第36話黄泉領事館 2日目 5


 薄暗い林の奥に城壁のレンガが見えたのは、獣道を一時間以上歩き終えたときだった。


「ここです」


 先頭に立ってタケルとコハルを案内していたランジュは、ひび割れた城壁の前に立って言った。

 壁を伝う蔦や木の根の隙間に黒く変色したレンガが覗き見えており、その一部が巨大な亀裂を境に上下にずれを起こしていた。

 7階建てのマンションに相当する高さの壁に入った亀裂は、その幅だけでも大人ひとり分くらいある。

 亀裂には損傷が激しい部分も多く見られ、中でももっとも被害の大きな箇所は分厚い城壁の向こう側の景色が覗き見えていた。

 それは、スマートな人間が横向きになれば通り抜けられてしまうような、城壁の内と外とを繋ぐ穴だった。


「うわ、マジか……」


 穴を覗き込みながらタケルは唸った。


「すごい! え、これ外出られるんじゃない?」


 コハルが興奮気味に叫んで、タケルを押し退ける勢いで穴を覗き込む。


「コハルちゃん、外に出たいの?」

「うーん、今はまだいいけど、興味はあるわね。ここで何年も暮らすなら、ずっと町の中だけにいたら飽きちゃうでしょ?」

「でも城壁の外には魔獣がいるんだよ?」

「ちょっとくらいなら平気でしょ? 町の外から来る人たちだっているんだから、魔獣がウヨウヨいるってわけでもないんじゃないの?」

「さあ? どうなんだろ……」


 ちらっとランジュを見る。


「そうですね……実際遭遇する確率はそんなに高くないはずです。どういうわけか、わたしはよく出くわしちゃうんですが……」


 可愛らしく苦笑いするが、語っていることは内容は笑えないためにタケルとしては反応しづらい。


「じゃあやっぱり城壁の外に出ないほうがいいんじゃないの?」


 心配性のタケルをよそに、コハルは不満そうに鼻を鳴らす。

 ランジュは空を仰ぎ見て何かを確かめるようにしながら呟いた。


「いえ。今は大丈夫だと思います」

「え、なんで?」


 つられてタケルも空を仰ぐ。頭上には城壁の絶壁と高い木の隙間から青空が覗き見えるだけだった。


「おにいさん、なにしてるの? おいてくよー!」


 くぐもったコハルの声を聞いて視線を下げる。幅広い亀裂の向こう側からコハルがこっちを見ていた。


「はや! もう外出てるし!」


 案外、躊躇することなくランジュも亀裂の隙間に体を滑り込ませる。小柄な二人は難なく亀裂の隙間を通り抜けられる背格好だった。


「ぐっ! くぅ……ぐぬぬぬぬぬ!」


 二人に比べればやや大柄なタケルは狭い亀裂に肩や膝や頭を擦り付けながらなんとか通り抜けた。

 城壁の幅は1、5メートル程だった。

 タケルの入ってきた正門が南側だとすれば、この抜け穴は北東に当たると推察できた。町の裏門は海に面しており、その境は断崖絶壁となっている。タケルたちが出た先は荒波が打ちつける断崖絶壁と森林との境目にあたる、林の中だった。


「ここ、城壁の外なの? なんだかあまり中と変わらないわね」

「うん」


 辺りを見回すコハルの言葉にタケルも内心同意した。


「そうですね。この辺りは同じような森や草原が連なっているだけなので、たいして代わり映えはしないと思います」


 ランジュが林の奥を指差す。


「コンポステーラと呼ばれる丘があって、そこにククの花の群生地があります。そこならたぶん白いククの花もあるはずです」

「行ってみましょう!」


 意気揚々と歩き出すコハルを、ランジュがあわてて追いかけるかたちになった。


「あんまり先に行かないようにね!」

(これじゃあ、まるで保護者みたいだな……)

『まんざらでもなさそうじゃな』

(なんだエムリス、起きてたのか)

『小娘たちの声がうるさくて敵わんから耳を塞いでおったのじゃ』

(ぼくの耳が塞がってない限り関係なく聞こえてるはずだけどな)

『心の耳を塞いでおったのじゃ。ところでお主、疑問に思わぬか?』

(なにがだよ?)

