第6話 舞姫~エリス~
エリスの前世の話を聞いてわたしは確信した。
「あなた、舞姫のエリスだったの!?」
「はい? あたしの名前はエリスですが?」
わたしが興奮しているのをエリスは不思議そうな目で見ている。
わたしの熱が伝わらないのは当然だ。
しかしわたしは合点がいっている。
というか今まで気付かなかったのがおかしいくらいだ。
ドイツ人なのにドイツらしくないエリスという名前。
薄いこがね色の髪。
青い瞳。
露がたまりそうなほど長いまつげ。
牛乳のように白い肌。
全て舞姫の本文中に出てくる表現。
これは一八七〇年代を生きた悲劇の少女。
「本名はエリス・ワイゲルト?」
「はい」
エリスはわたしの質問に即答する。
「寺院の筋向いの四階に住んでいた?」
「はい」
「父親の名前はエルンスト・ワイゲルト?」
「はい。
なんで知っているんですか?」
それは疑問に思うわよね。
「あなた、日本じゃとっても有名よ」
「え?
そうなんですか?」
そしてわたしはクリティカルな質問をする。
「付き合っていた相手は太田豊太郎でしょ?」
エリスは驚いて目を丸くしていた。
「そうです!
豊太郎様をご存じなのですね!?」
豊太郎、様ね。
そういう呼び方なんだ。
わたしは妙な部分で合点した。
もっと嫌っていてもおかしくないのに。
舞姫は悲恋の話だ。
日本からドイツに留学に行った太田豊太郎は踊り子のエリスと恋に落ちる。
二人は幸せな日々を送っていたはずだった。
しかし豊太郎は仕事の都合でエリスを捨てて帰国してしまう。
身ごもっていたエリスはパラノイアに陥って入院してしまう。
そうか。
あのエリスか。
日本ではこの森鴎外の舞姫が国語の教科書に採用されていることが多い。
だから文学に興味がなくても話を聞いたことがある人は結構いる。
ヰクトリア座なんて珍しい旧カナ表記が印象に残った人も多いだろう。
わたしはすごく印象に残っている。
「今でも、太田豊太郎のことが好きなのね」
私の質問にエリスはイエスともノーとも言えない絶妙な顔をした。
「あの頃ほど好きだとも思えないし、あの時ほど嫌いとも言えませんね」
複雑な乙女心だ。
激動な恋愛を経験しているとそんな感想になるのかもしれない。
「難しいわね」
「生まれ変わってからこっちの世界で今一度会えないかと期待しているのですが、そううまくはいかないみたいですね」
「そっか……」
わたしはどう反応して良いか分からず困ってしまった。
舞姫を読んだ感想は人それぞれだろうがわたしは良い印象はない。
ただただ太田豊太郎が酷い奴だなぁ、という感想。
他の読者も大概「エリスが可哀想」のようなことを思うだろう。
ただ、今目の前にいるエリスは太田豊太郎にもう一度会いたいという。
その心境を推し量るのは難しい。
わたしがエリスの立場だったらどう思うだろう?
自分を妊娠させておいて突然放置した男に会いたいと思うかな?
思わないよな。
「サイリさんは前世で会いたい人はいませんか?」
どうなんだろう?
「前世の人間関係は覚えていないからね。
家族も友人もどんな人がいたか思い出せないのよ」
「そうでしたね。
思い出せると良いですね」
思い出したい気持ちはある。
しかし思い出した結果、エリス以上の悲劇を背負っていないかが不安になってきた。
わたしの前世はどんな人生だったんだろう?
どんな人達と出会ってきたんだろう?
人並みに恋愛でもしていたのかな?
誰かと付き合っていたとしたら、男じゃなくて女の子だろうとだけ予想できる。
どうだろう?
前世と現世がどれだけ関わっているかは分からないけど。
良い前世であってほしい。
「エリスは太田豊太郎に会ってどうしたいの?」
「どうでしょう?
自分でも分かりません」
「分からないんだ?
