イツキのいない日々

「それじゃあ父さん、母さん。結衣のことをよろしく頼むよ」


 大学の長い夏休みも終わりを迎える秋口の頃。

 私はイツキと一緒に、イツキの実家にやってきた。


「よ、よろしくお願いします!」


 イツキの実家の玄関口で頭を下げる。これからお世話になるのだから挨拶は大事だ、うん。


「いらっしゃい、結衣さん。あなたのことは樹から聞いてるわ。これからはこの家をあなたのお家だと思って過ごしてくれて構わないからね」

「結衣さんのご家族の方ともお話はさせていただいているから、なにも気にしなくていい。結衣さんの心が良くなるまでいくらだっていてくれて構わないよ」


 中学生の頃まではそれなりの頻度で会っていたイツキの両親とも、数年ぶりの再会だった。記憶にある時のまま優しそうで……私はちょっとだけ泣きそうになってしまった。


「ありがとうございます……!」


 私はイツキの部屋を使わせてもらうことになった。部屋は空き部屋が一つあるみたいだったけど、流石に私のために新しく家具を用意してもらうのはダメだと思って、そこに関しては私が断ったのだ。

 それに……イツキの部屋にいればイツキを感じられる気がして、こっちの方がいいと思ってしまった。


 イツキの部屋は当然だけど中学生までとは変わっていて、なんか黒を基調としたシックな色合いにまとまった部屋になっていた。


「引っ越しの時についでだから家具を買い替えたんだ」


 イツキはそう言っていたけど、変わってしまっていた家具の中でも中学の頃から変わらないものも置いてあって。

 勉強机や壁にかかった時計。もともと黒っぽかったからそのままにしておいたのかもしれない。


 それから……小学校や中学校の頃の写真。私と一緒に映ってるものやイツキの友達と映っているもの。それが何枚か飾られていた。


「うわぁ……懐かしいね、この写真」

「中学校の頃の体育祭の写真だな」

「イツキがリレーでこけた年のやつだよね!」

「おいなんでそこ嬉しそうなんだ?」


 なんて会話もして。それらの写真の隣には、私の知らない高校生の頃のイツキの写真も飾ってあった。

 ブレザーを着たイツキが、数人の男の子と一緒に映っている。


「いつか……高校生の頃の話もしてね、イツキ」

「あんまり面白いもんでもないと思うけど……時間ができたらな」


 そうやって二人で少しだけイツキの部屋で会話をした後、イツキは大学近くの自分のアパートに帰って行った。

 帰って行く間際には二人で抱きしめあってキスをして……イツキからたくさん愛情を受け取った。


 治療を受ける日々の中で、私はもう一年以上イツキと愛し合っていない。でも、私の過去を隠してイツキに縋りついていたあの時よりも、今の方がずっとずっとイツキからの愛情を感じることができている。

 体の触れ合いも大事だけど……抱きしめあって、キスをして、気持ちを伝えあって、お互いを気遣って……そういったことの積み重ねが本当の愛情を育んでいくんだと、全身全霊でイツキが教えてくれた。


 イツキ……ありがとう。私頑張るね。イツキがいなくても一人で立てるように……イツキの隣に自分の力で立てるようになるからね……!











 それからイツキのいない生活が始まった。

 大学のゼミの研究や課題はリモートで何とかこなしている。もともと大規模な実験をして統計を取ったりするような研究をしているわけじゃないから、大学に行かなくても何とかなる範囲で頑張れている。


 それでも直接先生に会えないのは他の人と比べてやっぱりディスアドバンテージだから、他の人よりも早め早めの研究を心掛けていた。

 そのおかげもあってか今のところは順調に卒論を進めることができている。


「おはようございます!」

「おはよー結衣ちゃん。今日も朝早いわねー」


 私は治療を始めてからなるべく規則正しい生活を心掛けるようにしていた。それまではイツキとだらだら過ごすこともよくあったけど、やっぱり規則正しい生活が健康な心には必要だろうと思ったからだ。

