第三章 淚②

 深夜の街道は人影もなく、遠くから響くエンジン音が静寂を一層引き立てていた。


 賑やかな繁華街へ近づくにつれて、周囲の景色が少しずつ活気を取り戻していく。ネオンの光が地面に広がる暗がりを覆い尽くし、街の景色に独特な光の膜を作り出している。その色彩は絶え間なくぼんやりと滲み、淡い灰色の夜空には月も星も見当たらない。商業ビルのいくつかのフロアにはまだ灯りが点いていた。


 この辺りに来るのは初めてで、自然とバイクのスピードを落として慎重に走行する。左折禁止の道が多く、数本の通りを遠回りして、ようやく之橋が送ってきた住所の近くにたどり着いた。バイクを路傍の黄色線に駐車して、周囲を見回したが、之橋の姿は見当たらない。


 仕方なくスマホを取り出して「着いたよ」とメッセージを送ると、ほぼ同時に「既読」のマークが表示された。


 もう一度辺りを見渡すと、今度は之橋が通りの向かいにあるコンビニから出てくるのが見えた。赤い防水仕様の靴袋を左手に持ち、右肩にはショルダーバッグを掛けている。自動ドアの内側で窓際の席に座る青年に軽く会釈をし、信号が変わる前に小走りでこちらへ渡ってきた。


 「試合お疲れ様」


 「うん、ごめんね、こんな時間に呼び出しちゃって」


 「気にしないよ。どうせまだ寝てなかったし、禾樺とゲームやってたところだ」俺はショルダーバッグを受け取り、足元のステップに置いた。靴袋を受け取ろうとしたが、之橋は一歩下がりながら言った。


 「それは自分で持つから大丈夫」


 そして続けて、「お礼に夜食でもどう?」と尋ねてきた。


 「今から?」


 「深夜だけ営業してるパスタのお店があるんだって。シェフはミシュラン三つ星の店で働いてたイタリア人らしいよ。すごく腕が良いんだけど、吸血鬼だって噂されてる。だから日中は営業できなくて、夜だけらしいよ」


 「そんな理由なわけないだろ……まあちょっと興味はあるけど、今日はやめておくよ」


 俺は片手でヘルメットを差し出した。之橋は軽く髪を整えてから被り、ストラップをきちんと締めた。


 「ところで、さっき君の隣に座ってた人、誰?あいさつしただろう?」


 嫉妬しているように聞こえないよう努力したが、自分でも失敗したと思った。


 「法学部の男子バスケの元キャプテン、曹展廷。今は四年生。たまたま友達と夜通しカラオケに行く予定で、集合まで時間があるから付き合ってもらったの」


 之橋はさらっと答えた。


 「夜通しカラオケか……青春って感じだな。俺たちのクラス、最近全然そういう集まりないよな」


 「みんな朝カラの方が好きみたいだね」


 「そういえば、今日の試合ってインカレ杯だよな?男子バスケも一緒に出場したのか?」


 「あいつは観客だよ。友達を応援しに来ただけ」


 「でも、一緒に打ち上げしてたんだろ?」


 「学校ではたまに顔を合わせるし、会場で偶然会ったから一緒に行くことになっただけだよ。」


 そんな会話をしている間に、俺はバイクを整備し、後部座席のステップを引き出した。之橋は俺の肩に片手を置いて「よっ」と声を上げながら後部座席に腰を下ろした。


 「準備オッケー」


 「ああ」


 俺はアクセルを開き、外側の車線で少しずつ速度を上げた。


 之橋は寒さが堪えたのか、大衣のポケットに両手を差し込んで俺の腰にしがみついていた。帰り道、二人とも無言のままだった。


 風が笛のような音を立て、耳元を過ぎていく。ひゅうひゅうと。


 繁華街を抜けると、闇の中を走っている錯覚に陥る。信号はすべて点滅赤信号で、ほとんど止まることはなかった。アパートに到着すると、之橋はバイクが完全に止まる前に飛び降り、ヘルメットをミラーに掛けて街の向かいにある小さな公園へ向かって歩き出した。


 慌てて鍵を抜き取り、後を追う。


 「宋お嬢様、こんな時間にどこへ行かれるおつもりですか?」


 「まだ眠れないから、向こうで少し座ってるだけ」


 之橋は振り返らずに答えた。


 「今から?もうすぐ夜中の十二時だぞ。それにこんな寒いのに?」


 「先に戻っててもいいよ」


 「こんなところに一人でいさせるわけないだろ」


 俺は仕方なくため息をつき、之橋の後を追ってU字型の路障を跨ぎ、公園の中へ入った。


 この小さな公園は平日の午後になると近所の子どもたちに人気で、砂場やブランコはいつも行列ができ、親たちも近くで談笑している。しかし、真夜中の12時を過ぎると一転して不気味な雰囲気に包まれる。街灯の数は明らかに足りておらず、目を細めても低い茂みや塀、レンガ敷きの小道、それにあずまやの輪郭をなんとか認識できる程度だ。視界全体が濃淡の異なる影に覆われている。広場の端にはベンチがあるにもかかわらず、之橋は木々の間を抜ける小道を進み続けた。


 刈り込まれていない茂みの枝葉が手首の外側をかすめるたび、冷たく鋭い感触が一瞬走る。


 俺は慎重に歩いていたが、対照的に之橋は背筋をピンと伸ばして堂々とした足取りで進み、あっという間に距離を開けて小道の終点にあるあずまやにたどり着いた。


 俺は最初、対面に座ろうと思ったが、考え直して少し勇気を出して彼女の隣に座った。肩が触れそうな近さだった。気のせいかもしれないが、急に寒さを感じなくなった。


 目の前には俺たちが住んでいるアパートが見える。この時間になると住民のほとんどが眠っており、まばらにしか灯りがついていない。自分の部屋を探そうとしたが、すぐに諦めた。


