だから私は手首を切った

 イツキの部屋で一人うずくまる。

 ぽろぽろと涙が勝手に流れてくる。


 手には音の鳴らないスマホが握られていて。

 部屋の電気も点けずに暗闇に沈み込む。


 イツキからの連絡がない。電話をしてくれるって言ってたのに、いつまで経っても電話が来ない。

 イツキに連絡が繋がらない。何度も電話をかけて、いくつもメッセージを送ったのに返事がない。


『おーい』

『イツキ? どうしたの?』

『なんで電話に出てくれないの?』

『イツキ? イツキー? どうしたの?』

『本当にどうしたの? 大丈夫? 寝てるだけだよね?』


 嗚咽が漏れる。

 膝に顔をうずめて縮こまる。


 本当はもっとメッセージを送りたい。

 本当はもっと電話をかけたい。


 でもできない。そんなことできない。

 これ以上はイツキに迷惑がかかっちゃう。イツキに嫌われちゃう。


 そんなこと気にしてる余裕なんてないはずなのに。そんなことばっかり考えちゃって。


 イツキが私の傍にいないのが怖い。イツキの声を聞けないのが寂しい。イツキが私から離れて行ってしまうのがどうしようもなく心を摩耗させる。

 ……なにを考えてるの? イツキが私の傍を離れるはずなんてない……そうだよね?


 イツキ……イツキ……どうして返事をくれないの? ……どうして……声を聞かせてくれないの……?

 イツキ……私ね……? イツキがいないとダメなんだ……。イツキと一緒にいて人間らしくなれたと思ってたんだ。でも、全然そんなことなくて……。


 朝教室に入ると、私の机に花が置かれていた。机の中身が無くなってて、必死に探し回って見つけたのは校舎裏の焼却炉の中だった。

 手首を押さえつけられて、口を塞がれた。抵抗できないように男が複数人で私を囲って、女が嬉しそうにその姿を撮影していた。


 もう何年も経ってるのに。この一年そんなもの見なかったのに。

 イツキの声が聞けないだけで、あいつらはすぐに私の心に入ってくるの。


 イツキ。私やっぱり、ダメみたい……。











 一睡もできずに、時間感覚もなくなって、それでもうずくまって嗚咽を漏らす。

 怖いよイツキ……また私が私でなくなっていくよ……。


 着信音が鳴り響く。それは私がイツキ専用に設定した着信音で。

 ずっと握りっぱなしだったスマホを無意識のうちに操作して、耳に当てる。


「イツキ……?」

『ごめん結衣! 昨日疲れて寝ちゃってて! さっき起きて!』

「なんだ、そっか……」


 電話越しにイツキのものすごく焦った声が聞こえてくる。本当に申し訳なさそうで、いつもならイツキの声で癒されるのに、その時の私はそのイツキの声で更に胸を締め付けられて。