『なぜ魔獣たちは城壁を越えて町に侵入して来ないのか、とな』

(町は安全地帯だから……ていうのはゲームのシステム上の話でしかないもんな。単純に城壁を越えられないからじゃないのか?)

『そんなわけなかろう。昨日遭遇した《オーグル》を思い出せ。あの程度の下級魔獣でさえ大岩を投げつけるほどの怪力を持っておるのじゃぞ。地盤沈下で亀裂の走る城壁くらい簡単に破壊できるじゃろ』


 歩きながら顎に手を当てて口を開く。


「……それをしない、ってことは……」

『できない理由が他にある、ということじゃ』

(なにか特別な力で魔獣の侵入を防いでいるってことじゃないのか? 呪いとか結界とか)

『おお。やるではないか。ゲームとやらでつけた知識が役に立っておるようじゃな。どれ、お主にも見えるようにしてやろう』

(は?)

『よし。空を見よ』

(空?)


 歩きながら空を見上げると、青白いオーロラのような幕が頭上を覆っていた。


「うおおおっ! な、なんだこれ!」

『結界じゃよ。この国と周辺地域を一部覆っておる』

(すげえ……! これで魔獣の侵入を防いでいたのか!)

『そういうことじゃ。この結界は魔法使いであるランジュにも見えておるはずじゃ』

(……ああ、だからさっき、空を見上げて大丈夫って言ってたのか)

『そういうことじゃ』

(だけど、ぼくにはさっきまで空の結界なんて見えてなかったのに、どうしていきなり見えるようになったんだ?)

『妾が見せてやったんじゃ。目に魔力を集中させてな』

(マジか。すげえな!)

『ふふん! そうじゃろ? 妾はすごいんじゃ! お主には魔法の才能は微塵もないかもしれんが、妾は天才じゃ。共有している体に振れておる大気中のマナを操作するくらい、簡単なことじゃ』

(ぼくが魔法を使えていたのはそういうことだったのか)

『うむ。今は魔法に関する事象を見えるように、お主の目を魔力で覆っておるだけじゃがな』

(すげえな!)

『ふふん! まあの。ちなみに戦いのなかで、お主は触れるだけで木を燃やし岩を溶かすほどの高温を発生させておったじゃろ』

(ああ)

『なのになぜ、この出来の悪い作り物の体は燃えなかったと思う?』

(え? いや、そういうもんなのかと思ってた。とくに意味なんてないんじゃないのか?)

『大有りじゃ。それはな、熱と肉体の間に魔力で作った層を挟んでおったからじゃ。貧弱なこの体では一気に全身を覆ったり発火させるだけの魔力はないが、一点集中させるくらいならできる』

(えっと……つまり魔力で作った耐熱性の手袋みたいなのをはめた上で、掌に熱を集中させて木や岩を燃やしていた、ってことか?)

『そのとおりじゃ』

「……やるやん!」


 タケルは口に出して呟いていた。


『むぅ!? なんじゃその上から目線の物言いは! もっと感謝せんか!』

「してるしてるぅー」

『嘘くさいやつじゃ!』


 突然、前を歩くコハルがくるりと振り向いた。


「なによ?」

「え?」

「ええ? な、なにトボケた顔してるの? おにいさんがあたしのこと呼んだんでしょ?」

「……あ! ああ、えっと……」

(また声に出してた! 興奮するとつい声に出しちゃうんだよなぁ……)

『あーあ』

(誰のせいだと思ってるんだよ)


