第四章
4-1
伊原は丸薬の効果で蠱呪から逃れることができたが、腹の中に物理的に雀蜂がいたことから胃を洗浄した方が良い、という大友の意見で救急病院へ運ぶことにした。長瀬と大友が面倒くさがる伊原に付き添い、なんとか診察室へ押し込んだ。その風貌から違法薬物の使用を疑われて伊原は不満げだ。理由は悪ふざけをして雀蜂の死骸を飲み込んだ、ということにしてある。
待ち合いには憔悴して項垂れる老人とその家族や、泣きじゃくる幼児をあやす母親と、かなりの患者が診察を待っている。
「伊原さんは大丈夫かな」
救急センター待合の長椅子に座る長瀬は買ってきたブラックコーヒーの缶を弄ぶ。大友のリクエストはコーンポタージュだ。黒縁眼鏡を曇らせながらふうふう息を吹きかけて飲んでいる。
「ええ、おそらく。祖母が書き置きしてくれていて助かりました。もし、蠱毒の呪いを受けたときにはあの薬を飲ませるようにと」
長瀬は麗子の配慮に感謝する。あの丸薬では蠱術返しにはならないそうだ。それでも、今まで被害者を恐ろしい死に目に合わせた蠱毒の呪いを解けたのは幸運としか言いようがない。伊原は武野だか武田だか、偽名を使って入会書類を書いていた。しかし、天道聖媽会は伊原梨沙と血縁関係だと察知して、彼女の入会書類から伊原の本名と生年月日を取得したのだろう。
「名前と生年月日がわかれば人を殺せるなんて、たまったもんじゃない」
長瀬は頭を抱える。蠱毒を使う天道聖媽会は無敵だ。それだけに竜仙が小銭を稼いでいる理由がわからない。
「その教祖竜仙はどこかで入手した古文書の知識をある程度持っていると思って良いでしょう。しかし、蠱毒を操るには力を受け継いできた蠱術者の血が必要です。祖母もその血が薄いために、蠱毒自体を使うことはできません。竜仙はどこからか血の力を手に入れたばかりで、術の力を試す段階なのかもしれません」
「竜仙はどこから古文書や術を操る力を手に入れたんだろう。それに対抗するにはどうすればいいんだ」
長瀬のスマートフォンが振動する。画面を見ると電話の主は鳴美だ。
「もしもし、鳴美さん」
「ちょっと、長瀬くんよく聞いて」
鳴美の声はひどく切迫している。
「塔夜くんのことで天道聖媽会を調べてもらってたじゃない。雇った探偵が行方不明だからって。その探偵が新宿の幽霊ビルで殺されて見つかったのよ」
長瀬は衝撃のあまり、耳に当てたスマートフォンを落としそうになる。
「いったいどうして」
「今夜のニュースに出てるわ。刃物で刺されたんだって。犯人は見つかってないのよ。本当に危険だわ。天道聖媽会のこと、もう調べるのはやめて」
絶対に、と鳴美は念押しして通話を終了した。さすがに現在進行形で調査も進展しているとは話せなかった。
「祖母も心臓をひと突きで殺されたと聞いています。蠱術師だけでなく、実働部隊がいるのかもしれませんね」
「それって、殺し屋、みたいな」
「台湾マフィアは殺し屋を雇います。映画の世界だけでなく殺し屋っているんですよ」
大友の言葉に、長瀬は思わず息を呑む。
処置室から呼び出しがあり、伊原は数日入院し、経過観察をすることになると話を聞いた。胃の中に異物はないが、胃壁が傷ついてかなり状態が悪いそうだ。絶食で検査をするという若い医者の説明に、伊原はひどく落ち込んでいた。
深夜一時にようやく病室が決まり、看護師の案内で病棟へ向かう。伊原は四人部屋のベッドに寝かされ、検査の同意書含めて入院関係の書類を山ほど手渡される。
「くそ、竜仙のやつ、せこいことしよってカスが」
伊原は医師にいい歳して馬鹿な悪ふざけをするなと叱責されたようだ。蠱毒の呪いです、とは言わず大人しく我慢していたことは褒めてやりたい。
「心配なのは姉貴や、あんな危険な奴のところにおって心配や」
「奴らも蠱術が失敗したことを知って、下手に手出しはできないでしょう」
大友の冷静な言葉に、伊原は落ち着きを取り戻す。
