1-7
品川駅に隣席する駅ビル二階のカフェのテーブルにつく。周囲は若いカップルや女性同士、陽気な会話が途切れることはない。
「お待たせ、お兄ちゃん」
ブラックコーヒーを注文したところで知佳がやってきた。形の良いマッシュルームカットの黒髪、手編み風のカーディガンと白地に青い花柄のワンピース、サンダル姿だ。小柄で細身なので実年齢の二十六歳よりもかなり若く見える。
「注文、何にする」
「えっと、ここのお店タルトが美味しいんだよね」
知佳はメニューを指でなぞる。
「おごってやるよ」
「え、いいの。嬉しい」
知佳は長瀬を上目遣いで見やり、ぎこちなく微笑む。まるで笑顔のやり方を忘れて、説明書を読んで練習しているような表情だ。昔の知佳はそうじゃなかった。
明るく活発な知佳は友達が多く、中学ではバスケットボール部に入って練習も頑張っていた。小柄なぶん俊敏で、チームでも活躍していると自宅に遊びにきた同級生が知佳を褒めていた。
知佳が変わったのは母の離婚、そして神世透光教団への入信だ。母は離婚の精神疲労と慣れないパート仕事でストレスを抱え込んでいた。それまで温厚で優しかった母は口を開けば元夫への愚痴と人生への悲観、重苦しい溜息を繰り返した。そんな母を見ていた知佳は自分だけ楽しい学校生活を送ることに後ろめたさを感じるようになり、やりがいだった部活も辞めてしまった。
母がパート仲間に神世透光教団へ勧誘され、入信してからはさらに状況は悪くなった。母は奉納金だといって家の金を根こそぎ教団へ寄付した。長瀬は時々知佳を連れて母に黙って歯科医師の父に会いに行った。父はファミリーレストランで腹一杯ご飯を食べさせてくれ、母に内緒だとお小遣いをくれた。それを教団の信者が見ていたらしく、長瀬と知佳は怒り狂った母に何度も殴られた。母の行為は宗教をかさに着た虐待だった。
「お前たちは悪魔の施しを受けるのか、飢えて死んだ方がましだ」
母は浮気をした父を悪魔だと言い張った。十七歳だった長瀬は体格で母を圧倒していたが、反撃することはできなかった。狂っても母親だ、手を挙げるわけにはいかない。長瀬は堪えた。それが正しかったのかは未だに分からない。
「夏のフルーツタルトとアイスティーです」
鼻から突き抜けるようなアニメ声の店員が伝票をテーブルに置く。呆然と机の一角を見つめていた長瀬の耳に現実の音が戻ってきた。
「仕事は順調か」
知佳は専門学校を出て川崎で理容師をしている。最初に入った店は店長につきあってくれと強引に言い寄られて半年で辞めることになったが、次の店は長く続けているようだ。
「うん、お店のひとたちともうまくやってる」
知佳はアイスティーにミルクとシロップを入れる。
「わあ、大きな桃だ、嬉しい」
「知佳は桃が好きだったな」
歯科医師だった父の元にはいつも高級なお中元やお歳暮が届いた。毎年見事な桃を送ってくる知り合いがおり、長瀬は知佳はそれを楽しみにしていたことを思い出す。
「みんな良い人たちでね、仕事終わりにはご飯にいくこともあって」
「そうか、続けられそうか」
「うん」
知佳とは目線が合わない、と思う。彼女は無意識なのだろうが、他人と視線を合わせられないのだ。長瀬もそうだ。強く意識しなければ相手の顔を直視することができない。視線が怖いのだ。自己肯定感が低く相手にどう見られているか、それに怯えている。信者となった母と暮らした時間が長い知佳は心に負った恐怖と傷は深い。
「お兄ちゃんの書いたコンビニグルメ特集の記事、面白かったよ」
「読んでくれたのか、なんだか気恥ずかしいな」
グルメネタやお役立ちグッズの紹介など、当たり障りの無い記事がネットに掲載されたとき、知佳にLINEでアドレスを送っている。それが生存確認でもあった。知佳も読んで感想を送ってくれる。この手の記事は若い女性がターゲットなので、知佳の意見は参考になった。
「そうえいば、この間おすすめだって教えてくれた新宿駅西口の中華そば専門店、行ってみたらインド料理の店になってたよ」
「え、マジか。あの店のスープはにぼしから出汁を取っててコクがあって美味かったのに」
長瀬はスマートフォンの地図アプリでマーキングしていた店を確認する。そこにあったはずの中華そば店はインド料理店に変わっていた。
「西口はラーメン激戦区だからな。また良い店見つけたら教えるよ」
「うん、楽しみにしてる」
知佳はタルトの上に載った大きな桃を頬張って笑ってみせた。二年前、婚約が破談になったときにリストカットをしている。赤い筋が微かに左手首に残っているのが痛々しい。手首に派手なブレスレットをつけて傷を隠している。
母と絶縁した今、彼女は立ち直ろうとしている。今の様子を見ると心配することはないだろう。
長瀬は知佳と別れたあと、五反田の漫画喫茶のパソコンつき個室で天道聖媽会の集会についてのレポートをまとめ、仮眠を取った。それから新宿ゴールデン街の怪談バーたまゆらへ向かう。狭い敷地内に店が密集し、その一軒一軒に客がひしめいている。まるで蜂の巣のようだ。アングラな雰囲気も相まって敷居が高く感じられるが、お気に入りの店を見つけて行きつけを作れば心地良い居場所となる。ゴールデン街で行きつけの店を持つのが通だと言う者もいる。
たまゆらに入ると、鳴美がカウンターに座りソルティドックを傾けていた。長瀬の席は予約済のようだ。
「長瀬くん、宗教のやつ、面白くなってきたみたいじゃない」
鳴美の興味はお気に入りのホスト塔夜の死の原因よりも天道聖媽会に向いているようだ。
「本部で呪いの儀式とかしてるのかな」
「一般向けに解放されたイベントではそこまで危険な雰囲気はありませんでしたけどね」
それが危険だ、と思う。最初からシューキョーですなんてアピールしたら敬遠される。そこでグルメや芸術など、興味を引く題材で呼び込みをして仲間を作り、徐々に引き入れていく。それがやり口だ。
「今度、入信してみるつもりです」
「ええ、大丈夫なの、長瀬くん」
潜入調査をしろと言いながらも深入りすることに、鳴美もさすがに心配しているようだ。
「そうでないと腹の内は探れませんからね」
「くれぐれも気をつけてね、ミイラ取りがミイラになるっていうじゃない」
「俺は神も仏もオカルトも信じてないですよ」
長瀬は冷笑してビールを煽り、アメリカンスピリットに火をつける。
「この店でそんなこと言うと出禁にするぞ」
マスターの真島が長瀬に人指し指を向ける。
「そのくらいの方が安心ね。でも、調べてくれてありがとう。やり過ぎないでね。もし万一、ムカデを使って塔夜を呪い殺すような集団だったらめちゃくちゃ危ないわ」
長瀬は低い天井に向けて煙を吹かす。
「ねえ、これがジェイソンってやつ」
「違うよ、これはレザーフェイス。悪魔のいけにえの主人公だよ」
「チェーンソー持ってるじゃん」
「ジェイソンはチェーンソーを使ってないんだよ」
背後のテーブル席でホラーオタクが連れの女性に熱っぽく説明している。店の壁には所狭しとホラー映画のポスターが貼られている。オタクはジェイソンとレザーフェイスの違いを説明し始めた。彼女の引き気味の表情には面倒くさいと書いてあった。
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