 私が悪夢を見て飛び起きたりした時なんかはなかなかちゃんとできなかったりするときもあったけど、最近では結構ちゃんと生活できてる……と思う。


「今日は私がお昼ご飯作りますね!」

「結衣ちゃんのお料理美味しいから助かるわぁ」


 私は私にできる精一杯のこととして、イツキのお家の家事をさせてもらっている。料理や洗濯、家の中の掃除は私に任せてもらっていた。

 流石に家中全部私がやるのは、他人に見られたくないものもあるだろうしどうかなと思ったのだけど、おばさんは「樹の彼女さんに、ましてや結衣ちゃんに今更見られて困るものなんてないわよー」って言ってくれて、私に任せてくれた。


 そうだ。イツキのお家の家事をするのは私のわがままなんだ。ただお世話をしてもらうだけじゃ私が納得できないからって、少しでも力になれることがあればって家事をさせてもらっているだけで。

 でもおばさんとおじさんはそんな私のわがままを受け入れてくれて、こうやって信頼して任せてもらっている。


 私はそれが嬉しかった。

 人から信頼されるってとっても嬉しいことなんだって、改めて気づかされた。


 イツキからはいっつもたくさんの愛情を貰ってるし、沙織なんかもただの友達以上に私のことを気にかけてくれている。けれども、近しい人以外からこういった信頼や好意なんかを向けてもらえるのは今まであんまり経験が無くて。

 イツキのご両親は、やっぱりイツキのご両親なんだってわかるような、温かい人たちだった。


「結衣ちゃんのお料理の味付け、なんだかうちとそっくりね」

「あ……それは、イツキが『美味しい』って言ってくれる味を覚えて、そういう味付けばっかりしてたから……かもしれないです」

「あら、嬉しいこと言ってくれるわねー」


 おじさんは普段お仕事で日中は家にいないから、私の傍にいるのはもっぱらおばさんだった。

 おばさんはのほほんとしてて、のんびりしてて……この人が怒ってる姿なんて想像できないような人で。


 そういえば小さい頃イツキの家に行くたびに、甘いお菓子をくれて甘やかしてくれたことを思い出した。

 その頃から、たぶん……私の中の『お母さん』っていうイメージは、おばさんだったのかもしれない。


「結衣さん。無理はしなくていい。ゆっくりでいいんだからな……うちの息子はバカだが、こうと決めたら曲げるようなことはしない人間に育ってくれた。結衣さんのことだって、いくら時間がかかっても絶対に見捨てるようなことはしない。だから、ゆっくりと自分の心と向き合ってくれ」


 おじさんは時々そんな話を私にしてくれた。

 やっぱりイツキのご両親はイツキのことをよくわかってて、私はそのことが何故か自分のことのように嬉しかった。


 イツキのいない時間は、そうやって穏やかにゆっくりと流れていった。











 それでも私は時々、どうしてもいじめられていた時のことや犯されていた時のことを夢に見てしまうことがある。

 イツキの腕に包まれている安心感が無くて、心細くて震えて泣いてしまうこともあった。


 こんなんじゃダメだって頭ではわかってるのに、体がついてこない。心がついてこない。おじさんとおばさんに迷惑なんてかけられないのに……。

 イツキが傍にいない。イツキの声が聞けない。イツキの匂いが無い。イツキの体温を感じられない。その事実が私の心を締め付けてしまうことがあった。


 でも……そんな時は決まっておばさんが私を抱きしめてくれた。抱きしめて、背中を撫でてくれて、耳元で「大丈夫。大丈夫」って言ってくれて……。


 あ……イツキがいつも私にやってくれる「大丈夫」の仕草は、おばさんから受け継いだものだったんだ……。


 私はそのことが何故だか嬉しくて、嬉しくて……。


 イツキ……あったかいね。家族ってとってもあったかいものだったんだね……。

 ありがとうイツキ……ありがとうおばさん、おじさん……私にこんなあったかい気持ちをたくさんくれて……。


 ありがとう……ホントにありがとう――

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