴーの実がとろりとして甘く、口の中でつるんと蕩ける。子供のおやつかと思っていたが、こんな贅沢なかき氷があるとは驚いた。

「マッサージ店、気になりますか」

 長瀬がマッサージ店を通りがかるたびにショーウインドウを覗き込んでいるのに気が付いた大友が体験を勧める。

「足ツボを押してもらうと疲れが取れます」

 昨日、島内を歩きまわったために足腰が重い。ものは試しとマッサージ店に入ってみることにした。通りには店がたくさんあり、値段はどこも同じくらいのようだ。

「いらっしゃい、空いてますよ」

 日本語の客引きに足を止めると、強引に店に呼び込まれた。価格も通りの相場だったので受けることにした。足と肩、腰のコースにする。椅子に座ると、足元が大理石の器になっており、そこで足を温める。水気を拭いて足裏マッサージが始まった。

「いてて、あ、痛っ」

 屈強な髭面のマッサージ師にもまれて最初は痛がっていた長瀬だが、だんだん慣れて痛気持ちよくなってきた。大友は慣れているのか寝落ちしている。足のメニューが終わり、肩と腰は別室を案内された。個室に簡易ベッドの施術台がある部屋へ通され、そこで待つよう指示された。

「いいね、マッサージなんて初めてだけどハマりそうだ」

「足の疲れが取れたでしょう」

 そう言えば足が軽い。やる価値はあった。

 突然部屋の奥のドアが開いた。そこに黒い袷の着物を着た男が立っている。店の制服ではない。

「こちらへ来てください」

 有無を言わせぬ雰囲気に、大友も警戒している。男がドアを開けたまま去る。ドアの向こうは薄暗い細い路地が続いていた。

「行ってみよう」

 大友は真剣な表情になり、男の後に続く。コンクリート造りの路地は直角に曲がり、その先に明かりが漏れているドアがあった。ドアの先は壁が真っ赤に塗られた部屋だ。正面の金色の祭壇には媽祖像が鎮座していた。像の前で膝をついて祈りを捧げていた赤い着物の女性が長瀬と大友の気配を感じて振り返る。

「よく来てくれました」

 女性は二十台前半だろうか、長い黒髪を纏め上げ、薄化粧をしている。凜とした眼差しに情に厚そうなふくよかな唇には赤い紅を引いていた。この場所に招待される理由が見つからず、長瀬は戸惑う。

「私は南永島から来ました。島の蠱術師の孫で春美ちゅんめいといいます」

 大友と長瀬は驚愕に目を見張る。まさか、蠱術師の縁者がコンタクトを取ってくるとは。

「坑道で生き延びた祖母は、蠱毒の力を得た強力な蠱術師となりました。彼女を助けた村人は彼女に家族に起きた真実を話しました」

 しかし、彼女は家族を不幸に陥れた人間を呪うことはせず、鎮魂のために毎日祈りを捧げて暮らしたのだという。強力な蠱術師の力を悪用されることを避けるため、深い森に身を隠していたのだ。時折、病気で困った人たちに秘密を共有する者を通じて煎じた漢方薬を分けてやっていた。

「島の蠱術師は善良だった」

 他人を呪わず生涯祈りを捧げて暮らしたという蠱術師は、あの写真の老婆に違いない。長瀬は恐ろしい魔女のような女性を思い描いていたことをいたく反省した。

「そう、祖母は媽祖のような善良な人でした。彼女は心無い者に殺されました。その者の目的は祖母の血を奪うことです」

 春美の声は震えている。祖母は隠遁していた森の家で何者かに刺殺されたという。遺体が見当たらなかったのは、縁者で海の見える丘に密かに葬ったためだ。春美も埋葬を手伝った。

「私は祖母の力を濃く受け継いでいます。あなた方は力が必要ですね」

「はい、必要としています」

 大友の清明な声、その響きに揺るぎはない。

「正しい道に使いますか」

「悪を行おうとする者を止めたいのです」 

 大友の答えを聞いた春美はわかりました、と深く頷いて着物の裾を捲り腕を出す。黒い着物の男がナイフを差し出した。長瀬が止める間もなく、春美は自分の腕を切りつける。鮮血が流れ出し、床に滴り落ちた。男が小瓶で春美の血を受け止める。瓶いっぱいに溜まったところで固く蓋をして赤色の巾着袋に入れた。それを大友に手渡す。

「祖母の血を利用した邪悪な術にどうか負けないで」

 仇を討って欲しい、と春美が恨みを口にすることは無かった。

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