教育実習と……

 大学三年生の初夏になると、教育学部は教育実習に行かなければならない。

 教育実習は特別に大学が行き先を用意しているなんてことをしていなければ、基本は自分の地元の学校に行くことになる。


 例に漏れず俺も今の実家のある、俺が卒業した高校に行かせてもらうことになっていた。だから、一か月ほど実家に帰って実習に勤しまなければならない。

 これがあるから年末年始は実家に帰らなかったのだ。どうせひと月も実家にいることになるなら、わざわざ帰る必要はないだろう。結衣もいたことだし。


「俺が実習に行ってる間も、この部屋は自由に使っていいから」

「うん……」

「……本当に大丈夫か?」

「……大丈夫」


 俺が教育実習で一か月は実家に帰らなければいけないことを告げてから、結衣の様子が少しおかしかった。

 いつもはふにゃふにゃと可愛らしく笑っている表情に、どこか影が落ちている。いつも一緒にいるのに、それ以上に俺にくっついて離れようとしない。


 そんな結衣の様子に俺は思わず心配して声をかけるんだけど、帰ってくる言葉はいつも「大丈夫」で、そう言われてしまうと俺もなかなかそれ以上のことは言えなかった。

 結衣が大丈夫って言っているんだろうから大丈夫なんだろうという気持ちと、どこか落ち込んでいるように、元気が無いように見える結衣のことを心配する気持ち。


 俺は結衣に元気になってもらうために、実習に行く前は殊更に結衣を甘やかした。結衣が望むことは、俺ができる範囲で何でもしてあげた。

 デートに行くより二人で家で過ごしたいと言われたから、結衣と二人で過ごす時間を増やした。


 バイトの量も減らして、なるべく結衣との時間を作った。デートに行く回数も減ったし、そこまでお金も必要じゃなかったからバイト代が減っても気にはならなかった。


「イツキ……あのね?」

「なんだ、結衣?」


 ある日、二人で部屋で過ごしている時に、結衣が俺の肩に頭を乗せながら少し震える声で俺に伝えてきた。


「私、頑張るから……だから、だからね……? 私は、何をしてても、イツキのことが一番好きだから……。その気持ちだけは、絶対絶対変わらないから……」


 そう言ってギュッと俺にしがみついてきた結衣を、俺は無言で抱きしめ返した。


 それから結衣は落ち込んだような雰囲気はなくなり、以前と同じように明るい顔で過ごすようになった。

 そんな結衣を見て、俺は安心したのだ。俺のやったことは無駄じゃなかったのかな、と。











 実家に帰る当日の朝。

 実習に必要な荷物をキャリーバッグに詰めて、玄関に立つ。


「それじゃ、行ってくるから」

「行ってらっしゃい! 着いたら連絡してね? それと、毎日電話しようね? 約束だよ?」

「わかってるよ。大丈夫」


 笑顔の結衣に見送られて、俺は家を出た。

 正直結衣のことはまだ多少心配はしていたけど、実習をしないわけにはいかない。だから、結構断腸の思いでアパートを出てきたと思う。


 思えば、結衣と付き合い始めてからこんなに長く結衣と離れるのは初めてだった。

 結衣は付き合い始めてすぐに俺のアパートに転がり込んできたし、それ以降一度も自分の部屋で寝泊まりしている様子を見たことが無い。というか俺と一緒に過ごさなかった夜とかないんじゃないか?


 結衣は大丈夫だろうか。あれだけ俺にべったりで、甘えん坊なのに、一か月も一人で……いやまあ、結衣にも友達はいるから別に一人ってわけじゃないけど。

 はは……こんなこと考えている俺も、結衣がいないともうダメな体にされてしまったのかもしれないな。


 実家に着いて久しぶりの自分の部屋に荷物を置いて、結衣に連絡を入れた。夜には結衣に電話もして、次の日にさっそく実習先の高校に挨拶に行った。実習自体はその次の日からだったけれど、まあ事前の挨拶は大事だろう。

 俺が通っていた頃の担任もまだ在籍していて、高校の頃の話に花を咲かせたりもした。


 次の日から実習が始まって、毎日が目まぐるしく忙しかった。

 慣れない環境に、緊張からの精神的な疲労。三年間通って見慣れたはずの校舎が、立場が違うだけで全く違うものに見えて、酷く困惑したことも覚えている。


 最初は指導員の先生に付いて回って、授業の見学や補佐に回るだけだった。その裏で授業計画の作成の仕方や生徒指導の際の注意点、学校の運営に関することなど、様々なことを教わった。

 また、部活の指導も教師の仕事の一環だということで、放課後の部活指導にも一緒に参加したりもした。


 個別指導塾のバイトで年の頃の近い生徒と何度も接してきたこともあって、正直最初は高校生との交流にそこまで支障はないと思っていた。けれども実際に教室に入ってみると全然そんなことはなくて、個人に対する接し方と集団に対する接し方の違いにただただ戸惑う日々が続いた。

