第23話 春琴抄~コト~
この世界に春琴抄の鵙屋コトがいるらしい。
「知っているんですか?」
エリスはわたしに質問する。
「ええ、わたしの好きな本に出てくる登場人物よ。
まずい、どきどきしてきた……」
そのとき、不意にことり、と音がした。
わたしの部屋の本棚タイジノユメに本が追加された音だ。
この本棚タイジノユメは、わたしが過去に読んだ物語が随時追加される。
必要そうな本が自動で追加される。
そして今追加された本は『春琴抄』だ。
『春琴抄』
一九三三年に出版された谷崎潤一郎による小説。
盲目の三味線奏者である鵙屋コトと丁稚としてお世話をする佐助の物語。
マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描く。
やたらサディズムとかマゾヒズムの作品が出てくる。
やっぱりわたしは前世でSMの研究でもしていたのかもしれない。
いや、それはともかく。
この世界に鵙屋コトが来ていたのか。
会えるのか。
すごい、会いたい。
「サイリさん、サイリさん。すごい顔になっていますよ」
不意にエリスに呼ばれてびくっと反応してしまった。
どうやら妄想に耽ってしまっていたらしい。
「ああ、ごめんごめん。
今、我に返ったわ。鵙屋コトね。
早速会いに行きましょう!」
「い、今からですか? そ、そんな急にですか?」
「ええ、急がないとわたし達の安全が確保されないもの」
「私達の安全より自分が会いたい一心じゃない」
コーデリアに突っ込まれてしまった。
その通りだから返答に窮する。
ぐうの音も出ない。
「まぁ、いいじゃない。
ギンノイト。鵙屋コトの住んでいる場所を教えて」
「地図を表示します」
スマホの画面に交通経路が表示される。
車で行った場合の予想到着時間も表示される。
「三日もかかるの!?」
ギンノイトが表示した経路ではかなりの長旅になりそうだった。
しかし行かないという選択肢はない。
それからわたし達のは旅の準備に取り掛かった。
といっても準備なんてそんなに面倒なことはない。
せいぜい着替えくらいなものである。
必要なものは現地で買えば良いし、なんなら通販でも良い。
これだけ科学技術が発展し、整備された町から町へ行くだけだ。
車を手に入れたわたし達にとっては簡単なことだ。
ギンノイトが提案した旅行プランでは三日間ずっと車に乗りっぱなしというわけではない。
車に乗っている時間は一日十時間程度。
休憩や宿泊の時間もきちんと確保されている。
現実的な旅行計画で三日かかるということだった。
わたし達は荷物をジェバンニ号に一通り詰め込んだ。
わたしは運転席、エリスとコーデリアは後部座席に乗る。
「よし、出発!」
こうしてわたし達三人は旅に出発した。
当初わたしが考えていた旅の形とは経路も目的も全く違うものにはなったけれど旅には違いない。
いつジュリエットがわたし達を捕らえにやってくるか分からないから気を抜いてはいけないのだけれど、せっかくの旅行なんだ。
しかも美少女二人が同伴。
気を揉んでばかりいるのも勿体ない。
道中はなるべく楽しもう。
「その鵙屋コトさんってどういう方なのですか?」
エリスが後部座席から運転席のわたしに尋ねてきた。
「よし、じゃあ、春琴抄の内容を語りましょう」
わたしはバッグから『春琴抄』の本を取り出した。
本文との合間に二人のための補足を入れながら読み進める。
『春琴抄』
時代は江戸の末期。
大阪に鵙屋という薬屋があった。
鵙屋の次女である鵙屋コトの名は有名であった。
幼いころから賢く容姿端麗にして高雅であり、何と例えて良いかも分からない。
四歳の頃より舞を習い、優艶で大人の舞妓も敵わないと言われたほどだった。
しかし九歳のとき、目の病によって失明してしまう。
そこからコトは三味線や琴を学ぶようになる。
その三味線の腕も確かなもので、幼いながらも弟子の中で一番であった。
しかしコトは失明以来、気難しく陰鬱な性格となった。
晴れやかな声を出すことや笑うことが少なくなった。
そんなコトであったが、あるとき自分の手引きとして佐助を指名する。
佐助は鵙屋に住み込みで働く少年であった。
コトは十歳、佐助が十四歳の話である。
佐助はコトに献身的であった。
おとなしくていらないことを言わないことを買われて春琴の手引きとなったのだ。
佐助はわがままなコトの望みを察して奉仕した。
食事や入浴もトイレの案内も全て佐助がするようになった。
佐助はコトの手引きをするうちに、コトの三味線にも聞き惚れるようになった。
最初はコトに隠れて独り三味線を弾いていた。
それがコトにばれると、コトが正式に三味線を教えるようになった。
こうして十一歳の少女と十五歳の少年は主従の上に師弟の関係になった。
コトの稽古は激しいものであり、日々怒号が飛び交い、撥で頭を殴りつけるようなものであった。
佐助はどんな痛い目にあっても逃げはしなかった。
泣きながら最後まで耐えた。
彼女の叱咤を聞いては無限の感謝を捧げたのであった。
コトが十六歳のとき妊娠した。
しかしコトは相手の名前を言わなかった。
周囲からは佐助に違いないと思われていたが、コトも佐助も一切口を割らなかった。結局、コトは佐助そっくりの子供を出産した末に、里子に出した。
周囲から結婚を勧められたが、二人とも断った。
やがてコトは二十歳になり、師匠の死を機に三味線奏者として独立した。
佐助もまた弟子兼世話係として同行し、わがままがつのるコトの衣食住の世話をした。
コトの腕前は一流として広く知られるようになったが、種々の贅沢のために金銭面は苦しかった。
あるとき、コトの屋敷に何者かが侵入した。
コトの顔に熱湯を浴びせ、大きな火傷を負わせてしまう。
コトは醜い顔を見られるのを嫌がり、医者に以外には佐助にも顔を見せることを拒んだ。
他人と会うときは、顔中に包帯を巻いて鼻と口だけ出すようにした。
「近いうちに傷が癒えたら包帯をよけねばならぬしお医者様も来ぬようになる。
そうしたら他人はともかくお前にだけはこの顔を見られねばならぬ」
と勝気なコトも涙を流した。
それから数日後のこと、佐助は縫い針を自分の瞳の中に突き刺した。
「もう一生涯お顔を見ることはござりませぬ」
以上、春琴抄のあらすじ。
いやぁ、良い話だなぁ。
わたしはしみじみと浸っていた。
相手のためにやすやすと眼を潰せる覚悟と、恋愛を超えた強い結びつき。
こうなりたいとは思わないしなれるとも思えないけれど、その重い絆は超越した美しさを感じる。
「すごいですね……」
エリスも感動していた。
「えっ、怖くない?」
対してコーデリアは恐怖を感じているようだった。
重い愛は受け入れられないらしい。
「素敵に感じない?」
わたしはコーデリアに訊いてみた。
「自分から目を潰して不幸になるのはいただけないわ」
そういえばリア王にも両目をくりぬかれた人がいたな。
思い浮かべることもあるのだろう。
「佐助は失明して不幸だと思ったことは一切ないみたいだどね」
「そうなの?」
「不便と不幸は違うのよ」
春琴抄の本文でもたびたび語られることだ。
佐助は「わしはお師匠様のお顔を見てお気の毒とかお可哀想とか思ったことは一遍もないぞ。お師匠様に比べると眼明きの方がみじめだぞ」なんてことも言っている。
「不思議なものね」
コーデリアは納得しかねるようだった。
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