2-5
いつか心を開いてくれるだろう、そんな希望もずいぶん前に潰えてしまった。有紀子はラップをかけたままの食事に目をやる。指の関節が痛むのを我慢して卓也のために作った昼食だった。野菜サラダに豚肉の生姜焼き、ゆで卵にご飯と味噌汁。いつも栄養バランスは考えている。盆に載せて二階の部屋へ運ぼうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、卓也が部屋から注文したデリバリーピザの配達だった。
もう限界だった。
雷鳴はさらに激しくなり、ガラス戸を滝のように雨が流れていく。
二階で重いものが落ちる物音がした。有紀子はソファに座ったまま力無く天井を見上げる。くぐもった叫び声、そして床を叩く音。有紀子に用事があるとき、卓也は床を踏んで呼びつけた。すぐに行かなければ髪を掴んで役立たず、と引き回された。
「大丈夫、媽祖様が守ってくれる」
有紀子は手首につけた数珠を撫でながら目を閉じる。雨音が小さくなってきた。雷鳴とともに二階の物音も鳴り止んだ。有紀子は立ち上がり、二階への階段を上がっていく。その表情にはなんの感情もない。ドアの前に立ち、ノックをする。返事はない。有紀子は恐る恐るドアを開けた。
閉め切った部屋の中で充満している生ゴミと饐えた体臭がない交ぜになった匂いが鼻をつく。壁際の机の上のパソコンの画面が青白く光っている。部屋の主は有紀子の侵入に抗議する気配はない。
「卓也、いるの」
震える声で呼びかけるが、やはり返事はない。レースカーテンの隙間から稲妻の光が差し込む。床一面にカップ麺の容器や飲みかけのペットボトル、衣類などが散らかった部屋の中央にもの言わぬ巨体が横たわっていた。有紀子は部屋の明かりを点けた。
黄ばんだTシャツにずり下がったジャージのズボン姿の卓也がゴミの上に仰向けに倒れている。目は限界まで見開かれ、だらしなく開いた口から垂れた涎が分厚い頬肉を伝い落ちている。最後に見たときからまた太ったようだ。有紀子は唇を歪めてくすくすと笑い始めた。
「誰なのこのブタ、なんでこんなのが卓也の部屋にいるのよ」
死体を見たのは初めてだった。有紀子は卓也の腹を掃除機の柄でつついてみた。反応はない。有紀子は卓也の突き出た腹を蹴り飛ばす。まだ温かく弾力のある肉の感触がつま先に残る。
「あたしを馬鹿にして、このブタっ」
有紀子は狂気を貼り付けた表情で笑いながら卓也の腹を何度も何度も蹴り始めた。
「お前なんか卓也じゃない」
乾いた笑いはいつしか嗚咽に変わっていた。
「ごぼっ」
閉塞した器官から空気が抜ける音がした。卓也が息を吹き返したのか。有紀子は氷の手で心臓を鷲づかみにされたような感覚に硬直する。卓也の口が大きく開いた。口の中から黒いものが這い出してきた。
「ひいいっ」
有紀子は裏返った声で悲鳴を上げた。それは幼児の手の平ほどもある巨大な蜘蛛だ。全身に黒い毛を纏い、背中と足の節に鮮やかな赤色の模様がついている。一匹、また一匹と卓也の口から次々に這い出してくる。こんなものが大量に体内に潜んでいたとは。有紀子はあまりの悍ましさに吐き気を催し、床に転がっていたゴミ箱に嘔吐した。
卓也の喉からゲップのような音がして、蜘蛛が一気に口から湧き出してくる。有紀子の足元にも纏わり付き始めた。
「きゃああああっ」
有紀子は仰天して卓也の部屋から飛び出した。狭い踊り場で足を滑らせ、急勾配の階段を一気に転がり落ちてゆく。
八月最後の金曜日。長瀬のLINEに伊原から話がしたいと連絡が入った。長瀬は待ち合わせ場所にいきつけのバーたまゆらを指定した。早めの時間だったのでカウンターに二人分の席が確保できた。
「ここ煙草オッケーか、ありがてぇ。マスター、ビール頂戴」
カウンターに座るなり伊原はパーラメントに火を点ける。グレー地にシックな花柄のシャツ、白いパンツにブルーグラデーションのサングラスを掛けている。長瀬も胸ポケットからアメリカンスピリットを取り出すと、伊原がライターを差し出した。
伊原がナッツをつまみながらスマートフォンをカウンターに置く。
「河井いうてこの名前、聞き覚えないか」
長瀬はスマートフォンの画面をスライドする。昨夜川口市で起きたひきこもりの息子とその母親が死亡した事故のニュースだ。息子は部屋で心臓発作、母親は階段から落ちて頸椎を骨折。息子の死に驚いた母が誤って階段から落下したと説明がつく。
「三十三歳、あのおばはんの言うてたひきこもり息子の年齢や」
「母親五十六歳も河井さんの年齢で不自然ではないですね」
伊原はせやろ、と我が意を得てビールを煽る。
「この事件、ひきこもりの悲劇以外に気になることがあんねん」
伊原が事件という言い方をしたのが長瀬には引っかかった。息子の急死とそれを発見した母の事故死ではないのか。
「俺の情報網によればやな、息子が蜘蛛食って死んでたらしい」
「え、どういうことですか」
長瀬は首を傾げながら伊原の顔を覗き込む。
「毒蜘蛛や、もさもさ毛生えてたらタランチュラ言うんやって。日本におる華奢なやつでのうて、インディ・ジョーンズに出てくるようなやつ」
つまり、海外にいるような大きな毒蜘蛛と言いたいようだ。
「死体の周りに毒蜘蛛がぎょうさんおったらしいわ」
「それ、新宿のホストの事件に似てますね」
新宿のホストは大量のムカデを吐いて死んだ。ひきこもり息子の死亡状況は詳しく分からないが、毒性の生き物が腹に詰まっていたという共通点がある。
「河井のおばやんが特別拝観の後にお偉いさんに別室に連れていかれるのを見たんや。怪しい思わんか。息子を殺したい動機はあったやろ。しかし、毒蜘蛛を食わせろとアドバイスしたとは思えんし、謎が謎を呼ぶな」
伊原は神妙な顔で顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「あ、長瀬くん、いたいた」
栗原鳴美だ。カウンターに座る長瀬を見つけ、手を振る。カウンターに座っていたカップルが一人分席を空けてくれたので長瀬の横に座る。
「マスター、スッキリ系のよろしく」
「かしこまりました」
鳴美は電子煙草を取り出したところで長瀬の隣に座る伊原を見つけた。
「え、長瀬くんの友達なの」
「親友の伊原です」
調子の良いことを、と長瀬は呆れるが訂正が面倒なのでやめておく。
「うっそ、カッコいいじゃん。栗原鳴美です」
鳴美は長瀬を挟んで伊原を握手を交す。マスターの真島がアラスカをテーブルに置く。伊原と鳴美の自己紹介がてらの雑談が盛り上がる間、長瀬はアメリカンスピリットを吹かしながらジントニックを傾ける。
「伊原さんておもろいわ」
「関西弁うつってますよ、鳴美さん」
話を聞いていた長瀬は伊原は頭の回転が速いと感じた。流暢な関西弁の勢いもさながら、話題が豊富で人を惹きつける魅力がある。
「そうそう、天道聖媽会の件は何か進展あったの」
鳴美がここで訊ねてくるとは思わなかった。伊原の纏う雰囲気が変わった。
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