第五章 日記②


 帰り道、俺は小さな町に戻ると、その落差を再び実感した。


 まだ早い時間なのに、駅の周辺にはほとんど人影がなく、ただ蝉の鳴き声が絶え間なく響き、アスファルトの路面には熱気の揺らめく幻影が広がっていた。


 俺は之橋と並んで家に向かって歩いていた。


 途中、枯れ枝や落ち葉を満載した農用の改造トラックが向こうからやってきた。「ゴゴゴ」と轟音を立てながら進むその姿に、まるで途中で解体してしまうのではないかと疑いたくなるほどだった。俺たちは道端で通り過ぎるのを待っていた。之橋は「そんなの、壊れないの?」と呟き、俺は思わず笑みを浮かべた。


 トラックが道の先に消えるのを見届けてから、俺たちは再び歩き始めた。人影のない小さな公園、寂れた商店街、そして広がる稲田を通り過ぎた。暑さで体内の水分が蒸発してしまいそうで、話す力もなく、之橋は半ばゾンビのように俺の腕にしがみつきながら歩いていた。


 両親は仕事に出ていて、家には誰もいなかった。


 俺は玄関の前で鍵を探していたが、之橋は今にも扉を破って中に入りたいような様子で、俺の背中に頭を押し付け、左右に揺らして急かしていた。


 「鍵ってのは、家に着く前に出しておくもんだよ。コンビニのレジで順番が来る前に小銭を用意しておくのと同じだ」


 「よく言うよ。毎回レジで何を買うか悩んでるくせに」


 「それは店員が新商品とか特売品の札をレジの隅に置くからだよ。だから私のせいじゃない」


 「仰る通りです」


 俺は争うのをやめ、やっとの思いで鍵を見つけた時、隣の家のおばあさんが突然玄関に出てきて、俺たちを覗き見ていた。


 「あら、柏宇、今日はこんなに早く帰ったの?」


 いきなり現れて、俺も之橋もその場で固まった。


 「そ、そうですね」


 俺は先に反応し、之橋を後ろに引き寄せて身を隠したが、顔が見えなくても、その体型は一目瞭然だった。


 母も同じ農協で働いており、同僚同士の繋がりも深い。上司からの病気の見舞いの言葉と、隣のおばあさんからの情報が組み合わさると、仮病を使って仕事をサボり、女の子を家に連れ込んだという結論に達するのは簡単だった。


 この噂は町中に広まるだろう……少し大げさかもしれないが、知り合いのみんなには確実に伝わるだろう。


 「今日は本当に暑いですね!」


 とりあえず笑顔で返しながら、之橋に入るよう促した。之橋は礼儀正しく会釈し、玄関に逃げ込んだ。


 隣のおばあさんは笑顔を浮かべた。


 「彼女さん?」


 この状況でどう答えても問題になるので、俺は苦笑いをして誤魔化しながら、同じく家に入ろうとした。


 「その彼女さん、以前にも遊びに来たことがあるでしょう?」


 その言葉に俺は驚き、足を止めた。


 「覚えていらっしゃるんですか?」


 「あなたが大学生の時だったわね。今思えば随分前のことだけど。夏休みに同級生を招いて庭でバーベキューをして、すごく賑やかだった。その彼女さん、笑顔で一緒にバーベキューをしようと誘ってくれて、私と話してくれたのよ。いい子だったわ」


 隣のおばあさんは懐かしそうに話していた。


 俺はうなずいて相槌しながら、心のどこかでこれまで無視していた部分に気づいた。


 俺の記憶は正確だった。


 大学二年生の夏休みに、之橋、禾樺、曉文が実家に遊びに来て、数日間滞在し、庭でバーベキューをした。隣のおばあさんがそのことを証言してくれた。


 では、もし現在の之橋が七年前に戻ったら、同じ時間点に戻るのだろうか?


 同じように二階に住み、庭でバーベキューをして、隣のおばあさんとおしゃべりをするのだろうか?


 彼女は七年後の未来の記憶を持ったまま、再び大学生活を送り、そして有名企業で法務を担当し、27歳で自殺するのだろうか?


