俺の知らない彼女
泣きたいのは俺の方だろ
その光景を見てしまって呆然としていた俺と、玄関の物音に反応したのか男に組み敷かれながらこちらを向いた結衣。
俺たち二人の視線が交錯した瞬間、行為によってだろうかぼんやりしていた顔の結衣の表情が急変した。
まるで俺と同じく何が起きているのかわからないといった呆然とした表情になって、それからすぐに血の気が全て引いたような真っ青な顔になって。
そんな結衣の様子に疑問を思ったのか、男の動きが止まる。
「い、イツキ……違うの! ねぇ、違うの……!」
まるで幽霊か映画の吸血鬼のように白を通り越して青くなってしまった結衣が、かすれた声で否定の言葉を上げる。
俺はそれを見て、心臓をギュッと握りつぶされたような痛みと、頭をハンマーで殴られたかのような衝撃で、ただただ何も言えなくて。
「結衣……お前……」
「ねぇイツキ! 本当に違うの! だからお願い! 私のこと見捨てないで! 何でもするから! ねぇ――!」
どこからそんな力が湧いて出ているのか、上に覆いかぶさっていた男を突き飛ばし裸のまま俺に縋りついてくる結衣。
そんな結衣を見て、俺は――。
縋りついてきた結衣を引きはがし、俺の家に上がり込んでいる知らない男をとりあえず裸のまま家から蹴飛ばして外に追い出した。そいつの着ていたと思わしき服はつまんで外に放り投げておいた。
アパートの住人が通ったら裸の変態がいると思われるかもしれないが、どうでもいいや。それくらいの罰は受けて欲しいというか、そんなもの罰にもならないだろう。
一応蹴飛ばして追い出す前に名前と連絡先だけは聞いておいた。今後連絡することがあるかどうかはともかく、この間男とでもいうべき男の連絡先を押さえておくことはとりあえず必要だろうという判断だった。
頭の片隅で、なんでこんなに冷静に行動してるんだ、そんな場合じゃないだろ! と自分を罵る一方、全く見知らぬ人間を裸のまま外に蹴り飛ばした時点で冷静じゃねぇよな、なんて考える頭もあって。
とにかく、俺はその一連の動作で時間を作って、少しでも結衣に向き合うための心の準備をしていたんだと思う。
結衣の不貞行為をはっきりとこの目で見てしまった。
裸のまま男に組み敷かれて、微かに喘ぎ声をあげる結衣の姿を。
さっきの光景が頭をよぎって、心臓が痛いくらいに強く大きく鼓動する。頭に血が上っているのか、くらくらとして意識が明瞭じゃない。
なんで? どうして? 何があって?
なんで結衣は……俺を裏切って……?
玄関から部屋の中に戻ると、結衣が裸のまま俺に向かって土下座をしていた。
その艶のある黒い長い髪が床に散らばって、細く白い肩が小刻みに震えていた。
「ごめん、なさい……」
小さく、酷くかすれた声だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
その声のまま何度も俺に謝ってくる結衣。決して顔を上げようとはせず、土下座の体制も崩さず。
謝りながら時折すすり泣く声も聞こえてきて、そんな恰好をされて……俺は、どうしたらいいんだ……? どうして欲しいんだ……? 許してほしいのか……? あんなのを目の前で見て……?
「なんでもする……うぅ……なんで、もしますから……ひっく……だ、だから……私の、こと……見捨てないでぇ……!」
なんで浮気した側のお前がそんな死にそうな声で泣いてんだよ。
泣きたいのは俺の方だろ……。
なんなんだよ。何が悪かったんだよ。
俺の何が駄目だったんだ? 何が不満だったんだ? 俺には言えなかったのか……?
いつから……浮気に走るくらい、いつから俺のこと……好きじゃなくなったんだよ?
あんなに「愛してる」って言葉を伝えて、気持ちを預け合ってたのって何だったんだよ……。俺だけが……一方的に気持ちを渡してたのか……?
「ごめんなさい……ごめんなさいぃ……!」
「はぁ……」
壊れたスピーカーのように何度も何度も謝る結衣に、思わずため息が零れる。
正直、何と言っていいのかわからない。
結衣のことを口汚く罵りたい気持ちもある。なんで浮気なんかしたんだ! 裏切者! 出て行け! ……言いたいことが浮かんでは消えていく。
一方で……泣いて震えながら土下座をする結衣を見て、何とも言えない気持ちが湧き上がってくるのも事実で。
許す、許さないとかじゃなくて……なんて言ったらいいのかよくわかんないんだけど、なんというか……キリキリと痛む胃と、鼓動が早くなったせいで呼吸が浅くなった肺と……ダメだ。今の俺にはこの気持ちに名前が付けられない。
「なぁ、結衣……」
「ひぅっ……!」
纏まらない頭のまま結衣に声をかける。何を言おうかなんて何も考えてはいない。それでも何となく名前を呼んで……怯えた結衣の様子に、結衣の不貞で締め付けられていた心臓が別の理由で締め付けられて……。
俺は別に……結衣に怯えてもらいたいわけじゃなくて……結衣にはいつも笑っていてほしくて……でも目の前で浮気を見てしまって……。
結衣にかける言葉が見つからなくて視線を彷徨わせる。部屋は俺が実習に出かけた時と大して変わってなくて、ベッドだけが乱れていて、テーブルの上にはコップと何かの薬の箱が置いてあって……。
結衣の方に視線を向けると、ふとあることに気付いた。
「結衣……それ、左手首……怪我してるのか?」
結衣の左手首に新しめの包帯が巻かれていた。しかも怪我をしたばかりなのか、ほんの少しだけ血が滲んでいる。
「こ、これは……その……うぅ……」
「……さっきの男にやられたのか?」
「違うッ! これはそんなんじゃないっ……! あんな男……全然関係ないッ!!」
急に叫ぶ結衣。
怪我は男のせいじゃないらしい。
言葉だけ聞けばあの男をかばっているようにも聞こえる。けれども、目の前の結衣は全然そんな雰囲気じゃなくて。
むしろ、その手首の怪我にあの男が関係していたら、結衣がどうにかなってしまいそうだといわんばかりで。
……俺は、結衣のことがわからなくなってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます