第32話 黄泉領事館 2日目

 異世界オルエンスの朝は早い。

 電気がないぶん明かりが乏しい《オルエンス》では夜更かしは資源の浪費となるためあまり推奨されていない。

 その代わり日の出とともに人も町も動き出す。

 廊下を歩く忙しない足音で、タケルは目を覚ました。

 黄泉役所で眠りについたときと同じ天井が見える。


(もしかして、昨日のことはぜんぶ夢だったんじゃないのか?)

『そんなわけなかろう』


 唐突に耳の奥に響く内側からの声にタケルの気分は一気に萎えた。


「はあ……わかってるよ」


 口に出して答えておいて、タケルは頭の後ろで腕枕を組んだ。


(そういえば、なにも起こらなかったな)

『なにがじゃ?』

(ぼくが寝ている間はエムリスが体を自由にできるかもみたいな話をしていたじゃないか。でも、どうやらそんなことはできなかったみたいだな)

『なぜそう言いきれる?』

(だってぼくは寝たときと同じくベッドで目覚めた。夜中になにかをした記憶もないしな)


 腕枕をといて両手を確認する。汚れや傷は見当たらない。


『ハッハッハッ。実に浅はかじゃな。自らの行いの痕跡を残すなど素人のすること。散々動き回って何事もないような顔でここに戻ってきたのではないかと、なぜ想像できぬのじゃ?』

(ふうん。じゃあなにかしてきたのかよ?)

『教えられんな』

「はあ」


 ため息を吐きながら、ベッドから身を起こす。木製の木のベッドがキシッと音を立てた。


「感覚を共有してるんだから、エムリスが夜中にめちゃくちゃに動き回ったなら疲れが残ってるはずだろ。それが今は頭も体もスッキリしてる。ちゃんと休めた証拠だろ」

『妾が回復魔法を使用した』

「疲れを残さないように気を遣ってくれたのか? いいやつだな」

『お、おちょくるでない!』


 軽くストレッチをしながら頭と体を起こしてベッドから降りる。


『おい、もう起きるのか? 妾はまだ寝たいぞ』

「勝手に寝ておけばいいだろ? 視覚とかの感覚は共有していても意識は別々なんだから」

『体は疲れるではないか。肉体は動いておるのに意識だけ眠るなどという器用な真似などできるか』

「じゃあ諦めろ」


 会話を切り上げて部屋の扉を開く。外に面した廊下の窓から朝日が差し込んでいた。

 窓の外を除き見る。庭ではクラシカルな装いのメイドが両手で荷物を抱えて忙しそうに動き回っていた。髪の色や雰囲気からしてハクヤとは違うメイドだとわかる。


『こんな朝っぱらからどこへ行く気じゃ?』

(顔を洗って水をもらってくる)


 コハルの部屋の前で一度立ち止まる。


「さすがに起きてないだろうな」

『声をかけてみたらどうじゃ』

(それで起きちゃったら可哀想だろ)

『妾のことは可哀想とは思わなかったくせに』

(おまえと体を共有する羽目になったぼくのほうが可哀想だからな)

『なんじゃとぉ!』


 エムリスと話しながら階段を降りていくと、受付のほうから見覚えのある顔のメイドが歩いてきた。


「おはようございます、タケル様」

「ハクヤさん、おはようございます」


 ハクヤは昨日と寸分たがわぬ髪型、衣服でタケルの目の前に現れた。

 ハクヤは薄く微笑みながら小首を傾げる。


「朝、強いのですね」


 女性との会話経験に乏しいタケルは気持ち悪くキョドりながら「い、いえ」と声を出した。


「なんか、目が覚めちゃって……あの、水道ってどこにありますか?」

「そんなものはありません。水場でしたら、食堂の裏に井戸と飲み水を貯めている瓶がありますので、そちらをご利用ください」

「わ、わかりました」


 面倒だなと思う反面、原始的な生活の体験のようで少し面白いかもと興味を抱いた。


「朝食まではもう少し時間がかかります。準備ができましたら鐘を鳴らすので、もうしばらくお待ちください」

「わかりました。あ、そうだハクヤさん、ちょっと相談なんですけど」

「はい。なんでしょう?」


 昨夜、食堂で起きたことをかいつまんでハクヤに報告した。不良グループが食堂に屯していて他の人が利用できないこと。脅迫や暴行に近い行いを受けたこと、それを相談する警察のような組織はないのかということなど。

 タケルの話を聞いても、ハクヤは驚かなかった。


「ハルアキ様たちですね。把握はしておりますが、私たちにはどうすることもできません」

「どうしてですか?」

「私たちは転生者生活を補助するのが仕事です。ハルアキ様たちも同じ転生者ですから」

「でも迷惑してる人が沢山いるんですよ? 注意したりやめさせたりするのが仕事なんじゃないですか?」

「それは転生者のみなさんの都合です。当事者たちのトラブルをどちらかに肩入れして裁定する権利は私たちにはありません」

「そんな……じゃあ警察は!?」

「そんなものはないと、昨日お話ししたはずです」

「……じゃあ、一方的にやられ搾取され続けろってことですか?」

「明らかに犯罪行為と認められる事態が起きればこの国の法に則って処罰されます」

「なにか起きてからじゃ遅いじゃないですか!」

「なにか起きるまで動けないのが私たちだとご理解ください」


 ハクヤとタケルの間に見えない壁が生じた気がした。

 お役所仕事、という言葉がタケルの脳裏を過る。生前の現実だろうと、死後の異世界だろうと、そこは変わらないのだと諦めた。


「わかりました。水場の場所、教えていただきありがとうございます」

 吐き捨てるように言うと、返事を聞く前に体を反転させて歩き出した。

 後ろからなにか言われた気がしたが、こちらから一度遮った言葉を再度確認する気にはなれなかった。

 