 エムリスとの会話を切り上げて、タケルは薄暗い森の中を先行するコハルに意識を向けた。


「ごめんコハルちゃん、ただ呼んでみただけ」


 歩みを止めたコハルは腰に手を当ててぷくっと頬を膨らませた。


「またぁ? おにーさんてそれ、けっこうやるよね?」

「ごめん、友だちがいなかったから自然と独り言が多くなっちゃって」

「え、そうなの? ……なんか、ごめん」


 悲しそうな顔で謝られて、タケルの心は却って傷ついた。


「コハルさん!」


 突然、悲鳴に近いランジュの声が響いて、タケルとコハルは思わず身を固くした。

 ランジュは木々の生い茂る暗い一角を見つめていた。茂みががさがさと揺れると、黒い四足歩行の動物が飛び出してきた。トカゲににたその動物は、地面に這いつくばり、滑るように移動してくる。その速度は猫のように俊敏だった。

 大きさは大型犬ほどもあり、表面の皮膚は焼け爛れたようにデロデロに溶けていた。

 何より恐ろしいのは、その数だった。一匹飛び出てきた直後に、似たような黒い影が、五つ、六つも飛び出してきた。


「魔獣……!」

『《プリザード》じゃ』

「なにそのかわいい名前!?」


 先頭の一匹が飛び上がり、コハルに向けて鋭い牙の並ぶ口を開けた。


「コハルちゃん!」


 コハルの前に体を滑り込ませたタケルは、飛来する《プリザード》の前に右腕を差し出した。

 《プリザード》はタケルの右肘から手首までを噛み切る勢いでガブリと食らいついた。


「痛っ!」


 と口にしたものの、実際痛みはほとんど感じてはいなかった。

 タケルの腕に噛みついた《プリザード》の口からうっすらと煙が立ち上ぼり、やがて口がどろどろに溶けて、プリザードは絶命した。

 溶け残った胴体がぼとりと足元に落ちる。


「ど、どうなってるんだ?」

『まったく、無茶をするのぅ』

(エムリスの仕業か?)

『妾のおかげ、じゃ。魔法で腕を強、炎を纏っておらんかったら、今頃肘から先を失っておったぞ』

(すまん。助かった)


 一瞬怯んだかのように見えた残りのプリザードは、示し合わせたかのように左右に広がり、囲い混むようにタケルたちに接近してきた。


(ど、どうすんだこれ……!)

『さすがにこの数はお主の魔力ではさばききれん。逃げるしかあるまい』

「に、逃げろ!」


 立ちすくむコハルの背中を押して、ランジュのいる方に走るように促す。

 道とは言えない獣道の端から《プリザード》は出現しているため、ランジュのいる進行方向の道はまだ安全といえた。

 左右に別れた《プリザード》の群れのうち、逃げる方向に近いところにいる《プリザード》を一体、エムリスの力を借りて退けた。

 タケルの行動にエムリスの意志がついてきていなかったために、魔法の発動がわずかに遅れ、タケルの右手の皮膚は《プリザード》の硬くザラザラした表皮に削られて流血していた。


「おにーさん!」


 背後からコハルの声が聞こえるが、タケルには振り向いている余裕はなかった。


「先に行ってて!」


 仲間を二体殺されたことで多少なりと警戒したらしい。《プリザード》はジリジリとタケルとの距離を詰めてくる。


『おい、なにをしておる。妾は逃げろと言ったはずじゃが?』

(コハルちゃんたちが無事に逃げきれたらぼくも逃げるよ)

『わからんやつじゃな。この状況で逃げきれるのはお主一人だけじゃ。それを踏まえて、妾は逃げろと申しておる』

「なら断る!」


 タケルの怒声にエムリスが息を飲む気配が伝わる。


(ぼくが生き残るためにコハルちゃんを犠牲にするなんて選択はあり得ない! けど、ぼくが犠牲になることでコハルちゃんが生き延びる可能性があがるならそれでいい!)

『……面倒くさいやつめ』

「おるぁあああ! かかってこいやトカゲモドキぃぃぃぃ! 全員まとめてあいてしてやらぁぁぁぁ!」


 タケルの咆哮を皮切りに《プリザード》が一斉に動き始めた。

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