分からないけど会いたいの?」
「ええ。
会いたいような気持ちもありますが、会いたくない気持ちもあります」
「会いたくない気持ちもあるんだ?」
やっぱり複雑な気持ちを抱えている。
「はい。
前世では、豊太郎様に捨てられた後、どうにもこうにもならず殺してしまいたいと思っていたのですが」
おっと。
怖いことを言い出したな。
まぁ、そう思うのも仕方ないか。
エリスの立場ではそう感じるのが自然だろう。
わたしも同情する。
エリスは豊太郎に捨てられたショックでパラノイアという精神病になっている。
二十半ばで死んだって言っていたから、豊太郎に捨てられてそのままパラノイアが治癒することなく死んでしまったのだろう。
「できることなら忘れたい?」
「というか、ほぼ忘れていました。
こちらの世界で友達もできましたし。
ただ、サイリさんを見て思い出してしまいました」
「わたしを見て、太田豊太郎を?」
共通点があるかな?
「サイリさんの顔を見て、日本人だなって」
「あぁ、そうか」
エリスの青い瞳とは対照的なわたしの黒い瞳。
西洋人に比べると凹凸の小さい目鼻。
エリスからすれば日本人の顔として認識しやすい顔なのだろう。
わたしが朝、鏡で確認した顔は確かに日本人の顔だった。
日本のどこかで地方アイドルをやっていてもおかしくない顔。
「日本人の女性を見たのは初めてです」
「どうかしら?
可愛いでしょ?」
ドイツ人のエリスが日本人に出会うことなどまずない。
留学に来ていた太田豊太郎と偶然に出会ったから、日本人の顔を知っていた。
すごく確率の低い偶然だ。
「わたしがもし日本人で、日本で豊太郎様と出会ったら、豊太郎様と添い遂げることができたでしょうか?」
「あぁ……」
悲しい仮定だった。
豊太郎がエリスを捨てたのは、自身の出世がメインだ。
ただでさえ留学中にエリスと恋に落ち免官となり職を失ってしまった豊太郎だ。
友人を裏切れないし、本国を失い、名誉挽回もできずにベルリンの人の海に葬られてしまうのが怖かった豊太郎は、立身出世のためにエリスを捨てることを決意する。
しかしエリスにどう告げるか悩み続けて、結局自分では切り出せなかった。
どうだろう?
エリスがもし日本人で、日本で豊太郎と出会っていたら。
二人は幸せに結婚できたかもしれない。
そう思うと、わたしはエリスにかけてあげる言葉が見つからなかった。
「でも、生まれ変わって良かったです」
悲しくて辛い話をしていたけれど、エリスは笑顔でわたしに言葉を繋ぐ。
「そうなの?」
「ええ。豊太郎様がいなくても、こうして心穏やかに再び生きることを許されたのですから」
そうね。
終わった人生を悔やむより、これからの人生を素敵なものにしたい。
せっかく二度目の人生があったのだ。
一回目の人生が悲惨だったらなおさら。
これから何度も幸せな人生を噛みしめたい。
「ここでの人生は素敵なものにしたいわね」
「ええ。絶対に幸せになります!」
エリスは気合を入れて宣言をした。
まるでちゃんと愛してくれる人と結婚するための宣言みたい。
可愛い。
「ねぇ、エリス」
わたしはエリスの正面に立つ。
「なんですか?」
「キスしていい?」
無茶苦茶なお願いをしてみる。
「それはちょっと……」
当然断られる。
「冗談よ」
わたしは再びエリスの手を握って歩き始める。
エリスの指は細い。
でもしっかりとした力強さもある。
エリスはわたしの歩幅に合わせてついてくる。
そんなエリスのために何かしてあげたいなと思った。
でもわたしがしてあげられることが思いつかなかった。
辛かった前世を吹っ切れて新しく前向きに生きているエリスに、わたしがしてあげられることなんて無さそう。
せっかくだから一緒に楽しく過ごしたい。
わたしは生まれ変わったこの世界で、エリスに出会えたことを感謝した。
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