第30話 黄泉領事館 9

「いままでどこにいたの?」


 タケルを部屋へ招き入れたコハルは、扉が閉まると同時にそう切り出した。

 美しい黒髪が多少明るい茶色に変わったことで全体の印象に軽さが出たコハルが、前髪を揺らして振り向く。

 タケルは曖昧な苦笑いを浮かべて後頭部に手を当てた。


「それが……あはは。ぼくにもよくわからないんだ」

「なにそれ?」


 胡散臭いものをみるように、コハルの目が細められる。

 タケルは怪しまれないように、さらには余計なことを言わないように、慎重に言葉を選んで話し始めた。


「目覚めたらこの町の外ににある森のなかだったんだよ」


 異世界オルセンスで目覚めてからのことをかいつまんでコハルに話した。タケルの体に同居するエムリスのことや《オーグル》との遭遇については、あえて語らなかった。

 エムリスについては、本人から他言無用と念を押されていたし、魔獣については、余計な心配をさせたくないという配慮からだった。

 魔法や魔獣の存在については、ハクヤから説明があったらしく、コハルも知っていた。危険な生物が存在する世界というだけで怯えた様子を見せていたのに、近くに魔獣が出現したなどと知れば、余計に怖がらせてしまうだけだろう。


「……で、森のなかで見つけたランジュって子を送ってきたら、入国管理の仕事をしていたここの人と会って、連れてきてもらったんだ」

「へえ。なんか、大変だったのね」


 コハルは最初こそ、すぐに迎えに来てくれなかったことを怒っているようだったが、タケルの話を聞くうちに、すっかり怒りは抜け落ちた様子だった。

 コハルの部屋のベッドに並んで腰かけながら、タケルは林檎に似た赤い果実を剥いていた。タケルが剥く端から、コハルはくし型に剥かれた果実を小動物のようにシャクシャクと噛る。

 まる噛りしようとしていたコハルの手から果実を取り上げ、切れ味の悪いナイフで必死に皮を剥いた。生前は林檎ひとつ剥いたことのなかったタケルだが、プラモデルを作ることで鍛えられた手先の器用さを駆使してなんとかそれっぽく皮を剥いたのだ。


「コハルちゃんは、こっちに来てなにしてたの? 町の様子とか見に行った?」

「ううん。行ってない」


 果実を噛るのをやめて、コハルはベッドの上で膝を抱えて丸くなった。


「目が覚めたら眠ったときとおんなじ天井が見えたの。部屋の中は眠る前と少し違う気もしたけど、なんだか頭がぼーっとして、よくわからなくて……だからあたし、夢だと思ってた」

「夢って……黄泉役所でのこと?」


 抱えた膝に顎を押し当てたまま、コハルは小さく頷いた。


「うん。死んじゃったのは夢で、部屋を出れば知ってる場所に出るんじゃないのかなって」

「……うん、わかるよ」


 黄泉役所で眠りにつく前、タケルも同じことを考えた。寝て起きれば、悪い夢を見ていたで済む可能性があるんじゃないかと思っていた。

 しかし、タケルの場合は目覚めた場所が良くなかったり、最初から見知らぬ魔法使いと体を共有する羽目になったりと、普通じゃないことが連続した。とても夢オチだったで済ますことのできない事態の連続で、嫌でもここが自分の知る世界とは違うということを思い知らされた。

 コハルは顔を上げて仰向いた。


「なんかこの家、すごく綺麗でしょ。テレビのなかでしか見たことないお城みたいで。だからちょっとだけ、外の様子がどうなってるのか気になったりもしたんだけど、ひとりで出掛ける気にもなれなくて……」

「それでさっきまで部屋の中で寝てたんだね」


 くわっ! と目を見開いてコハルは勢いよく顔を上げた。


「ど、どうして寝てたってバレてるのよ!」

「いや、髪の後ろに寝癖ついてたし」

「うそ!」


 あわてて手櫛で髪を鋤いて整える。実はもう自然と髪の毛は整えられていたのだが、コハルは念入りに自分の頭をペタペタと撫で付けていた。


「コハルちゃん、もしかして夜ご飯それだけ?」


 話をそらす意味も込めて、タケルは食べかけの果実を指して聞いた。


「え? えっと、そのつもりでもらってきたんだけど……」


 きゅるるっ、と小さくお腹の鳴る音が聞こえた。

 赤くなったコハルが服の上から細いお腹をギュッと押さえつけた。


「もう! ご飯の話なんてするからお腹鳴っちゃったじゃん!」

「え! ご、ごめん。でもお腹空いてるんでしょ。食堂はもう行ってみた?」

「……まあ、そこでりんごもらってきたんだから」

「あ、これやっぱりりんごなんだ」

「そうじゃない? 色も形も味も、りんごとそっくりだったし」

「異世界だと違う名前なのかと思って」

「別に違ってもいいんじゃないの? 今までだってあたしたちはりんごって言うし、外国の人はアップルとか呼んでるんだし」

「……そっか」


 タケルは、コハルの柔軟な考え方に感心した。

 ぴょんと跳ねるようにベッドが立ち上がったコハルがくるりと反転してタケルの手を引く。


「ほら、早く食堂に行きましょう! ご飯のこと考えたらお腹空いてきちゃった」

「う、うん」


 コハルと連れ添って部屋を出た。


 蝋燭の明かりを銀装飾の調度品が照り返すきらびやかな廊下を歩いて食堂に向かう。


『おい、まだ食うのか?』


 頭の中にうんざりとした様子の声が響いた。


『さっきここに来る前に食ったじゃろ』

(ぼくはな。コハルちゃんがまだ食べてない)

『妾は疲れておると言ったじゃろ』

(勝手に休んでおけばいいだろ?)

『お主の意識が覚醒しておるうちは満足に休まらんのじゃ。肉体の疲労は妾にも伝播する。常に良い体調を心がけなければ満足に力を発揮できぬぞ』

(それってもしかして、魔法にも影響が出るのか?)

『当然じゃ。体調のよいときに使う魔法と悪いときに使う魔法が同等の威力のはずがあるまい』


「ねえ、ちょっとおにいさん! 聞いてる?」


 階段を先に下りるコハルがムッと頬を膨らませてタケルを睨みあげていた。


「あ、ごめん、聞いてなかった。どうしたの?」

「ここの食堂、行ったことあるのって聞いてるの!」

「いや、ないよ」

「じゃあ、場所とかわからないじゃない。あたしが案内するわね!」

「うん、助かるよ」


 先に下りていくコハルを追いかけながら、意識を再びエムリスに向ける。


(体調が魔法に影響するなら、食事も大事だろ? さっきのファーストフードみたいなのじゃバランスもよくないだろうし、少しでも栄養のあるものを食べてくるから、寝るのはもう少し待ってくれ)

『食いすぎは逆に体に負担をかける。腹も壊すしな。適量を食べ、十分に睡眠をとることを心がけよ』

(おまえはぼくの母親か? ……はあ。わかったよ)

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