 実習生だから定時には上がらせてもらえるのだけど、定時に上がったとしてもその日はもう疲労困憊で、実家に帰る頃にはへとへとになっていた。


 そんな日々の中でも、俺は毎日の結衣との電話だけは欠かさずにしていた。結衣との電話をすることが俺の疲れを癒す手段だった。


「それで、今日は授業計画の採点とかされてさー」

『えーそうなんだ! ちゃんとうまく書けてた?』

「だいたいのところは。でもダメ出しも食らったけど」

『頑張ってね、イツキ!』


「クラスに一人めっちゃくちゃ生意気な奴がいてさ」

『真面目な子より生意気な子の方が印象に残っちゃうよね』

「いやマジでそれだわ」

『気持ちわかるー』


『ねぇイツキ……』

「ん? なんだ?」

『早く会いたい……』

「……俺も会いたい」


 そうやって毎日電話をして、疲れを癒して。また次の日の実習を頑張って。

 そうやって二週間が過ぎた頃、実習先の先生方の好意で俺の歓迎会兼お疲れ様会を開いてくださることになった。


 二週間もすれば実習にも慣れてきて、ちょっとした飲み会にも参加できるよね、ということらしい。

 俺は別に飲み会は好きじゃなかったけど、せっかく先生方が好意で開いてくださるようなものを無下にするわけにもいかず、その飲み会に参加した。


 前日には結衣に飲み会に参加することを伝えていた。だからといってその日結衣と電話をするつもりが無かったなんてことは全くなくて、飲み会が終わったら結衣に電話をするつもりだった。

 ただ、どうやら自分が思っていた以上に俺は体に疲れが溜まってたらしくて、飲み会が終わって実家に帰った後、着替えもせず風呂にも入らず、結衣に電話をかけることも忘れてそのまま寝てしまった。アルコールのせいでもあると思う。


 次の日起きたら、時刻はもう昼を回っていた。金曜日に飲み会をしていたからその日は土曜日の休日で、何時に起きても問題はなかった。なかったんだけど、問題は大ありだった。

 俺は目が覚めてすぐにスマホを確認した。結衣からの着信が数件入っていて、メッセージも入っていた。


『おーい』

『イツキ? どうしたの?』

『なんで電話に出てくれないの?』

『イツキ? イツキー? どうしたの?』

『本当にどうしたの? 大丈夫? 寝てるだけだよね?』


 そんなメッセージを確認した後、俺は慌てて結衣に電話をかけた。

 結衣に心配をかけてしまった。マズい、謝らないと! そんな気持ちで俺はいっぱいだった。


 数コールの呼び出し音の後、結衣が電話に出た。


『イツキ……?』

「ごめん結衣! 昨日疲れて寝ちゃってて! さっき起きて!」

『なんだ、そっか……』


 電話口の結衣の声は何故だか酷くかすれたような声で、そんな声を聞いた俺の心臓はキュッっと締め上げられたように痛みを上げた。


「ごめん。約束したのにな……」

『ううん、いいの。イツキが何ともなければそれでいいの』

「ごめん。帰ったらちゃんと埋め合わせするからさ」

『うん……期待してる』


 それから俺は着替えたり、風呂に入ったりしながらも結衣との電話を続け、途中からはビデオ通話に切り替えたりしながらも結衣との時間を過ごした。


『イツキ、愛してる』

「結衣……俺も愛してる」


 でも、何故だかその電話以降、結衣が電話に出ない日が何日かあった。

 夜電話に出なかった日は、次の日に結衣から慌てて電話がかかってきたりするから、あの日の俺と同じように疲れて夜眠ってしまっているだけなんだろうな、なんて思って理由は聞かなかった。


 いや、正確には一番最初だけは「何かあった?」って軽く聞いたんだけど、「疲れてただけだから大丈夫」なんて言われてしまって、それ以上は聞けなかった。

 それに、電話をしている時の結衣は酷く嬉しそうで、いつもより声も上ずっていて喋りも早くて、そんな結衣の気分を害すようなことを聞く気にもなれなくて。


 そんなこんなで一か月の実習を終えて、アパートへの帰路に着く。


 実家を出る前に、結衣には何時ごろに帰るって連絡を入れておいた。既読がつかなかったけど、忙しいのだろうと思ってそこまで気にはしなかった。

 どうせ数時間後には会えるのだ。メッセージの既読がつかないくらい別になんてことないだろう。


 実習で疲れた頭を何とか働かせながらアパートまでの道のりを進んでいく。

 ああ、今日は結衣とどうやって過ごそうかな……久しぶりに結衣と会えるし、まずは結衣の手料理が食べたいかな……。


 なんて思いながら、たどり着いたアパートの自分の部屋のドアに、鍵を差し込む。俺と結衣は基本的には在宅していても鍵をかけてたので、中に人がいてもいなくても鍵がかかっているのが当然で。

 だから鍵が空回りしたときに、俺は違和感を覚えたのだ。


「なんだ? 珍しく不用心だな、結衣」


 その違和感を抑え込むようにして、普段は発しない独り言を言ったりして。

 ドアを開けて、玄関に踏み込んで。


 玄関に、知らない男物の靴が置いてあって。

 顔を上げて、俺の目に飛び込んできたのは――


「なんだよ、それ……」


 俺の彼女が、結衣が――知らない男と、肌を重ねている光景だった。

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