 冷たい水で顔を洗うと少しだけ気分がスッキリした。

 拭くものを持ってこなかったため、服の裾で顔の水気を拭い、麻のシャツの腹部に黒いシミを作った。

 部屋へ戻るための廊下を歩いているとエムリスが頭のなかで大きくため息を吐いた。


「はあ……お主、人柄は悪くないのにモテないのはそういうところじゃぞ」

「おい、モテないのが悪いことみたいにいうなよ。ぼくは推し一筋だからいいんだよ」


 なにもしてないのに勝手にガッカリされてさすがにタケルもイラッとした。怒りに任せて乱暴にドアを開けようとして、ドアノブを掴み、回そうとした。


「痛ってえ!」


 びくともしないドアノブに手首を痛めた。ガチャ、とわずかに動くだけでドアノブは回らない。


『なにをやっとるんじゃ、バカタレ』

「ぼくはなにもしてない! なのに、なぜか部屋に鍵が掛かってるんだよ」


 ガチャガチャと乱暴にドアノブを回して、扉を推したり引いたりしてみる。派手な音が鳴るだけで、扉はまったく開く気配はなかった。


「おっかしいなぁ……」

「『おい』」


 エムリスの声に混じって聞いたことのない低い声が背後から聞こえた。振り向こうとした瞬間、脇腹に衝撃を受けてタケルは廊下の上でもんどりうった。


「ぐあああ……いってぇ……!」

「なにしとんじゃ、ワレ」


 廊下に横たわったまま涙目で声のほうを見上げる。

 振り上げた足を下ろす黒い影がタケルを覆い隠すように立っていた。

 黒いと思っていたのは逆光のせいだけではなく、上下とも黒いジャージのような衣服を着込んでいたからだとわかった。浅黒い肌にツーブロックの黒髪を逆立てた浅黒い肌の男だった。

 獣のような鋭い眼光でタケルを睨むと、その目に力強い気迫を感じた。同時に男の右足が後ろに引き上げられる。


(蹴られる……!)


 と直感した体が勝手に動いて、両腕で顔を隠した。

 ほとんど同時に腕に衝撃を受けて、タケルは後ろに弾き飛ばされた。


『おい、妾もはや我慢ならぬのじゃが』

「魔法はだめだ……我慢しろ……!」

『次に蹴られたらお主の体の周囲を熱で覆う』

「ダメだって言ってんのに……!」


 体を起こしたタケルは両手を上げて降参のポーズをした。


「待った! 話を聞いてくれ!」


 黒い男はさらに足を振り上げる。


「知るか。話なんぞないわボケ」


 迫る靴底を間一髪のところでかわし、繰り出された足に必死にしがみつく。


「チッ! 離さんかボケ!」


 頭を殴られたところで、男が急に「あっつ!」と叫んだ。

 タケルはハッとして慌てて足から手を離す。

 男は右足を抱えてその場にしゃがみこんだ。


「火ぃ着けたんか!? おまえ正気か?」

「つ、着けてない! ほら、燃えてないでしょ!」


 タケルに指をさされて男は自分の足を見る。ズボンが黒いせいでわかりにくいが、燃えて穴が空いたりした様子はなかった。


「どうなっとるん? 燃やすくらいせんとあの熱さは説明つかんで……!」

「いや……ぼくその……平熱高くて……」

「アホか! 体温くらいで火傷したかもなんて思うほど熱を感じることなんてあるかい! ……いや、あるか?」


 言いきってから男は悩みはじめた。タケル自身が人肌に触れることはないが、漫画などではよく人肌でも焼けるほど熱いと表現されることはある。シチュエーションによっては実際の温度より高く感じることはあるだろう。


「ぼくに触れると火傷しますよ……!」

「おもろいやん。やれるもんならやってみ?」

「いや、待ってください。なんで急に蹴ったのか、理由を教えてください!」

「ああ? なんでじゃないわ。おまえがセリナの部屋の扉ガチャガチャやっとるからやろ」

「……え?」


 仁王立ちする男の後ろに目を向ける。タケルの部屋は階段を上ってから三つ目なのに対し、今いるのは四つ目の部屋の前だった。


「もしかして、また部屋間違えた……?」

『部屋に自分の名前貼ったほうがよいのではないか?』

(そうする)


 タケルは身を屈めると、流水のごとく華麗な仕草で膝を突き、頭を下げた。


「すんません! 部屋、間違えてました! あなたの部屋だったとは知らず扉ガチャガチャやってすみません!」

「俺の部屋ちゃうわ。そこはセリナっちゅう女の部屋や」

「あ、そうか。じゃあその人にも謝らないと……!」

「ええて。呼んだって出てこんわ」

「は、はい……」


 男はチッと舌打ちして背中を向けた。去り際に肩越しにタケルを睨み付ける。


「二度とセリナの部屋の扉叩くなよ?」


 殺意のこもった声で忠告して、階段を降りていった。


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