 イツキに迷惑をかけている。イツキに負担をかけている。


 価値のない私が、優しいイツキの重荷になってる……。


『ごめん。約束したのにな……』

「ううん、いいの。イツキが何ともなければそれでいいの」

『ごめん。帰ったらちゃんと埋め合わせするからさ』

「うん……期待してる」


 イツキ……ごめんね……愛してるのに……こんな私でごめんね……。


「イツキ、愛してる」

『結衣……俺も愛してる』


 その日から、また私は眠れなくなってしまった。

 目をつむるとフラッシュバックが起こる。一人になると動悸が激しくなって息苦しくなる。


 日中の大学は何とかいつも通りに過ごそうとした。高校の時に正気のふりをしていた時とは違う。大学には沙織がいて……沙織にこれ以上私のせいで心配をかけたくなくて……。

 だから私は沙織には何も言わなかった。私の心がまた壊れちゃいそうなことも。夜眠れなくなっちゃったことも。


 だって沙織は私のせいで苦しんだんだから。私が苦しい時に沙織に頼るなんて間違ってる。そんなこと絶対にしちゃいけないんだ。

 でも夜眠れないと体調が悪くなって、沙織に気付かれて迷惑がかかるかもしれない。そんなのダメに決まってる。


 だから私はこの一年、イツキと一緒にいるときは一度も使わなかった睡眠薬を再び手に取った。

 イツキとの電話の後、睡眠薬をいくつも取り出して眺める。本当はこんなものに頼ったらダメなんていうことは、自分が一番よくわかってる。


 でもこの時の私には、これくらいしかできることが無くて。

 何錠もの睡眠薬を口に含んで、水で一気に流し込んだ。


 襲ってくる眠気と、酩酊感。

 ああ……これだ。これで私は眠りを手に入れて――代わりに、正気を失うんだ。











 正気を失うと、どうしても私は私自身を傷つけたくなる。汚れて壊れた私をもう一度汚してさらに壊したくなる。

 でも……ダメだ。ダメだダメだダメだ。


 私の体を他の誰かに明け渡すなんてダメに決まってる。

 それはイツキを裏切る行為だ。イツキの心を裏切る行為だ。そんなことしたら絶対ダメなんだ。


 正気を失った私でもそれだけは絶対に譲れなくて、だから私は代わりに――私自身の手で私を傷つけることにした。

 ぼうっとした頭で、ドラッグストアで睡眠薬と一緒に包帯を購入する。


 イツキのアパートに帰って、カッターと包帯を持ったままふらふらとお風呂場に行く。

 他人に汚して壊してもらう訳にはいかないけど……ちゃんと罰は受けるから。まっとうな人間になるための罰は自分で受けるから。


 だからごめんねイツキ。待っててね。私が罰を受けて……イツキの隣に立てるようになるから……。

 右手でカッターを握る。カチカチと刃を伸ばす。左手首に刃を当てる。


 そしてそのまま――私は左手首を切り裂いた。











 手首を切った日は血が足りなくなるからなのか、睡眠薬を飲まなくてもとても眠くなってすぐに寝てしまう。

 気付けば朝になっていて、イツキからの電話に出れなかったことに気付く。


 そのことに気付くと私は体中から血の気が引いてしまう。


 イツキとの電話が! イツキとの時間が! イツキとの繋がりが!


 混乱と恐怖。イツキに捨てられてしまうんじゃないかという不安。イツキに迷惑をかけてしまったという後悔。

 それらに急かされるように慌ててイツキに電話をかける。


 イツキは怒らなかった。私が電話に出なくても、朝になって慌てて電話をかけても怒らなかった。

 私はイツキと会話をしている時だけが救いだった。イツキと会話をしている時だけ、少しだけ自分が戻ってくる気がした。


 大学へは常に長袖で通った。まだぎりぎり衣替えの最中ぐらいだったから、長袖でも怪しまれることはなかった。それに加えて左手首にはシュシュを巻き付けて、手首の痕は沙織にわからないようにした。

 沙織には……気付かれるわけにはいかないから……。


 そんな生活が続いた。時間の感覚も日付の感覚も無かった。

 早くイツキに帰ってきて欲しい。こんな私を見られたくない。イツキに帰ってきてほしくない。


 夜泣きながらイツキの名前を呼ぶ日々。睡眠薬に手を出して、手首を切って体を傷つけて。


 限界だった。

 とっくに限界なんて超えてた。


 その日私は大学を休んだ。大学生なんだから一日サボるなんてよくあることで、イツキと一緒にいるときは時々こうやってサボってたから、沙織にも何も言われなかった。

 一日中部屋でうずくまってた。私が私でなくなってどうにもならなくなってた。


 イツキ……イツキ……イツキ……イツキ……イツキ――


 手首を切っても、眠くならない。でも血は無くなってて、頭がぼうっとする。

 睡眠薬を飲んで、無理やり眠りにつく。再び襲い来る酩酊感。


 起きたら外が明るくて、なんとなく私は「大学行かなきゃ……」なんて思ったのだ。


 ふらふらと大学の中を彷徨う。なんだか大学の構内がキラキラ光ってるように見えて、いつもよりきれいだ。

 すれ違う人みんな笑顔で友達と話したり、恋人と手を繋いだりしている。平和で、仲睦まじくて、理想の世界のように見えて。


「――――――」

「あ~……イツキだぁ……」


 大学にいたイツキに話しかけられた。それだけで私はとても嬉しくて、はしゃいでしまう。

 今までどこにいたの? 私寂しかったんだよ? 早くおうちに戻ろ? 私もう待てないよ!


 ね、早く! 早くしよイツキ! いつもみたいに私を愛して? 私からの愛を受け取って? ね、イツキ――





 そうして私が正気を取り戻したときに見た光景は、サークルの男に裸で組み敷かれる自分と、それを見て呆然とするイツキの姿だった――――











【第二章 結衣】 終了。次回からは【第三章 イツキと結衣】 に変わります。

ちなみに結衣は全く認識してませんが、この時声をかけてきた男は「お、結衣じゃ~ん。どう? 久しぶりに一発。彼氏には黙っててあげるからさ?」みたいなこと言ってて、なおかつ結衣の様子がおかしいのに気づいていたのに家まで上がり込んでるので、裸で蹴り飛ばされても同情の余地はないです。

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