第35話 サイリの本棚~サイリ~

回想の始まり始まり。


二〇二二年十二月八日、母が死んだ。

当時わたしは二歳。

姉のアイリは十歳。

まだ小さかったわたしは葬式というものがぴんと来てはいなかった。

でも姉のアイリがわんわんと泣いていたので、つられて泣いていた。

後々聞いたことだけど、母が死んだ原因は車にはねられたことなんだそうだ。

その日は風が強かったらしい。

母とアイリは手を繋いで歩いていた。

そんなときアイリが風に煽られてバランスを崩してしまった。

母はそんなアイリを助けるために車道にはみ出てしまった。

そのタイミングで運悪く同じく風に煽られていつもより歩道に寄った車に轢かれてしまった。


「アイリ、起きて、起きて!」


そんな事故から十六年。

わたしは十八歳の高校生。

姉は二十六歳の大学生。

朝の弱い姉を起こすところからわたしの一日が始まる。


「んっ、んん? わたしを起こすのは誰?」


アイリは寝惚けて問う。


「あんたの妹のサイリだよ」


毎日起こしてやっている自分の妹を忘れるな。


「本当にサイリ? 

 昨日のサイリと今日のサイリが同じである保証はどこにある?」


わけ分からないことを言ってきた。


「保証はないけど保証する必要はないでしょ。

 見たままで充分よ」


毎日毎日、出会った人が昨日と同じかどうか身分証を提示させる人はいない。


「自分がスワンプマンで無いことを証明できる?」

「証明できるわけないでしょうよ。

 できないからスワンプマンっていうのよ。

 朝から難解な哲学を語るな」


スワンプマン。

一九八七年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験。

ある男がハイキングに出かけた。

この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。

しかしそのとき、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。

そしてこの落雷は沼の泥と化学反応を引き起こして、死んだ男と全く同一の物体となってしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。

スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同じ構造をしている。

見かけも中身も全く同じである。

もちろん脳の状態も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同じで、他人からも区別がつかない。

沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男と同じ姿で平然と家に帰っていく。

そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。

そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

いや、スワンプマンの説明に四百文字も割かせるな。


「やっぱりサイリは丁寧にツッコミを入れてくれて有難いね。

 これは間違いなくサイリだよ。

 今ここに証明された。Q.E.D.」


そんなんで証明されたといえるのか? 

気にかかる部分はあったけれどわたしは聞き流した。


「それは良かったわね。

 そんなことより今日は大学で大事な会議があるんじゃなかったの?」

「そうなんだけどさ。

 ほら、外を見てよ」


アイリが窓の外を指差す。

木々が揺れている。

雨こそ降っていないが、外出するのは嫌気が差す。

とても外出日和とは言えない。


「かなり風が強いわね」

「風が強い日は外に出るべきではないと思うの」

「………そうね」


これが学校の友人の言葉なら「甘ったれるな、さっさと起きろ」なんて言ったところなんだけど、アイリにはそうも言えない。

わたし達は強風で母親を失っているし、アイリに至っては自分も死にかけている。

過敏になっても仕方がない。


「だから今日は布団で本でも読んで過ごそうと思うの。

 サイリも読む? 森鴎外の『舞姫』」


アイリは本棚から一冊の本を取り出してわたしに見せる。


「今更、読まないわよ」

「あら? どうして?」

「自分でも何回か読んでいるし、学校の授業でがっつり読んでいるから。

 何の気なしに読むような本ではないのよ」


わたし達の家には本がたくさんある。

寝室とは別に本棚だけの部屋が二部屋ある。

文学からライトノベルやマンガまで数千冊の蔵書。

全てアイリが小さい頃から集めた本だ。

わたしも小さい頃からこの本棚に囲まれて生活しているから読んだことのある本は多い。

でもこの本棚にある本を全て読んでいるわけではない。

趣味に合わない本は読まないこともある。

しかしアイリはこの数千冊を全て読んだのだという。

一体どんなペースで読んでいることやら。


「読まないか。

 それならこっちはどうかしら? 

 宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』」

「いや、読まないから」


あと宮沢賢治なら『銀河鉄道の夜』が好き。


「わたしも、雨にも風にも負けない強い人間になりたいわ」

「………そうね。サウイフモノニワタシハナリタイ」


わたしは『雨ニモ負ケズ』から引用してみた。


「もしくは人間を超越したいわね。

 世界を設計できる神になって、世界から風を無くすわ」

「随分と壮大な話ね」


神様になってしたいことが風をなくしたいというのは、大きい話か小さい話か。


「それがね。結構、重要な話なのよ」

「世界から風をなくすことが?」

「世界を設計することがよ」


アイリは急に真面目な声のトーンになる。


「サイリ、明日は学校はないでしょ?」

「うん」

「明日、わたしの研究室に来てほしいのよ。

 実験を手伝ってほしいの」

「え!? 研究内容を教えてくれるの?」


それは嬉しい。

気にはなっていたのだ。

この姉が一体どんなものを作っているのか。

わたしと喋っているときはポンコツに見える姉ではあるが、大学では優秀らしいのだ。

AIで世界的な賞を受賞しているし、今も最先端の研究をしているらしい。

らしいというところまでは聞いているのだが、詳しくは教えてくれなかったのだ。


「まだ実験段階のやつだからね。

 部外者に話しちゃだめよ?」

「了解!」


わたしはうきうきで答えた。


「わたしは今日は研究室に泊まるから、明日の十時に研究室に来てくれる?」

「分かったわ」

「じゃあ、行ってくるね」


アイリはそう言って家を出て行った。

今の会話に間に支度を済ませて行ってしまった。

外が風が強くて嫌だと言っていたのに平然と出かけて行った。


「いや、普通に行けるのかよ」

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