2-7
「阿里山茶といって台湾でよく飲まれている烏龍茶よ。標高千メートル以上の山で収穫されるので高山茶とも呼ばれているんです」
店主が手の平大の白い陶器に茶葉を入れて見せてくれた。茶葉は五ミリほどの深緑の丸い粒状に丸められている。小さな急須と茶器を盆に載せ、大きな鉄瓶で湯をかける。
「こうして茶器を温めておくと美味しいお茶になるの」
「本格的ですね」
店主は頃合いを見て湯を盆に棄てる。盆は二層構造になっており、湯が溜まる仕組みだ。茶葉を急須に入れ、鉄瓶の湯を注ぐ。長瀬は物珍しそうに流れるような茶芸を眺めている。店主が時計をちらりと見やる。急須の茶を口の広い壷に注ぎ、それをまた小さな湯飲みに注いだ。
「どうぞ」
「いただきます」
金色に澄んだお茶は爽やかな金木犀の香りがして、上品な口当たりだ。烏龍茶といえばサントリーのペットボトルしか飲んだことがなかった長瀬はいたく感動した。
「ほら、茶葉が開くとこうなるのよ」
店主が急須の蓋を開けると、丸い粒状だった茶葉が広がって葉の形になっていた。日本では茶葉を粉砕したものをよく見るが、こうして葉の形状が残っているのは初めて見た。
「お茶菓子もどうぞ」
「あ、これ台湾のお土産でもらったことあります」
「そう、鳳梨酥。パイナップルケーキね。私は台湾人なのよ。もう日本で暮らして長いんだけどね」
日本語に外国訛りはなく、全く気が付かなかった。棚に掲げてある賞状に「
不意に店の外が騒然となる。
「一体何かしら」
麗子が大通りに向かう。長瀬も後について店を出た。看板を見ると、文学賞作家の朗読会イベントのようだ。すずらん通りに面した大型書店の前にステージが設置されており、五十席ほど並べられたパイプ椅子はほぼ満席だ。観客が突然ばたばたと倒れたらしく、大騒ぎになっている。十人ほどがブルーシートに寝かされ、救急車を待つ状態だ。青ざめた顔で呼吸が浅い。かろうじて椅子に座っている観客も気分が優れない様子で苦しそうに肩で息をしている。
「急に倒れる人が続出してイベントは中止らしい」
「集団ヒステリーじゃないか」
野次馬たちの言葉に、渋谷のライブハウスの事件が長瀬の脳裏を過ぎる。麗子は冷静に周囲を見回している。空の一点を見つめ、突如踵を返した。
「あの、あなた、手伝ってもらえない」
「は、はい。長瀬といいます」
麗子は小走りに店に引き返す。そのまま店の奥に駆け込んで、何やら物色している。のれんをくぐって出てきたら、その手に直径二十センチほどの龍の取っ手がついた香炉を持っていた。
「長瀬くん、これ、お願い」
麗子は香炉を長瀬に押しつける。茶葉を並べた棚の下段から瓶詰めの乾燥植物を取り出し始めた。
「ええと、これじゃないわ、ああ、どこにやったかしら」
木の根や皮、種のようなものを香炉に投入する。漢方薬の材料のようだ。
「行くわよ」
「あ、はい」
問答無用の勢いに長瀬は従うしかない。麗子は春眠堂を飛び出し、朗読会場へ走る。長瀬は香炉を持って後に続く。
会場ではさらに気分不良の観客が増えているようだ。椅子に座ったまま突っ伏している人もいる。長瀬は香炉を長机の上に置いた。
「あ、火がない」
「俺、持ってます」
長瀬はジッポを取り出す。麗子に言われるまま、香炉に入れた木の根に火を点けた。香炉から細い煙が立ち上り始める。麗子は首に掛けた数珠を手に巻き付け、念仏のようなものを唱え始めた。漢方薬の独特の匂いが漂い始める。
ブルーシートに寝かされていた観客たちの呼吸が安定し、意識を取り戻し始めた。椅子に座ったまま動けなかった人は立ち上がり、よろめきながらも歩いてその場を離れていく。救急車が到着し、まだ動けない五名が搬送されていく。朗読をしていた作家もその中に含まれていた。異常事態の通報を受けた警察官がようやく駆け付けてきた。イベント主催に詰め寄る中年男性、泣き出す作家ファンの女性たち、現場は混乱が続いている。
麗子は念仏を止め、足元を見る。黒い小さな蝶がコンクリートの上で震えている。それを靴先で踏みにじった。
「おそらくもう大丈夫」
麗子は颯爽と店へ戻っていく。長瀬も香炉を持って会場を後にした。
「会場で一体何が起きたんですか」
麗子は片付けの手を止めて長瀬を見つめる。その顔は深刻な色を帯びている。
「あそこで蠱術を使った人間がいる」
「なんだって」
長瀬は思わぬ返答に目を見開く。麗子は大きな溜息をついて新しい茶葉を取り出し、茶を淹れ始める。
「黒い蝶を見たでしょう。あれは蠱術をかけた蝶。それを放って人に害を為した」
「一体どうしてあの朗読会が狙われたんでしょう」
「それは分からない。術をかけた人間はすでにあの場から離れていた」
長瀬は香炉の燃えかすと麗子を見比べる。
「城山さんは蠱術を見破り、それを解いた。あなたは一体」
「長瀬くんはなぜ蠱毒に興味を持ったの」
質問を返されて長瀬は口籠もる。麗子はあの場にいた観客を助けた。悪い人ではないはずだ。彼女の淹れた澄んだお茶の色を見つめているとそう思えた。どこまで話すべきか悩んだ末、すべて打ち明けることにした。
「新宿のホスト怪死事件は知ってるわ。それにひきこもり息子の件も聞く限り、どちらも蠱術をかけられたせい」
麗子は断言した。
「蠱毒は数多の生き物の命と引き換えに呪いをかける、この世に存在する最凶の呪術。長瀬くんは本を探していたけど、当たり障りのない概論本しか無いでしょう。それは門外不出の本当に危険な呪術だからなの」
「それがどうして現代日本で使われているんでしょう」
「蠱毒の呪法は蠱術師の家系に代々極秘に受け継がれてきたの。それが盗まれたのかもしれない。呪法を記した文献の一部が世に出回ることは稀にあったと聞くわ」
欲しい者にとってはいくら金を積んでも手に入れたい代物だという。心無いものが金目当てに漏洩させたことも考えられる。
「書物に書かれた呪法だけでは蠱術は成立しない。私は直系ではないけど、血を受け継いでいる。随分薄まっているけどね。だから蠱毒の呪いを返す
「蠱術を使っている者は蠱術師の末裔なんでしょうか」
そうとばかりは言えない、と麗子は口を閉ざした。ホストとひきこもり息子の死因は蠱毒だと断定できた。天道聖聖媽会と蠱毒の関係を明らかにせねば。
「相手が蠱術師なら本当に危険よ」
「ええ、気をつけます。またお話を聞きに来てもいいですか」
「お茶を用意して待ってるわ」
麗子は憂を帯びた表情で長瀬を見送った。
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