地獄の底にあるのは絶望だった

※性犯罪に関する描写があります。注意してください。











 高校一年生の冬休みだった。

 私にとって思い出したくもない、本当の絶望の日々が幕を開けたのは。











 学校でのいじめが無くなって、私は安堵していた。いじめに加担していたり、いじめを傍観していたクラスの人間を許すことはできなかったけど、その時の私にはとにかくいじめが無くなったという安堵感が大きくて、クラスの人間のことは意識の外だった。

 いじめの主犯たちの停学処分がいつ解けるかは聞かされていない。そのまま学校を辞めてくれないかな、と内心は思っていたけど、口には出さなかった。そんなことを伝える相手もいないし。


 学校からは私の両親にいじめのことが伝えられていた。私を全く見ていなくて、私のいじめに全然気づいていなかった両親はいじめの話を聞いて動揺していた。今更のように「気づかなくてごめんね」なんて言われても、私には何も響かなかった。

 イツキとのメッセージや電話のやり取りは、まだ完全には戻せていなかった。なんとか返事はしているけど、やっぱりふとした瞬間にいじめられていた時のことがフラッシュバックして、イツキに話してしまいそうになるから。


 そんな状態の中、冬休みを迎えた。


 この時の私はまだ知らなかった。一度向けられた人の悪意というものは、際限がないのだと。

 特に、自分が悪いと思っていないような人間なら猶更だ。


 はたから見たら完全な逆恨みでも、まるで自分たちに正当性があるような態度で人の尊厳を踏みにじってくる。

 少なくとも、私をいじめていた人はそうだった。











 その日は、一人で外に出かけていた。

 特に何か用事があったわけじゃない。ただ、クリスマスに向けて浮かれている家族が、私の顔を見るたびに申し訳なさそうな顔になるのを見るのが嫌だった、それだけだ。


 今まで私のことなど見向きもしていなかったのだから、別にこれからもそういう態度でいてくれたって構わないのに。今更のように私のことを気にかけられても、私にだってどうしたらいいのかわからない。

 家族に対する感情の置き場が無くて、私は外で頭を冷やそうと思ったのだ。


 クリスマスムード一色の街を歩く。クリスマスツリーがそこかしこに飾られていて、イルミネーションがキラキラ輝いている。店先の売り子は赤いサンタのコスプレをしていて、クリスマス本番でもないのに街には仲睦まじいカップルがいて。


 ……イツキが引っ越さなければ、私もイツキとああしてカップルになって、クリスマスを迎えることができていたのだろうか。高校でいじめられることもなく、笑ってイツキの傍にいることができただろうか。

 ありえない、もしもの世界。私の欲して止まないそんな世界が、存在する可能性があったのだろうか。


 寒さでぼぅっとした頭でそんなことを考える。

 大好きなイツキと過ごせたかもしれない幸せなクリスマスを。


 そんな時だった。

 私に二人組の男子が声をかけてきたのは。


「ねぇ、君一人?」

「俺たちと遊ばない?」


 珍しい、絶滅危惧種のようなナンパの誘い文句。

 髪の毛を派手に染めて、ピアスやチェーンのネックレスみたいな、派手なアクセサリーを身に着けた軽薄な見た目。


 無視して横を通り過ぎようとしたら一人に道を塞がれてしまった。踵を返してきた道を引き返そうとしたら、いつの間にかもう一人が後ろに回り込んでいた。


「……なんなんですか」


 前後に挟まれ、そのまま位置をくるっと回転させて、私を挟むようにして両隣に来た男子たちに声をかける。

 突然知らない男子にこんなことをされて、私の内心は恐怖で染まっていた。


 やだ……怖い……イツキ……。


「そんな睨まないでよ。ちょーっと俺たちに付き合ってほしいだけだからさ」

「俺達も頼まれてんだよね」


 口ではそんなことを言いながらも、有無を言わせない態度で私の両隣から話しかけてくる。

 私が進む方向を器用にブロックして、進めば進むたびになんだか段々と人気の少ないところに向かわされている気がする。


「ちょっと……本当になんなんですか。あなたたちの事情なんて知りません。どこかへ行ってください、警察呼びますよ」


 私がそう言うと、男子たちは「おーこわ。話とちょっと違うじゃん」なんておどけて見せる。

 男子が何を考えてるかわからなくて怖い。私はイツキしか仲のいい男子がいなかったから、男子の表情とか言葉とかで、どんな考えをしていてどんな行動をとるかなんてわからない。


