第5話 黄泉役所 4

「ね、ね、ねえ、ねえ、お嬢ちゃん、ここがどこか知ってる?」

「し、しらない……」


 心春は震えながら体を小さく畳んでベンチに腰かけていた。

 となりには、汚れたスウェットを肥えた贅肉で膨らませた男がでんと座っている。顔は無精髭で覆われており、髪はシラミと油でギトギトだった。


「お、お、教えてあげようか。ここはね、死後の世界だよ。お嬢ちゃんはね、死んじゃったの」


 頭のすぐ上から陰湿な声が落ちてくる。顔を上げれば目の前に恐ろしい顔がある気がして、心春は額が膝にくっつきそうなくらい低く頭を下げた。


「ぼ、ぼ、僕って物知りでしょ? すごいでしょ? ねえ、ねえ、どうしてわかると思う?」

「わ、わかんないわよぅ……」


 心春が涙声になると、男の鼻息が荒くなった気がした。


「んんんふふぅ。だ、だ、ダメだなぁちゃんと考えてくれないと。で、で、でもね、答えは簡単なんだよだって僕は自分であのくだらない世界から……」

「おい!」


 突然、鋭く声をかけられて、側の男かがしゃべるのをやめた。「おい」と叫ぶ声には聞き覚えがあった。


「な、な、な、なんだよ、おまえ……」


 知らない男の声が遠ざかる。


「おまえこそなにやってるんだよ。怖がってるだろ!」

「は、はあ? 誰が怖がってるって? ぼ、ぼ、ぼ、僕はこの子と仲良くおしゃべりしていただけだよ」

「なにが仲良くだ! ふざけんな! 今だってこんなに怯えてるだろ。わかんないのかよ!」

「そ、それはおまえが大きな声を出すから……」


 そっと体をずらした心春は恐る恐る顔を上げる。

 目を開けると、目の前に小太りの中年男性と、その向こうに尊流の姿が見えた。

 中年男性の意識が尊流に向いている隙に素早く立ち上がり、急いで尊流の背後に隠れた。


「大丈夫、心春ちゃん?」


 尊流の手がそっと心春の背中に触れる。


「だ、大丈夫よぅ……!」


 まったく大丈夫には聞こえない細い声で心春は言った。

 中肉中背の中年の顔が卑屈に歪む。


「な、な、な、なんだよおまえら、兄妹で死んじまったのかよ。御愁傷様だな……!」

「おまえには関係ないだろ」


 尊流と中年男性との睨み合いが続く。と、思われたそのとき、


「整理番号996番の方ぁー! 996番さぁん!」


 と声がかかった。


「……ちっ」


 と舌打ちをして、中年男は面接室から顔を出して叫ぶ職員のほうに向かって歩いていった。

 尊流はほっと胸を撫で下ろして息を吐いた。


「……ふう。まったく、なんなんだ、あいつは」

「しらないわよ、バカ」 

「いや、バカって……」


 背中側にいた心春に軽く腰を小突かれて、尊流は「はふん!」と変な声をあげた。


「な、なにするんだよ!」

「トイレってウソだったんだ」


 膨れっ面の心春に睨まれて、尊流は目を逸らした。


「ご、ごめん」

「もう戻ってこないのかと思ったじゃん!」

「そんなわけないよ」


 心春をベンチに座らせて、その隣に尊流も腰を下ろす。


「さっきこんなものを見つけたんだ」


 尊流は服のなかに隠していた黄泉役所のパンフレットを引っ張り出して、心春の膝に置いた。

 心春は小さな手でパンフレットを掲げて眺める。


「なによこれ?」

「この施設のパンフレットなんだけど……心春ちゃん、ちょっとだけ聞きにくいことを聞いてもいいかな?」


 パンフレットから顔を上げた心春が緊張した面持ちでじっと尊流を見つめる。どうやら尊流の声音から、これからする話が大事なものだと感じ取ったようだった。


「な、なに?」

「心春ちゃんは……その……もし生き返ることができるとしたら、そうしたいと思う?」

「……はい?」


 と、首を傾げる。質問の内容自体はそう難しいものではない。ただ、なぜ今さらそんなことを聞いてくるのか、ということに疑問を持っているようだった。


「実はさっき、ここの職員の人に裏技を教えてもらったんだ。もしかしたらなんだけど、このまま天国にいく以外にも、もう少し生きていられるかもしれない」

「ホント!? 生き返れるの!?」


 勢いよく尊流の話に食いついてきた。その心春の口をとっさに手で覆って声をひそませる。


「しー! これ、マジのマジで裏技だから……!」


 心春は口を覆われたまま、うんうんと頷いていた。

 黄泉役所が正式に提供している制度なのだから、該当する死者全員にリ・インカーネーション・システムを利用する権利はあると思う。しかしわざわざ伝える必要があるとは、尊流は思っていない。

 異世界転生ができると知れば、多くの人はそれを望むだろうと思う。ただでさえ現世は異世界転生ブームで、その事象の認知度も上がっている。極楽往生のように確立されていない手続きをしてひとり一人異世界に送るとしたら、膨大な時間がかかるだろう。さすがに職員に申し訳ない。

