第10話 黄泉役所 9

 廊下はしんと静まり返っていた。遠くから死者を案内するアナウンスがうすく聞こえてくる。

 夏休み、誰もいない校舎に忍び込んで、遠くから聞こえてくる部活動の喧騒を聞いているような気分になった。

 薄暗い廊下の突き当たりに二階へ続く階段らしきものが見える。

 

「行こうか」


 心春を促すと、不安そうな顔で廊下の奥を見つめていた心春がちいさく頷いた。

 二人分の足音が廊下に木霊する。

 お互いになにもしゃべらないのは緊張している証拠かもしれない。

 はじめての異世界転生を前に期待と不安が入り交じる。階段を一段上がるたびに、生きていた頃の世界も、黄泉役所という不可思議な場所も、すべてが遠ざかっていくような錯覚を覚えた。


(異世界転生をすることなく、極楽往生して楽になるほうが簡単だったかも)


 先程からずっと考え続けていた。隣に心春がいなかったら、階段を上がりきる前に異世界転生をしようなんて考えは萎んで消えていたかもしれない。


「心春ちゃん……」

「なに?」


 心春の返事は固い。声からして緊張しているのがわかる。


「異世界転生を提案したこと、迷惑じゃなかった?」


 心春は階段の途中出足を止めた。先行した尊流は一段上から心春を見下ろす形になった。

 冷たい光を宿した心春の瞳がじっと尊流を睨み上げていた。


「なんで今さらそんなこというの?」

「いや、なんか思ったより大掛かりだったから。手続きとか……」

「あたし言ったよね? もう少し生きてみたかったって。さっきだって、行きたいってちゃんと言ったでしょ? あなたはそのチャンスをくれたじゃない。迷惑だなんて思ってないから!」


 心春の語気が強くなっていく。ここに来てケンカはしたくなかった。


「そうだよね。ごめん」


 気まずい空気のまま、渡された鍵に書かれた番号の部屋の前に到着した。

 部屋の前で鍵を取り出すと、心春は不安そうに尊流を見上げた。


「ねえ、これ、別々に部屋に入らないとダメなんだよね?」

「え? う、うん。たぶん」


 心春は顔を曇らせたままうつむいた。


「そっか……どうしよう。あたし、ちゃんと眠れないかも」

「大丈夫だよ。横になってればいつかは眠れるはずだし」

「わかんないじゃない。だってあたしたち、もう死んじゃったんだし。眠くならなかったらどうするの?」

「うーん。たしかに」


 尊流は腕を組んで唸った。死者に睡眠は必要なのだろうか。

 心春が尊流のシャツの裾を掴む。


「……一緒の部屋じゃダメなのかな」


 甘えるような言い方に、尊流の理性はわずかに揺らいだ。しかし、それも一瞬のことだった。


「それは、たぶん規約違反になるからダメだと思う。それに、ぼくは心春ちゃんが死ぬきっかけを作った相手だよ? そんな人が同じ部屋にいて、心春ちゃんは安心できるの?」


 心春は顔を伏せたまま首を捻って視線をそらした。


「あたし、後悔してるんだ」

「ぼくを助けようとしたこと?」

「ちーがーうー! お兄さんを助けられなかったこと!」


 噛みつくように言われて、尊流は思わず後ずさった。


「え?」

「だってあたし、がんばったんだよ? トラックはすごい勢いで向かってくるし、まわりの人は誰も動かないし。あたしも、最初はかたまってて動けなかった。けど、それでもがんばって走って、あぶないって声もだして、お兄さんをつかまえたのに、けっきょく助けられなかった……」


 話ながら心春の目にはどんどん涙がたまっていき、それはすぐに決壊した。小さな頬に涙が伝う。


「いっつもそう。なにかをやろうとしてもぜったい失敗しちゃう。あたし、なにもできない。だれも助けられない……」


 細い顎の先から涙が滴り落ちた。噛みすぎて、心春の下唇が赤く腫れていた。

 唐突に、心春がなぜ黄泉役所で様々な人に話しかけていたのかを理解した。心春は助けたかったのだ。誰一人助けられなかった生前の自分の行いを後悔していた。極楽往生してその未練さえも消えてしまう前にひとりでも多く助けたかったのだろう。

 尊流は心春の前に膝立ちになり、視線を合わせると、ブラウスの裾を掴んで引っ張る白い小さな手をそっと握った。


「ありがとう、心春ちゃん。ぼくを助けてくれて」


 心春は空いているほうの手の甲で目を拭う。


「……な、なにいってるの? あたしは助けてない……たすけ、られなくて、しんじゃったじゃん……!」


 涙声の心春の言葉を、尊流はゆっくり首を左右に振って否定する。


「心春ちゃんは、ぼくの心を助けてくれた。自分が死ぬかもしれないのに誰かを助けるために動ける人は滅多にいないよ。受験に失敗したぼくは家族の中ではただのお荷物でしかなかったんだ」


 本当はそう思っていたのは尊流だけで、家族は受験の失敗なんて気にせず許してくれていたのかもしれない。だけどそれは都合のいい、希望的観測だと尊流は知っている。母親は行き過ぎた教育で周囲から孤立した。父親は尊流の受験失敗をすべて母親のせいにした。家族は崩壊寸前だったし、尊流に居場所はなかった。死ぬことだけが解決策だとずっと思い続けてきた。


「こんなぼくを勇気を出して助けようとしてくれた。心春ちゃんの行動だけで、ぼくの心は救われたんだ」

「本当?」

「本当だよ」


 心春の手から力が抜けていくのを感じた。尊流はその手をほぐして、自身の小指を絡めて、じっと心春を見つめる。


「転生先の世界で目が覚めたら、すぐに迎えに行く。心春ちゃんが楽しく過ごせるように全力で支えるよ。約束する」


 涙に濡れた心春の瞳は宝石のように輝いていた。瞬きのたびに、睫毛についた雫がきらきらと輝く。心春がぐすっと洟をすする。


「……うそついたらハリセンボンだから」

「一万本でものむよ」


 あまり大袈裟な表現をすると嘘くさくなるな、と思いつつ、心春が笑ってくれたのでよしとした。

 指切りをし、手を離すと、心春は自分の部屋に鍵をさした。ロックを解除して扉をすこし開ける。


「じゃあ、またあとでね」


 そういって手を振る。

 尊流は手を振り替えした。


「うん。すぐに迎えに行くよ」


 扉が閉まり、心春の姿が見えなくなるまで、尊流は部屋の前で見送っていた。

 心春の姿が消えてしまうと、自身にあてがわれた部屋を見つめた。


「あの子がいなかったら転生することも、この部屋の扉を開けることもしなかったかもしれないな」


 改めて尊流は心の中で心春に礼を言った。そしてひとつの回答を得た。

 桜井尊流という人間は、やはり死んだのだ。ここから先は別の人間として、心春のために生きようと決めた。


「そうと決まれば、早く寝て早く起きて、心春ちゃんを迎えに行かないとな」


 一万本も針を呑んだらさすがに経年劣化では済まされないだろうと思った。

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