 この疑問がすべての鍵であることに気づきながらも、なかなかその答えを見つけることができなかった。


 その間、隣のおばあさんはさまざまな話題を続け、私の両親もそろそろ孫が欲しいと思っていると嘆きながら、どこからか持ってきた饅頭や包子を分けてくれた。プラスチック袋はさまざまな種類でぎっしり詰まっていた。

(※饅頭:具なし中華まん。包子:にくまん、あんまん、野菜まんなど具がある中華まん)


 おばあさんのすすめで一口食べてみたが、味は感じられず、少ししてから別れを告げた。


 大門をロックした瞬間、肩の荷が下りたような気持ちになった。


 玄関に漂う蒸し暑さが、何故か安心感を与えてくれた。


 私はゆっくりと階段を上り、部屋に戻ると、之橋がベッドに無造作に横たわっていた。冷房は最大風速で吹いていて、風の音が響いていた。


 「そんなにしたら風邪ひくよ」


 私はプラスチック袋をテーブルに置き、枕に顔を埋めている之橋に言った。


 「バレなかった?」


 「多分大丈夫。俺がしらを切り通せば、うちの両親もおばあさんに追及しないと思う」


 之橋は横顔を少し見せ、ほっとしたように口元を緩めた。次の瞬間、何かを思い出したように言った。


 「そうだ、予約してた漫画が届いてるはずだから、今夜コンビニに付き合って」


 「いつ頼んだの?それに、どうやって?」


 「七年前のテクノロジーを侮らないでよ。あの頃だってネットで本を注文できたんだから」


 「で、誰が払うの?」


 「仕方ないじゃない!結末が気になるところで終わってるんだもん。あんたが最新巻を買ってないせいで、続きが読めないなんて、こんなに苦しいことはないよ。っていうか、なんで買ってないの?」


 理屈が通らないくせに、堂々と理論を振りかざし、最後には矛先を俺に向けるとは、さすが之橋だ。


 俺は無力にため息をついた。


 「読む時間がないんだよ」


 「冗談でしょ、あんたの仕事そんなに忙しくないでしょ。とにかく立て替えてよ。絶対に返すから。ここで返せなくてっも、七年前のあんたに返すから」


 彼女がいずれ元の時間に戻れるという考えに、俺は少し眉をひそめ、再びその疑問が浮かんだ。


 ──七年前に戻って、大学生活を謳歌して、仕事に打ち込んで、そして27歳で命を絶つのか?


 「で、昨晩どこに行ってたの?」


 之橋は体を反転させ、よっこらしょと座り直した。彼女はしばらく床の明暗の境目を見つめてから、ぼそっと答えた。


 「アパートに行ったの」


 「アパートって……宋之橋が会社の近くに借りてるあの部屋?どうして住所を知ってたの?」


 「わからないけど、彼女のSNSにアパートの外を撮った写真が何枚かあって、それを手がかりに会社の周辺を調べてみたの。半日くらいで見つかったわ。結局、自分の好みはわかっているからね」


 「それで、無事にアパートに入れたの?」


 「うん、私は宋之橋の妹だって言ったら、大家さんがすんなり通してくれた」


 之橋は誇らしげにベッドの上に立ち、剣を抜くようなポーズでジーンズの後ろポケットから丸めたノートを取り出し、俺に突きつけた。


 反射的にノートを受け取り、之橋はすぐに手を離してベッドに再び倒れ込んだ。


 丸められてシワだらけの天青色のノートを力を入れて広げる。表紙の隅には小船と波のような線が描かれているが、それ以外に絵はなかった。右下角は少し丸まり、インクの汚れがいくつかあり、使用感が見て取れた。


 ノートの内容をなんとなく予測しつつも、俺は彼女に尋ねた。「これは何?」


 「私の日記」


 「君の日記?」


 「正確にはこの世界の宋之橋の日記。分かってるのに何度も聞くなよ。直接見ればいいじゃない」


 「読んでもいいの?」


 「構わないわ」


 俺は再び天青色のノートを見下ろした。


 「ところで、日記はこれ一冊だけ?こんなに薄いのに、毎日書いても一ヶ月分も足りないだろ?」


 「最近書き始めたみたいだね。大学時代まではそんな時間の無駄はしてなかったから。帰り道に何ページかめくっただけで、ちゃんと読んでないけど」


 之橋は体を反転させ、ボールを受けるような姿勢をとりながら叫んだ。「おい、シューティングガード!饅頭か包子を投げて!」


 「ベッドで食べるなよ」


 「子供じゃないんだから、こぼさないようにするから」


 之橋が執拗にボールを受ける姿勢を続けるので、俺は仕方なく包子を一つ投げ、書斎の椅子に座り直して日記の最初のページを開いた。


 内容は思ったよりも簡潔だった。日付は書かれておらず、大部分が一、二行で終わっていた。


 ──人の話を聞かない上司の鼻っ柱を殴りたくなる。


 ──疲れた。


 ──今日のランチはツナサンドとマンデリンコーヒー。


 ──あの女、なんで黙らないんだ?そんなに上手いなら自分でやれよ!


