何万回の夜を過ごしても忘れないような、愛してるを君に送るから

 大学を卒業した俺たちは、俺の地元に帰っていた。結衣はそのまま俺の実家に住んでいる。

 大学を卒業して社会人になる前の時間、俺は一人で結衣の両親に会いに行った。


「金銭的な援助、ありがとうございました」

「私たちがあの子のためにできることは、これくらいしかありませんから……」


 結衣の実家で話し合った結衣の両親は、やつれてはいなかったもののどこか疲れた様子だった。

 俺にはこの人たちがどんな思いで結衣に接していたのだとか、今の結衣に対してどんな思いを抱いているのかなんてわからない。


 わからないけど、少なくとも……俺が勝手に想像していたよりも、結衣のことを心配してたんだなって。

 直接顔を合わせたらなんとなくそのことがわかった気がした。


「今はまだ難しいですけど……いつか、結衣さんとお話しできる日がくるといいですね」

「……ええ。本当に……あの子には、なんて言ったらいいか……」


 少し他人事みたいになってしまったけど、俺はこのことに関しては結衣に無理をさせるつもりは全くないから仕方ない。

 俺が一番大事なのは結衣だから。それは何を見たって、何を言われたって変わらないから。


 ――なんだか無性に結衣に会いたいよ、俺。











 ぶっちゃけて言うと、俺は採用試験には落ちていた。サポートしてくれてた結衣には申し訳ないけど、こればっかりは仕方ない。そもそも五人に一人くらいしか受からないし、受験生の何割かは現役の先生だったりするのだ。

 大学の先生にも言われたけど、現役大学生の時の試験なんて落ちるのが当たり前。別に気にする必要はないって。


 それに教員は試験に受からなければなれないわけじゃない。俺は免許取得に必要な単位を全て取っているから、教員免許は問題なく発行された。

 教員免許さえ持っていれば、後は自治体に登録して臨時講師という名目で各々学校に配属されるのを待つだけだ。


 基本的に教員は人手が足りていないから、臨時講師として登録しておけば先生になれないなんてことはない。だったら採用人数増やせよなんて思うかもしれないし、俺も思ったけどそれは俺にはわからない事情があるのだろう。

 俺は地元の自治体に臨時講師としての登録を出していて、もうすでに配属先も決まっている。実家から少し離れたところにある公立高校だ。


 実家から通えないこともない距離にあるけど、俺は敢えて勤務先の高校の近くにアパートを借りて一人暮らしをすることにした。

 結衣は半年近く俺と離れて暮らすことができて、俺が近くにいなくても生活ができるということに随分と自信を持つことができるようになった。


 それはとても上向きの変化で、リモートでカウンセリングにのってくださってた先生からも「短期間で随分回復しましたね。日常生活を送ることに関してはもう大丈夫でしょう」というお言葉を頂いた。

 ただ、それでも結衣の心は完治したわけじゃない。そもそも完治することがあるのかって言われると難しいものでもあるんだけど……やっぱり、止め続けるっていう状態を維持する努力はしなきゃいけない。


 俺の本音としては今すぐにでも結衣と一緒に暮らしていきたいところだけど、まずは少しの間別々に暮らして、普通の恋人同士みたいに過ごそうって結衣と話し合ったのだ。

 その時結衣が俺の実家から出て行くって言いだしたこともあったけど、それは俺がお願いして止めてもらった。ていうか母さんが結衣を手放したがらなかった。


「こーんないい子を外に放り出すなんてことするわけないでしょ! 出て行くなら樹が出て行きなさいよね!」

「最初からそのつもりだけど、言い方ァ!」


 ギュッと結衣を抱きしめながらわりと酷いことを言ってくる母さんに言い返しながら、俺は新居に移り住んだ。


 それから俺は一人暮らしをしながら、高校の教員としての生活を始めた。

 流石に一年目からいきなり担任をもつわけじゃない。そういったことをさせる学校もあるって聞いたことはあるけど、幸いにも俺が配属された学校はその辺り優しかったみたいで。


 俺は副担任として担任の先生の補助をしながら、試験に向けて現場でいろいろなことを学んでいった。

 やっぱり学校の勉強と現場は全然違ってて、もちろん学校の勉強で役に立つこともあるけど、ほとんどは日々現場で起こる新しいことに対処しながらその都度学ぶことばかりだった。


 初めてちゃんと教員として現場に出るとわかる。教育実習の時は実習生だったから相当気を使っててくれてたんだなって。

 俺は慣れない現場に毎日ヘロヘロになりながらアパートに帰っていた。


 アパートに帰ると週に何日かは合鍵を渡している結衣が俺の部屋にいて、ご飯を作ってくれていた。


「あ、おかえりー!」


 玄関のドアを開けるとスリッパの音をパタパタと鳴らしながら、結衣が俺の傍まで駆け寄ってくる。一度俺に抱き着いてから離れると、俺の持っている荷物を受け取って部屋まで運んでくれる。