 得体の知れない何か。私は咄嗟にポケットに入れてあるスマホを手に取って、走って逃げて警察に電話をかけようとした。

 かけようとしたのだ。


 でも、それは叶わなかった。


「なっ――」


 ポケットに手を入れた私の腕を掴まれる。突然のことで体が硬直している間に、口を塞がれた。

 そしてそのまま、女の私では到底かなわない力で近くの路地に連れ込まれた。


「んー! んー!」


 必死に声を上げようとしても、口を押えられているからうめき声しか出てこない。

 暴れようにも両隣から腕を抑えられていて、私の力ではどうやったって抜け出せなかった。


 やだ! 怖い! やめてよ!


 声に出せない恐怖が心の内を駆け巡る。

 そんな私に、聞き覚えのある声がかけられて。


「乙倉さん……あなたのせいで、私停学になっちゃったじゃない……」


 私をいじめていた主犯格の女子生徒が、昏く、怒りを宿した目をして私を睨みつけてきた。


「あなたが、先生に告げ口するから……! あなたが……あんたが! あんたのせいで停学になって! あんたのせいで彼氏にも振られて! あんたのせいで友達にも見捨てられて! あんたのせいで! 全部全部あんたのせいよ!」


 理不尽だ、と思った。

 私をいじめてきたのはあなたで、あなたのせいだと泣きたいのは私の方だ。


 私は何も悪いことはしていない。私が一体あなたに何をしたっていうの……!?


 でも、男たちに押さえつけられている私には、そんな思いも表現することができなくて。


「――だから、あんたには……私より下に堕ちてもらわなきゃダメなの。そうじゃないと、私が安心できないの。……お願いね?」


 最後のお願いは、誰に向けたものだったのか。

 男たちが「仕方ねーな」「俺も本当はやりたくないんだよ?」なんて言いながら、私のことを地面に強引に押し倒してくる。そして、私の着ている服に手をかけてきた。


 そこまでされて、私は自分が何をされようとしているかを理解した。理解してしまった。


 やだ……! やだやだやだ! やめて! やめてよ! なんで私なの!? なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの!? 触らないでよ! 汚い手で触らないでよ……! はイツキのもので……! やだよぉ……! やめてよぉ……! 助けてイツキ――!


 ――――そうして私は、イツキにあげたいと思っていた何もかもを、人としての尊厳と一緒に奪われたのだ。











 それからの記憶は朧気だった。

 自分が自分でなくなったみたいで、どうにもならなかった。


 行為の動画を撮られた私は、それを脅しに事あるごとに呼び出され、犯された。「ネットにばらまかれたくなかったら大人しくしていろ」なんて、よく聞く定番の脅し文句だ。


 大半の人はさっさと警察に行けって言うだろう。私だって正気ならそう思う。

 でも、実際に脅されている人間は……そんな行動をとる気力すら犯され尽くされ、根こそぎ奪われる。


 行為を強要されていない時間は、強引にその時の記憶を頭から追い出して、何とか日常生活を送って、って思い込もうとする。犯され脅され泣き喚いてうずくまってる惨めな人間じゃなくて、まっとうな高校生活を送る普通の人間なんだって。

 そうでもしないと頭がおかしくなって、発狂してしまいそうだった。


 初めて犯された日から、私はイツキにメッセージを送れなくなってしまった。

 イツキにメッセージを送ったら、私のことがイツキに伝わってしまうんじゃないかと思ってしまって、イツキにメッセージを送ることができなかった。電話なんて猶更だ。


 でもイツキをブロックするなんて考えられなくて……返事もしてないのにイツキが送ってくれるメッセージだけが私を支えてくれた。

 一人泣きながらイツキから送られてきたメッセージを見つめて、中学までのイツキとの写真を眺めて……。


 いつの間にか私は進級して、高校二年生になっていた。三学期の記憶なんてほとんど残ってない。犯されている時の絶望と、イツキのメッセージで心を繋ぎとめている時間。

 それしか覚えてなくて、そんな状態だったから全然わかってなくて。


 返事を返さない人間に、いつまで経っても連絡を取り続ける人間なんていない。そんなのちょっと考えればすぐわかることなのに、この時の私はそんなことすら理解できないほど擦り切れていて。


「最後に、イツキから連絡が来たのって……いつ?」


 イツキからの連絡が届かなくなっていたことに気付いた時、私の心は音もなく崩れ去ったのだ。

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