第四章 二人、一緒に

卒業に向けて

 教員の採用試験は初夏から夏にかけて行われる。まず筆記の一次試験があって、それから実技と面接の二次試験だ。

 最近は倍率が下がってきているとはいえ、それでも試験自体の合格が難関なことに変わりはない。毎年多くの受験生がいるし、現役の先生だって受けているのだ。学生が一発合格することの方が珍しいと言われている。


 そんな採用試験に向けての勉強はもちろん大学側のサポートもあったけど、一番は結衣が近くで支えてくれたことが大きかった。


「私、イツキに沢山迷惑かけちゃってるから……せめてこれくらいはしてあげたいんだ」


 そう言って結衣は俺が試験勉強に集中できるように、俺の身の回りのことをほとんどやってくれた。

 分担して行っていた家事を結衣が全てやるようになり、勉強に集中できるような環境を整えてくれた。


「一緒にいると気が散っちゃうかもしれないから……ね?」


 そう言って結衣が自分から俺と離れる時間を作ってくれた。

 そうやって自分から積極的に俺から離れることができることを嬉しく思うと同時に、結衣が傍から離れてしまって寂しいという複雑な思いも抱いてしまったり。


 俺から離れて生活できるようになることが目標なんだから、これはいい変化なんだけど……やっぱり俺も人間だし、好きな人と離れるのは寂しく感じてしまうのだ。

 もちろんそんなことは結衣には伝えていない。俺が離れ難いと感じていることが結衣に知られてしまったら、結衣がまた俺から離れなくなってしまうかもしれないし。


 この気持ちは、結衣がしっかり依存症と向き合って、普通の生活が送れるようになってから「昔はこんな気持ちだったんだ」って思い出話の一環として伝えればいいのだ。

 俺と結衣はこれから先ずっと一緒にいるんだから、そんな話をする機会はいくらだってあるはずなんだからな。











 俺と結衣はゼミの先生に頭を下げて、結衣の卒論に向けてのアレコレをリモートで行ってもらうように頼み込んだ。

 結衣はあんな状態だったにもかかわらずめちゃくちゃ努力して、四年生の前期日程で卒論以外の卒業に必要な単位を全て取り終わる見込みだった。


 だから、卒業後に考えていた俺の実家への移動を在学中から実行に移すことにしたのだ。

 そのためにゼミの先生の理解と協力が必要で、リモートで卒論の指導をしてもらうのもその一つだ。


 もちろん俺の実家に結衣が移るっていうことは、病院の先生にも相談している。幸いにも病院の認知療法やカウンセリングなんかもリモートでやってもらえることになっているし、服用する薬なんかは俺の実家の近くの病院で処方してもらえるように手配をしてくださるらしい。


「今は結衣さんの気持ちもとても上向きになってきていますから。できるときにできることをしていきましょう」


 そう言って優しく微笑んでくれた先生に、俺と結衣は深く頭を下げたのだ。


 大学の先生からの了解も得ることができた。

 元々去年から大学側には結衣の状態を伝えていたこともあって、反対されることもなくスムーズに話を進めることができた。


 俺と結衣は二人で話し合って、結衣が俺の実家に移るのは俺の試験が終わった後、夏休みが終わる頃に移動しようということになった。

 結衣が俺の勉強のサポートをしたがったこと。試験が終わってから二人の時間を作りたがったこと。この二つをクリアする時間を確保するための期間だ。


「結衣。一度俺の実家に移ったら、卒業までは俺と一切会わないってことで……いいんだよな?」

「……うん、大丈夫。私、決めたから」


 結衣は一度俺の実家に移ったら、卒業式の日に大学に来るまで俺と会わない。

 これは俺から言い出したことじゃなくて、結衣が自分から言い出したことだった。


「無理しなくていいんだぞ。俺だって試験が終わったらそこまで忙しくないんだ。別に卒論の合間を縫って会いに行ったって全然かまわないんだ」

「……ううん。そう言ってもらえるのはとってもとっても嬉しいけど……それじゃあダメなんだ。それじゃあいつまで経っても私はイツキに甘えちゃうから……」

「結衣……」


 俺のアパートの一室で結衣と二人で過ごしている時に結衣が語ったのは、結衣が秘めていた決意で。


「私ね、ちゃんと立ちたいの。イツキに寄りかかって、イツキに依存してないと立てないなんて……そんなのおかしいから。そんなんじゃイツキに迷惑かけちゃうだけだから……。だから、私はちゃんと一人で立てるようになりたいの。一人で立って、イツキに寄りかからなくてもイツキの隣を歩けるようになりたいの」


 声と瞳に力を込めて、何なら拳も握りしめて俺に伝えてくれた結衣。

 心が壊れて、薬とセックスに縋って、俺に捨てられる恐怖と不安で取り乱していた結衣が、こんな……。


 はは……なんだ、結衣に無理しなくていいなんて言っておいて、本音は俺が寂しいだけじゃないか……。

 結衣が決意して頑張ろうとしてるんだ。俺だって頑張らなきゃダメだろ!


「結衣……わかった。結衣の言う通りにしよう」

「ありがとう、イツキ!」


 そう言って俺に抱き着いてきた結衣を、俺は力いっぱい抱きしめ返したのだ。

 結衣……頑張ろうな。











 それからは俺の試験勉強に力を入れたり、結衣の荷物を少しずつまとめていったりとこれからに向けて準備をしていった。

 陸と橘さんにも事情は伝えていて、二人とも結衣と離れることを寂しがってくれたけど、それと同時にそれ以上に応援もしてくれた。


「結衣~! 絶対会いに行くからね! 連絡してよね!」

「沙織……うん。絶対連絡するね! まぁまだイツキの実家に行くのは先の話なんだけど……」

「あー! うちが寂しがってるのにそういうこと言うんだー!」

「だって今から泣かれても困るじゃん!」


 なんて結衣と橘さんが二人でじゃれ合っているのを陸と眺めたり。


「陸は試験どこで受けんの? 地元?」

「地元だと沙織とちょっと離れちゃうからなぁ……まあ俺自身はどこで受けても構わないから、たぶん沙織の地元で受けるかも。沙織は地元で就職したいって言ってたし。それに俺の地元と沙織の地元もめちゃくちゃ離れてるわけじゃないからな。なんとかなるでしょ」

「ふーん……そっかぁ」

「樹は?」

「俺は地元で受けるよ。結衣も俺の実家に預けるし」

「それもそうか」


 そんな会話をした後試験に臨んで。

 一次試験をパスして、二次試験。面接や実技なんかの試験をこなしてヘロヘロになって家に帰った俺を結衣が癒してくれた。


「お疲れ様、イツキ」

「ありがと、結衣。疲れたぁ……」


 ベッドに座った結衣が俺に膝枕をしてくれる。

 柔らかく温かい太ももの感触が後頭部に触れる。俺の頭をさらさらと結衣の手が撫でてくれた。


 結衣の膝から見上げた結衣の顔は、瞼も腫れぼったくないし瞳も充血していない。血色もよくなっていて、一年前とは比べ物にならないほど健康的だ。

 結衣の左手首から包帯が取れて傷跡が無くなってから、もうずいぶんと時間が経った。


「なぁに? そんなに私の顔見つめて……」

「いや……結衣は相変わらずかわいいなぁって」

「な、何言ってるの!? もう……イツキだってカッコいいじゃん……」

「そうかな……? そんなこと思ったことないけど……結衣がそう思ってくれるなら嬉しいかも」

「イツキはいつだってカッコよかったよ……小さい頃からずっと……」

「そっか……ありがと」


 そうやって俺と結衣は穏やかな日常を過ごして。

 夏休みが終わる直前に、俺の実家に向かったのだ。

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