 之橋は石のベンチの縁に手をつき、うつむいて何も言わない。


 そこでようやく気づいた。彼女の手首には髪を束ねるゴムがついている。バスケ部の練習がある月曜、水曜、土曜には、之橋はいつも長い髪をポニーテールにまとめ、深い青色のユニフォームを着てコートを駆け回っている。その姿は凛々しく、生き生きとしていて、見ているだけで魅了される。


 俺は何か言葉をかけるべきだと思ったが、之橋もまた俺が話し始めるのを待っているように見えた。だが、場の空気はすでに何らかの答えを暗示している気がした。木の根元には腐葉が積もり、斑に深い色をしていた。それをぼんやりと眺めながら、ようやく低い声で問いかけた。


 「試合、どうだった?」


 「負けたよ。抽選の時点で覚悟はしてたけどね」


 之橋は無関心を装うように肩をすくめた。


 この表情を最後に見たのは、学校の文化祭のときだった。


 一年生全員がクラスで演劇をすることが決められており、総責任者だった之橋はクラスメート全員をまとめ、放課後の時間を使って2週間かけて練習を重ねた。しかし、いい加減に準備された小道具とたった5人のキャストで演じたクラスに負け、結局慰労賞しか取れなかった。


 そのとき、之橋は何も言わず、打ち上げに参加する人数を淡々と集計していた。しかし、二人きりになると、今と同じ表情を見せていた。


 俺は無意識に背筋を伸ばした。


 「相手は強豪校だったのか?」


 「毎年決勝に進出するくらいだよ。補欠も10人以上いるし」


 俺は「ふーん」と返事をし、自分の学校のバスケ部が強いのか弱いのかすら思い出せなかった。


 「この結果はもう覚悟してた。むしろ最初からわかってたことだし……みんな本当によく頑張ったし、ミスも練習試合のときよりずっと少なかった。これが私たちの実力で出せる一番いい成績だよ」


 之橋は沈黙に耐えかねたように付け加えた。彼女は唇をきつく噛みしめており、血の気が失せていた。


 俺は視線を落とし、彼女の運動靴の少し擦り切れた横側を見つめた。


 「フル出場だったのか?」


 「人数が足りないからね。後輩も一人しかいないし」


 「うちを倒したチームって、最終的に何位だったんだ?」


 「予選準優勝」


 俺は浅く深呼吸し、冷たい夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


 実際、これらの話はどうでもいい。之橋も詳細を語る気はないようだ。それでも俺は気まずい沈黙を避けたくて次々と質問を続けた。しかし、俺のバスケの知識は漫画に毛が生えた程度で、すぐにネタ切れになった。


 別の話題に切り替えるべきかどうか考えていると、之橋が先に話し始めた。


 最初は第一試合の詳細だった。試合開始時のジャンプボール、最初の得点、筋肉質すぎてボディビル大会に出られそうな相手チームのガード、スコアラーがぼんやりして得点を見逃した2ポイント、観客席でひたすら声を張り上げるうるさい誰か、鼻に絆創膏を貼った相手のキャプテン……細部に至るまで話してくれた。


 俺は遮らず、静かに聞いていた。


 話は断片的だったが、その場面が鮮明に脳裏に浮かんできた。


 「──後半、点差がなかなか一桁にならなくてね。みんなの連携はすごく良かったのに、どうしてもボールを奪えなかった。攻撃のチャンスも何度か潰されて、私も焦ったよ。そして最後の1秒、相手がセンターラインからスリーポイントを放ったんだ。それが奇跡みたいに決まってさ……いや、奇跡なんて言うと大げさか。とにかく負けたんだ」


 之橋は膝の上で握りしめた手に力を込めていた。


 「みんなでアパートに住むようになって、毎日が楽しくて、すごく充実してる」


 「そうだな」


 「だからさ、ふと思うんだよね。もしかして全部夢だったんじゃないかって。ある晩に見た夢を現実だと思い込んでるだけなんじゃないかって。でも、インカレ杯で負けた。しかも予選で。それってつまり……」


 その言葉の意味を完全には理解できなかったが、彼女の頬に光る筋が見えたことで、察することはできた。


 人生で初めて、女の子が泣いているのを見た。


 さっきまで必死に話題を繋げていたはずなのに、この瞬間、何も言葉が出てこなくなった。喉が乾ききって、まるで砂を飲み込んだようだった。ただ、之橋が堪えきれないように泣き続ける姿を見つめていた。


 右手を彼女の肩に置こうかと思ったが、それは下心があると思われそうでためらい、結局そのまま隣で静かに座って、彼女が泣き止むのを待った。


 ✥


 その夜、之橋が小さな公園を後にしたのは午前三時過ぎだった。


 彼女は目を赤く腫らしていたが、何事もなかったかのように表情を引き締め、「ありがとう」と小声で告げて部屋に戻った。


 リビングにいた禾樺は、之橋が部屋に入るのを見送ってから身振りで俺に何があったのか尋ねてきたが、俺自身も彼女がどうしてあのインカレ杯の結果をそこまで気にしていたのか、そして泣くほどの思いを抱いていたのか全くわからず、首を横に振るだけだった。


 俺たちの徹夜ゲームの計画は自然とお開きになった。


 ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、之橋の様子を思い返していた。そして寝る直前、彼女の言葉がまるで結果を予見していたかのようだと気づいた。


 そんなこと、あるはずないよな?

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2025年1月6日 01:00
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夏の消失点.冬の存在地 佐渡遼歌(さどりょうか)/KadoKado 角角者 @kadokado_official

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