心っていうのはね、そう簡単には治らないんだ
イツキがいないとダメなんだぁ……
イツキが所属している教育学部は、大学三年生の初夏に教育実習に行かなきゃいけない。地元の学校に一か月。イツキは高校の教員免許を取るための学部だったから、実習に行くのは引っ越した後の高校だ。
「俺が実習に行ってる間も、この部屋は自由に使っていいから」
「うん……」
「……本当に大丈夫か?」
「……大丈夫」
イツキが教育実習に行ってしまう。
それを聞いてから、私の心の中は不安でいっぱいだった。
去年の年末に感じた不安がまた、真綿で首を絞めるように私の心を追い詰めた。
イツキが実習でいない間、私は一人で過ごすことになる。
この一年以上、いつだってイツキが一緒にいてくれた。一日だってイツキと一緒にいない日はなかった。
イツキが隣にいるのが当たり前だった。イツキの隣にいるのが当たり前だった。
私はイツキがいないと生きていけない。
イツキが隣にいない私は、イツキの隣にいない私はどうやって生きたらいいの?
――私、イツキと離れてる間、どうやって生きてたんだっけ……? どうやって呼吸をしてたんだっけ……?
わからない。わからないんだよ、イツキ。
イツキが傍にいないと私、呼吸の仕方さえわからないんだ。
……でも、こんなことイツキに言えるわけない。言ったらダメなんだ。
だってイツキは一生懸命なんだ。私に対する愛だって、教員になるっていう将来に向かってだって、ずっと一生懸命なんだ。
それなのに、私のこんなわがままでイツキの邪魔をするわけにはいかないんだよ。
だから私は私の不安を飲み込んで、そのかわりにイツキにいつも以上に甘えた。甘えて、抱き着いて、イツキが傍にいなくてもイツキを感じられるように。
そんな私の不安を感じ取ったのか、イツキはそれまで以上に私を甘やかしてくれた。
私が家でずっと一緒にいたいって言ったら、バイトを減らして私の傍にいてくれた。私が抱きしめて欲しいって言ったら何も言わずに抱きしめてくれた。
イツキの優しさに包まれる度、私の心はあったかくなった。
「イツキ……あのね?」
「なんだ、結衣?」
そんな日々が続いたある日。
私は私の決意をイツキに伝えた。
「私、頑張るから……だから、だからね……? 私は、何をしてても、イツキのことが一番好きだから……。その気持ちだけは、絶対絶対変わらないから……」
声が少し震えていたかもしれない。
体も震えていたかもしれない。
でも伝えたかったんだ。
私はイツキが好き。世界で一番好き。世界中の誰より愛してる。それだけは絶対に変わらないから。
壊れた私でも、それだけは唯一絶対だから。
だから、イツキ。
私、頑張るから――
イツキが実習に行くために実家に帰る日の朝。
「それじゃ、行ってくるから」
「行ってらっしゃい! 着いたら連絡してね? それと、毎日電話しようね? 約束だよ?」
「わかってるよ。大丈夫」
キャリーバッグに荷物を詰めたイツキが玄関に立っていた。
私はイツキを笑顔で見送る。
これから一か月、イツキのいない生活が始まる。
大丈夫かどうかはわからない。
イツキと再会してから、イツキがいない日常なんて初めてだから。
イツキがいるのが当たり前だったのが、当たり前じゃなくなるなんて初めてだから。
イツキ。早く帰ってきてね。
そんな無茶なお願いが胸の内を駆け巡る。
そうして、私だけの孤独な日常が幕を開けた。
最初の一週間は何ともなかった。
イツキがいなくても眠ることができた。イツキがいなくても悪夢も見なかったし、フラッシュバックも起きなかった。
大学で沙織と一緒に講義を受けて、イツキのアパートに帰る。イツキの匂いに包まれながら一人過ごして、夜にはイツキとの電話で心を癒す。
そんな生活が一週間続いた。
『それで、今日は授業計画の採点とかされてさー』
「えーそうなんだ! ちゃんとうまく書けてた?」
『だいたいのところは。でもダメ出しも食らったけど』
「頑張ってね、イツキ!」
『クラスに一人めっちゃくちゃ生意気な奴がいてさ』
「真面目な子より生意気な子の方が印象に残っちゃうよね」
『いやマジでそれだわ』
「気持ちわかるー」
イツキは約束通り毎日電話をくれた。メッセージもこまめに送ってくれたし、私が一人でいても寂しくないように気を使ってくれた。
実習で慣れないこともたくさんあって疲れてるだろうに、私のことを一番に考えてくれてた。
私はそれが嬉しかった。
私はそれが心苦しかった。
こんなにイツキが私を気にかけてくれるのは、きっと実習に行く前に私が不安でイツキに甘えまくったからだ。その時の私の様子がおかしかったから、イツキは自分が疲れてるのに私のことを優先してくれてるんだ。
それがわかってしまうと、私の心はイツキへの申し訳なさでいっぱいになった。
イツキに迷惑をかけてる。それがわかってるのにイツキの優しさに甘えることをやめられない。
そのことが、私の心を徐々に蝕んでいった。
「ねぇイツキ……」
『ん? なんだ?』
「早く会いたい……」
『……俺も会いたい』
つい、イツキに伝えてしまう。
こんなことを伝えられたって迷惑だろう。まだ実習は半分も終わってなくて、それを切り上げて私に会いに来るなんて無理に決まってるのに。
でも、私の心は弱いから。
そうやってイツキが傍にいてくれないと、やっと人間らしくなった心がまた壊れちゃうから。
だから、イツキ。早く会いたいよ……。
私が私でなくなっちゃう前に――――
そうしてイツキが実習に行って二週間が経った頃。
イツキから『先生方の好意で飲み会が開かれることになったから参加してくる。夜は電話するつもりだから安心して』っていう連絡があった。
この頃の私は、はっきり言って限界が近かった。
二週間もイツキと会えなくて、一年以上かけてイツキと一緒に作り上げてきた心に、ひびが入りかけていた。
朝起きてもイツキがいない。昼大学に行ってもイツキがいない。夜眠る時にイツキに包まれてない。
イツキ。イツキ。イツキ。私の生きる全てがイツキだったのに、そのイツキが私の傍にいない。
頭がどうにかなりそうだった。別にイツキに捨てられたわけじゃないのに、孤独と不安に苛まれる。
それを毎日のイツキとの電話で何とか繋ぎとめていた。
だから。そうだ。
だからなんだ。
イツキが飲み会だって言ってた日。
いつまで経っても、いくら待ってもイツキからの電話が無かった日。何度連絡してもイツキに繋がらなかったあの日。
イツキに包んでもらっていた私の心は、再び限界を迎えてしまったのだ。
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