 それにもしも、この制度に人数の上限があった場合、自分たちがその枠から外れる可能性も出てくる。そんなことになったら本末転倒もいいところだ。


「興味ある?」


 真っ直ぐ尊流の目を見詰めたまま、心春ははっきりと頷いた。


「よし」


 と頷いて、心春の口から手を放す。


「……あ、でも……」


 と、心春は顔を曇らせて視線を下げた。


「やっぱりいい」

「え! なんで?」


 尊流は思わず聞き返していた。一度は嬉しそうにしたはずなのに、なぜ一瞬で態度を変えてまったのか不思議だった。

 心春は下を向いたまま答える。


「生き返る必要がないから」

「え? でもさっき一瞬嬉しそうにしたよね? 未練とかあるんじゃないの?」

「未練……は、ない、かな」


 悲しそうに呟く。

 尊流は悩まなければならなかった。リ・インカーネーション・システムの利用は心春にこそしてほしいと思っていた。自分のせいで死なせてしまった心春を、異世界でとはいえもうすこし長生きさせてやりたい。

 しかし心春がそれを望んでいないとなると、リ・インカーネーション・システムを利用を薦めるのは余計なお世話ということになるのではないか。


「本当に未練はないの? だって、心春ちゃんは今日、死ぬために歩いていたわけじゃないでしょ?」

「当たり前じゃない。でもそうじゃなくて……あたし、ジャマ者だから」


 きっぱりと、心春はいいきった。


「邪魔者? 誰の?」

「アカネさんとヒロキさん」

「ああ……」


 と唸って、尊流は項垂れた。

 死歴書で見てしまった苗字の違う家族構成の項目。加えて家族仲も悪いとなれば、心春の家での肩身の狭さは相当なものだろう。生き返るのを拒否するくらいなのだから、きっと尊流には想像もできないくらい生きにくい境遇なのかもしれない。


「そっか。それはたしかに、生き返るのはつらいことなのかもしれないね」

「まあ、ね」


 心春の顔からはすっかり活力が消えてしまっていた


「でも大丈夫」


 なにが大丈夫なのかわからず、心春はじろっと尊流を睨む。


「なんでそんなこといいきれるのよ?」

「生き返るのはぼくたちがもともといた世界じゃなくて、異世界だから」

「え?」


 ポカンと口を開けて心春は固まった。

 尊流は心春の手からパンフレットを受け取り、ペラペラと捲って、件の制度が表記されているページを見せる。


「さっきの生き返るって話、正式名をリ・インカーネーション・システムっていうんだけど、日本語にすると異世界転生制度になるんだ。つまり、生き返るのはもとの世界じゃなくて異世界なんだよ」

「それを早く言いなさいよ!」


 心春の拳が尊流の脇腹に刺さる。非力な少女のパンチなど痛くはないが、痒くはあり、尊流は体をくねらせて「はふん!」と鳴いた。

 気色悪い尊流の鳴き声を無視して、心春は尊流の手からパンフレットを奪い取って眺めた。そしてリ・インカーネーション・システムについて書かれている箇所を指差す。


「これ、どうやって利用するの!? 行きたい!」

「こ、このあとの面接で利用したいって伝えれば、次の指示を出してくれるって話だったけど……」


 少女は目だけでなく顔全体が生き生きと輝いていた。とても死人の顔には見えない。そんな心春がハッとして尊流を見る。


「ねえ、これ、お兄さんも利用するの?」

「え? うん、ま、まあ……心春ちゃんさえよければ」


 にんまりと心春は笑った。


「いいんじゃない? いいと思う! 一緒に行きましょ!」


 心春はパンフレットをぎゅっと胸に抱いた。


「あたしね、お兄さんを助けて死んだことは全然後悔してないの。生きてる間は、今の家族とうまくやらなきゃって、そればっかり考えてた。お兄さんと横断歩道で並んでいる間もずーっと。あたしの家族のことは学校でも有名だったから、同級生たちは、あたしと仲良くしちゃだめって両親から言われていたみたいで。友だちって呼べる人はいないし、彼氏なんてもちろんできたことないの……だから未練がないのは本当なんだ……」


 心春は胸に抱いたパンフレットが潰れるくらい強く抱き締めていた。黄泉役所の蛍光灯の明かりが艶やかな黒髪に綺麗な天使の輪を作っている。思わず見惚れていると、心春の真っ白な頬に涙が一筋流れた。


「……未練はないけど……もう少しだけ生きてみたいと、思うの……だって、ずっとずっとヒロキさんとアカネさんのご機嫌ばっかり気にしてて、友達とお買い物したり、映画見たり、ご飯食べたりとか、したことないの。そういうことできずに死んじゃったのはさみし……」


 言いかけて、心春は下唇を噛んで黙り込んだ。一度大きく息を吸いこんで、ゆっくりと首を左右に振る。


「……ごめん、ちがった。さみしいんじゃなくて、くやしいの。もっと楽しいこと、してみたかった……! これって未練かな?」


 尊流は思わず心春の小さな頭に手を乗せた。自分が死ぬ原因を作った男に頭なんて触られたくはないだろうが、こうする以外に泣いている少女を慰める方法がある思いつかなかった。


「それはたぶん、未練じゃないかな? 未練があるうちは生きるほうがいいよ」


 尊流の手を頭に乗せたまま、心春はちいさく頷いた。


「一緒に異世界転生制度を利用しよう」


 尊流の言葉に、心春もう一度、大きく頷いた。

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