「さっき、鳴美さんから聞いたんですけど、俺も竜仙に狙われました。俺が入会書類に嘘の記載をした廃ビルで探偵が刺殺されて見つかったそうです」
長瀬の本名と生年月日は天道聖媽会も分からなかったようだ。それで警告として幽霊ビルに探偵の死体を置き去りにした。探偵も天道聖媽会と渡辺万莉絵の関係から何か掴んでいたのかもしれない。
ベッドを仕切るカーテンが揺れた。現れたのは黒いオーダーメイドスーツを着込んだ厳めしい顔の男だ。長瀬と大友に緊張が走る。
「伊原、調子はどうだ。どうも、伊原が面倒をかけたようで」
男は丁寧に頭を下げる。
「長瀬、こいつは福永や」
伊原に似つかわしくないかっちりした風貌に、長瀬は二人を見比べて訝しむ。
「福永です。警視庁捜査一課の刑事です」
「こいつ俺と同期なんや、出世頭なんだぜ」
「え、同期って、伊原さんてまさか」
長瀬は信じられないという顔で伊原を凝視する。伊原は不満げに頭をかく。
「まさか、じゃねえ。俺は刑事や」
「停職中だから今は違うだろ」
福永は伊原を揶揄する。
福永によれば、伊原は天王寺南署の刑事で、管区内で起きた天道聖媽会の関西支部に対して寄せられた苦情を調査していた。宝歓水と称したただのミネラルウォーターを奇跡の水と偽って高額で販売しており、目を覚ました元信者が警察に相談していた。
伊原は高額な寄付金を払って泣き寝入りする被害者たちに味方して天道聖媽会に対する調査を進めていたが、突然お上から捜査中止命令が出た。それに歯向かったため、一ヶ月の停職処分を食らったという。おそらく、警察に口利きができる政治団体に献金がまわったのだろうというもっぱらの噂だ。
「ま、その特別休暇を利用して、連絡がつかなくなった姉貴を探して上京したってわけだ」
すると、姉が天道聖媽会本部に関わっていることがわかり、一個人として調査をしていたという。
「伊原さんのこと、関西のヤクザの幹部かと思ってました」
長瀬は呆然と呟く。福永はだろうな、と肩を揺らして笑う。
「長瀬くん、こんな良いおまわりさんに向かって口のきき方に気ぃつけぇ」
伊原は不服そうに長瀬をやぶ睨みする。
「警視庁でも天道聖媽会については慎重に捜査を進めている。ある女性の家族から捜索届と多額の寄付をだまし取られた被害届も出ている」
もしや、渡辺万莉絵のことだろうか。彼女は本部のロビーで騒ぎを起して奥の部屋に連れていかれた。長瀬は伊原と顔を見合わせる。
「伊原のお姉さんについても保護できるように動いてみようと思う。ただ、関西支部のやり方から金で捜査を妨害しようとする可能性は充分にあるから、慎重にやるしかない」
それと、と福永は付け加える。槙尾竜仙の素性についても調査しているという。蠱毒の呪いによる逮捕は難しい、と付け加えた。
「あいつは真面目で頭は固いけど信用できる」
伊原は福永の話を聞いて気が休まったようだ。
「ぼくは台北に飛んで力のある蠱術師に会いに行こうと思う」
「え、知り合いがいるの」
大友の祖母麗子は蠱術を記した古文書を守っていた。縁者に蠱術師がいても不自然ではない。
「槙尾竜仙は術を成功させるごとに力を増している。それを止めるにはさらに濃い血が必要です」
大友は黒縁眼鏡を持ち上げた。分厚いレンズの奥の瞳には強い光が宿る。彼も天道聖媽会に祖母を殺された被害者なのだ。
「では、俺も行こう。本場の蠱術師に興味がある」
長瀬も同行を決意した。オカルトドキュメンタリーとしてこれほど興味深い話題はない。久しぶりにライターとしての血が騒ぐのを感じた。
「毒には毒を、か。おもろいやないか」
伊原も渡航する気満々だったが、大友は明日にでも出発するという。伊原は検査入院が必要で、まだ姉の問題も解決していない。一緒に行けないことをひどく悔やんでいた。
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