 ──今夜の月は数十年ぶりに一番丸いらしい。


 ──初めて徹夜で残業して月を見逃した。


 ──自分へのご褒美に、今夜はステーキ。


 ──クソな人事部。


 ──あのクズども。


 ──朝、エアコンが水漏れしてるのを発見。


 ──雨の日は部屋にこもりたい。


 ──暑くなってきた。夏服を買わなきゃ。


 ──セクハラしてくる奴は死刑にすべきだ。


 ──新しいベリーシェイクはなかなか美味しい。


 ──残業がこんなに疲れるなんて思わなかった。笑っちゃうくらい。


 ──私たちって同じ言語を話しているのかしらと疑ってしまう。


 ──映画を見に行っていないなぁ、最近何が上映されているんだろう?


 ──蝉がうるさい。


 ──角に新しい居酒屋がオープンした。覚えていたら行ってみたいな。


 ──今日は空がとても青くて綺麗。


 之橋のスタイルがよく表れている、思いついたことをそのまま書き留める感じだった。しかし、日記というよりも、日常生活の断片のようなものだった。


 何ページも読んでみたが、内容は同じような短い文ばかりで、仕事の愚痴や朝食、天気、気分など些細なことが書かれていた。日付は記されていないので、いつから書き始めたのか、いつ終わったのかは分からない。全て同じスタイルだった。


 内容はネガティブなものが多いが、自殺をほのめかすような記述は見当たらなかった。


 最後の一文はコンビニの新商品についてだった。


 ──最近広告しているあのチョコレートパン、すごく甘い。


 その乱雑な筆跡を見つめながら、葬儀のときに見た宋之橋のスーツ姿で微笑む写真を思い出し、心の中に小さな揺らめく火のような感情が湧き上がった。それは繊細で温かいものだったが、触れようとするとすぐに消えてしまいそうだったので、深く考えるのはやめた。


 「どうして急に宋之橋のアパートに行こうと思ったの?」


 私は日記を閉じながら尋ねた。


 「ただ、仕事をしている自分がどんな部屋に住んでいるか見たかっただけ。でも、行った時にはもう遅かった。家具は全部運び出されていて、見るべきものは何もなかった。退屈で部屋の中を探検していたら、この日記を見つけたんだ」


 「引っ越しのときに忘れたのかな?」


 「それが私のすごいところなの。隠していた場所はとても見つけにくいところだった。私自身じゃなければ、永遠に見つからなかったかも」


 之橋は誇らしげに胸を張った。


 「それで、そこで一晩泊まったの?」


 「そう、もう遅かったから、大家さんに頼んで床に寝かせてもらった。布団もなくて、今朝起きたら腰がめちゃくちゃ痛くて、まるで背骨が消えたんじゃないかって思うくらいだった。だからあんたのベッドを借りたの。起きたら返すから」


 之橋は肩を大げさに叩き、再びベッドに倒れ込んで枕に顔を埋め、くぐもった声で言った。


 「だから今日はこれで終わり。ご飯もいらない、おやすみ」


 俺はすぐにそれが「話を終わらせる」合図だと察した。


 唇を引き締めながら、之橋の背中とベッドに広がる彼女の髪を見つめ、これ以上追及するべきか考えた。


 七年後の自分の日記を手にしたのだから、彼女が興味を持たないわけがない。特に、之橋のように寝る時間も惜しんで漫画を一気に読むような性格なら、きっとすでにじっくりと読んでいたはずだ。


 一日一晩あれば、何度も繰り返し読んでいただろう。


 にもかかわらず、未来の自分は順風満帆な生活を送っていたわけではなく、日記には様々な愚痴が書かれ、最後には自殺してしまった。


 之橋が日記を読んだとき、どんな気持ちだったのか、想像もつかない。


 俺は机の上の日記を見つめ続けた。タイムスリップや之橋についての考えが次々と浮かんでは消え、まとまりのない思考が頭を駆け巡った。


 「柏宇、あんたは今の自分が好き?」


 之橋が突然尋ねた。


 俺は答える前に、之橋が体を反転させて壁を向いているのを見て、彼女が答えを聞く気がないことを察した。


 しばらくして、冷房の音の中、彼女の微かないびきが聞こえてきた。彼女は本当に疲れているのだろう。俺は顔に手を当て、指に何かが付いていることに気づいた。目の前に持ってきて確認すると、指先に深紅色の粒が付いていた。しばらく考えてから、さっきの包子の具だと気づいた。多分、あんこだろう。


 そのままズボンに擦り付けて拭い、再び座り直して日記の角を指で繰り返し揉んでいた。


 時間が静かに流れていった。夕陽が部屋に差し込み、景色を濃厚なオレンジ色に染め、長い影を落とした。その鮮やかな色彩は一瞬で消え、夜の帳がこの部屋と小さな町全体を包み込んだ。

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