イツキ

「結衣!」


 イツキが私に走り寄ってくる。

 新入生の勧誘でごった返すこの場所で、人混みを無理やりかき分けながら私に近付いてくる。


 私は動けなかった。

 イツキを視界にとらえた瞬間から、私の体は指先一つ動かせなくなっていた。


 ――ううん、違う。動かせなかったんじゃない。動かしたくなかったんだ。


 イツキが私に近付いてくれる。イツキが私のために動いてくれてる。

 イツキが、イツキだ、イツキなんだよ――


「あー……その、久しぶり」

「……うん。久しぶり」


 四年ぶりに会ったイツキは、最後に分かれた時よりも大きくなっていた。あの頃、そこまで差が無かった身長が頭一つ分離れるようになっていて、体つきもさらにがっしりと男らしくなっていた。

 でも、小さい頃からずっと、その優しい声と瞳は変わりなくて。


「えっと……元気にしてた?」


 イツキからのそんな質問に我に返る。


 ……元気にしてた? なんて、よくある普通の会話だ。久しぶりに会ったんだから、そんな言葉が出てくるのだって自然なことだ。だから、私はこう返すべきなんだ。「もちろん! イツキはどうだった?」って。そうやって普通に会話して、イツキとの会話を断ち切って……私は、イツキの前から消えるべきなんだ。

 こんな汚い私が、イツキの前にいていいはずがない。私なんかがイツキの傍にいたら、イツキまで汚れちゃう。


 今だってこんなにきれいで、私のことを心配そうにちらちらと見つめて……一方的に連絡を送らなくなった私に嫌味の一つも言わないで。

 私は、そんなイツキの前に立つ資格なんてなくて……。


 でも、どうしても……どうしても、イツキに嘘が言えなくって……。口が裂けてもイツキに「元気だった」なんて言えなくて……。

 ――違う。イツキに心配してほしいわけじゃない。私のことを、穢れて汚れて惨めにうずくまってる、価値のない私のことを知ってほしいわけじゃなくて……。


「それなり……かな?」


 気付けばそんな言葉を口に出していた。


「なんだそりゃ……」


 私のそんな中途半端な言葉に、イツキは少しだけ呆れたように笑った。

 イツキが笑った。笑ってくれたのだ。私の言葉で。


 それだけで私の心は一気に満たされていた。

 この瞬間だけは、今までの辛いこと全部心の奥底に閉じ込めて、イツキだけを感じていたかった。


「イツキはどう……?」

「まぁ……俺もそれなり、ってところかな?」


 四年ぶりに会ってもイツキは変わってなかった。私に合わせて、中途半端な返事を返してくれた。

 やっぱりイツキは優しくて、あったかくて……。


「なにそれ」


 私はいじめられて以降、初めて自然に笑うことができたのだ。











 そしてその日以降、私とイツキの交流が再び始まった。

 私はどうしてもイツキとの交流を拒絶することができなかった。


 壊れて汚い私がイツキの傍にいたら、イツキまで汚れてしまう。こんな私のことを知ったら、イツキは今度こそ本当に私を見捨ててしまう。

 頭ではそう思っているのに、粉々に砕けていたはずの心が、どうしてもイツキのことだけは諦めさせてくれなくて。


 イツキに話しかけられると返事をしてしまう。

 イツキに呼ばれると傍に行ってしまう。

 イツキが傍に来ると、鼓動が早くなって顔が熱くなる。

 イツキに声をかけると、全部奪われて、捨てて、もうなくなっていたはずの幸せが胸の内から溢れてくるんだ。


 イツキだ。イツキだけが、私をこんな気持ちにさせてくれる。イツキだけが私に幸せを教えてくれる。

 それなのに、心の弱い私がそんなイツキを拒絶できるわけなんてなくて。


 気付けば、私はまた昔のようにイツキに話しかけるようになっていた。


「もーイツキ! 次の講義遅れるよ!」

「ごめんって! すぐ行くからさ!」


 広くて大きい大学だから私とイツキの学部は違ったけど、一般教養の講義は学部共通でとることができる。四月の初めだったこともあってまだ時間割を確定してなかった私とイツキは、なるべく同じ講義がとれるように話し合った。

 私とイツキは離れてた時間を埋めるように、離れてた時間なんてなかったかのように触れ合った。


「イツキってお昼ご飯いっつも外食だよね。自炊とかしないの?」

「めんどくさくてさ……。それに学食安いし」

「そんなんだと体に悪いよ? 私がお弁当作ってあげようか?」

「え……! いいのか!?」


 なんて。こんなに自然と会話ができるのはいつぶりだろう。思っていることがそのまま口に出せるのはいつ以来だろうか。

 イツキはすごい。ただ話しているだけで胸があったかくなる。


 そのはずだったのに。


「でも流石に結衣の彼氏に悪いよ、それは」


 イツキのそんな言葉に反射的に首を振る。


「彼氏!? いないいないそんなの! 私、誰とも付き合ったことないし!」

「……そうなのか?」


 彼氏なんているわけない! 何度呼び出されたって、手紙を入れられたって、脅されてる時に「俺と付き合えよ」なんて言われたって!

 私は全部全部拒絶してきたっ!


「そうだよ! だって私――」


 イツキのことが好きだから!

 ――――そこまで口に出かかって、我に返る。


 今私、何を言おうとした?

 何を口走ろうとした?


 私が、イツキのことが好きだって?

 どの口でそんなことを言おうとした?


 こんなッ! 汚いッ! 穢れた私の口でッ!

 私はとんでもないことを口にしようとして……!


「――とにかく、誰とも付き合ったことなんてない。信じて」


 無理やり閉ざした口を再び開けてイツキに伝えたのは、そんな意味のない言葉だった。

 そんな、明らかにおかしい私を見てもイツキは心配そうに私を見るだけで、私の中には踏み込んでこようとしなかった。


 そのイツキの優しさが心地よかった。

 そのイツキの優しさが辛かった。


 イツキ、私ね?

 とってもとっても、汚れてるんだぁ……。

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