 大学生の頃、一緒に住んでいた時は結構見慣れた光景だったんだけど……今改めてこういったことをしてくれる結衣を見ると、胸に熱く感じるものがあって。


「結衣……ありがとな」

「きゃっ……いきなりどうしたの? もー……」


 後ろから結衣に抱き着いて、俺は感謝の気持ちを伝えたのだ。


 それからなんと結衣は、社会復帰のために近所のスーパーでパートとして働き始めた。

 レジ打ちしたり、品出ししたり、接客したり……当たり前の仕事なんだけど、その当たり前のことができるようになったことがとても嬉しかった。


 結衣がパートを始めたことに、何故か俺の両親が俺と結衣自身よりも喜んで、結衣の出勤初日に盛大にパーティーを開いたらしい。俺はその日普通に平日で仕事があったから行けなかった。「そういう時は事前に俺に知らせて! 俺も有給とるから!」って後から親には文句を言っておいた。

 それから母さんなんかは、時々結衣が働いている姿を遠目からちらっと見に行っているらしい。それ絶対バレないようにしといてよね。恥ずかしいから。


 結衣は卒業してからも時々橘さんと遊んでいるみたいだった。連絡のやり取りも頻繁にしているみたいだし、これからも二人仲良く過ごしてくれればなと思うばかりだ。

 橘さんの地元は遠いわけでもなく、近いわけでもなく。電車で一時間くらいの絶妙な距離にあるらしい。時々会って遊ぶくらいなら問題はなさそうだった。


 陸は言っていた通り橘さんの地元の採用試験を受けていて、こっちも俺と同じで落ちていた。だから俺と同じように臨時講師として橘さんの地元で働いている。

 結衣と会わない週末に時々会って話をしたりしている。陸と橘さんはどうやら順調みたいだった。


「俺と沙織は同棲してるけどさぁ、樹と乙倉さんはいつ同棲すんの?」

「俺の中で考えているものはあるけど、まだ結衣には伝えてないかなぁ」

「ふーん……まぁなんとなくはわかるけど」

「わかっても黙っててくれよな」


 そうやって日々を過ごしていって、夏にはまた試験を受けて。

 ちょうどお盆の時期に試験が被っていたから夏は結衣とどこにも行けなくて、そのかわり秋の連休は泊りがけで夢の国にまで足を運んだ。


「わぁ~! すごいすごい! 見てイツキ!」

「はえ~……流石夢の国……」


「きゃあーー!! すっごーいっ!!」

「ジェットコースターはやばいってぇぇぇぇぇ!!」


「あ、これ美味しい。イツキも食べる?」

「もらおっかなー……確かに美味いな」


 結衣と手を繋ぎながらいろいろなところを見て回った。


 結衣はもう、俺が視界に映らなくてもパニックに陥ることが無くなった。俺の腕の中じゃなくても、ちゃんと眠ることができるようになった。

 自分のことを「汚い」とか「価値がない」なんて言うこともなくなった。


 ……長いような、短いような、何とも言えない時間だった。ここまで回復するのにかかった時間だと思えば、とても短かったのかもしれない。でも、結衣が苦しんだ時間はもっとずっと長くて……。

 その結衣が、やっと普通に笑えるようになった。普通に過ごせて、普通の日々を送ることができるようになった。


 薬に頼らなくていい。自傷行為に頼らなくていい。俺に依存しなくていい。

 ようやく普通になれたんだ。ここからが結衣の幸せのスタートラインなんだ。


 この結衣の普通を守らなければいけない。普通を守って、それを積み重ねて……それで、結衣に幸せになってもらわなければいけない。

 結衣を幸せにしてあげたい。何度も何度も思ったことだ。これからだって何度も何度も思うんだ。


「イツキ? 何か考え事?」

「ん……そうだな。考え事だ」

「イツキが素直に認めた!? 中学の頃だったら大きな声出して誤魔化してたのに!」

「いつの頃の話してんだよ!?」


 結衣……一緒に幸せになろうな――











 クリスマスの日。去年は離れ離れだったこの日も、今年は一緒に過ごすことにしていた。

 相変わらず結衣は「特別なことはしなくていいよ」って言っていたけど、今年はそうはいかない。


 俺はある決意をもってこの日を迎えていたのだ。

 そう、決意だ。一世一代の大勝負を仕掛ける決意だ。誰かと戦ってるわけじゃないけど、そういう心持だということだ。


 一生に一度のことだ。ムードは大事かもしれない。なら無理してでも高級レストランに予約を入れるか? でもそれはたぶん結衣が嫌がるだろうし……。

 結衣は俺と一緒に普通の日常を過ごすのが一番好きなんだ。高校の時からずっと得られなかったその普通を、俺と共有するのが何よりも大好きなんだ。


 だったら……高級レストランの予約は止めよう。俺のアパートで、いつもと同じように結衣と過ごして……その中で、渡せばいいんだ。伝えればいいんだ。

 そう決意して迎えたクリスマス当日。昼間は仕事だったから夜から俺の部屋にやってきてくれた結衣は、「特別なことはしなくていい」なんて自分で言っていたのに、クリスマスだからってクリスマス用の豪華な夕飯を作ってくれた。


「どう? 美味しい?」

「めちゃくちゃ美味い!」


 結衣の作ってくれるご飯はいつも美味しくて、俺は「美味い!」以外の感想が口から出てこない。それくらい結衣の料理はいつだって上手だった。


「じゃーん! 手作りのクリスマスケーキでーす! お店のと比べたら不格好かもしれないけど……どう?」

「きれいにできてるし、味も甘さ控えめで俺好みでめちゃくちゃ美味い!」

「ほんと!? よかったぁー」


 結衣が実家で作ってきたクリスマスケーキを二人で食べて。

 それから食器やらなんやらを片付けた後、部屋で二人のんびりと過ごしていた。


 いつもだったらあまり遅くならないうちに結衣は帰って行くんだけど、明日は休日だったから結衣も俺の部屋に泊まっていくつもりで。

 だから、これからの時間はいくらでもあって。


 ……いや、今日だけじゃない。明日だって、明後日だって、それよりずっとずっと先だって、いくらでも時間はあって……その時間を二人で共有したくて……。

 二人の未来を共有するためには、やらなきゃいけないことが一つだけあるよな。


「結衣。俺の話を聞いてくれないか」

「急に改まってどうしたの?」


 部屋でくつろいでいた結衣に声をかける。あの頃、話を聞いてくれって言った時は取り乱していた結衣も、今は自然な態度で俺の話を聞いてくれるようになった。

 その事実が俺は嬉しかった。結衣の仕草一つ一つが愛おしくて、可愛らしくて……結衣はいつだって俺に幸せをくれるんだ。


「俺、実は採用試験受かっててさ」

「えぇ!? おめでとう! すごいじゃん! やったじゃん! うわぁー……これはまた別にお祝いしなきゃダメだよね!?」


 俺が試験の合格を告げると、まるで自分のことのように喜んでくれる結衣。こうやって他人のことを自分のことのように喜べるようになったのも、周りの人たちのおかげで。

 俺は本当に周りの人に恵まれたんだなって。そう思えて。


「えっと……それでさ。本題は試験のことじゃなくて……」

「え、そうなの? こんなにおめでたいことなのに?」


 不思議そうに首を傾ける結衣を視界に収めながら、俺は部屋に隠すようにしまっていたとある箱を取り出した。

 その箱を持って、結衣の正面に移動して座り込む。


「い、イツキ……それ……!」


 俺が手にしている箱の中身がわかったからだろうか。結衣の声が震えていて、瞳も少し潤み始めていた。

 そんな結衣に向かって、俺は箱を開きながら中身を結衣に差し出した。


「結衣。俺、バカだからさ。たくさん結衣のこと傷つけちゃったけど、それでもやっぱり結衣のことが好きでさ。結衣のこと手放したくなくて、結衣に俺の腕の中で幸せになってもらいたくて……」


 俺の言葉にうなずきながら、ぽろぽろと涙をこぼし始める結衣。

 結衣が泣いてる姿、なんだか久しぶりに見た気がするな、なんて益体もないことを考えて。


「だから、結衣の過去も、今も、未来も全部俺にくれないか? 辛いことだって、苦しいことだって俺に分けて欲しい。嬉しいことだって楽しいことだって分けて欲しい。結衣の全部が愛おしいんだ」

「イツキぃ……」

「これから先、結衣の心がまた不安定になって、俺から捨てられるんじゃないかって思うような夜が来るかもしれない。また俺に辛く当たりたくなる夜が来るかもしれない。そんなときは、我慢せずに俺にぶつけて欲しい。不安な気持ちを。怖い気持ちを。全部全部俺にぶつけて欲しい」


 結衣の目を見ながら、俺の気持ちが伝わるように。

 ゆっくりゆっくりと言葉を紡いでいった。


「結衣の不安な気持ちも、怖い気持ちも俺が全部受け止めるから。俺が全部受け止めて、そのかわりに俺の気持ちを全部あげるから。結衣が不安になる暇なんてないくらいの俺の気持ちをあげるから」

「イツキ……私……!」


 箱を片手に持ちながら、結衣の左手を握り締める。あのクリスマスの日にプレゼントした指輪を、ずっとずっと着けててくれる結衣の左手を。





「何万回の夜を過ごしても忘れないような、愛してるを君に送るから。だから、俺と結婚してください」






 俺の言葉を聞いた瞬間、結衣が力いっぱい俺に抱き着いてきて。俺はそんな結衣を慌てて抱き留めて。


「こんな私でよければぁ……! イツキに沢山沢山迷惑かけちゃった、こんな私でよければぁ……! 私を、イツキのお嫁さんにしてください――!」


 ボロボロに泣き崩れてしまった結衣を抱きしめて、背中を撫でて……いつものように「大丈夫。大丈夫」と伝えながら。

 俺と結衣のクリスマスは過ぎていったのだ――――

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