「しいて言うなら私への嫌がらせ」
翌朝。
先に目覚めたのはローロの方だった。少女は明朝三時に起きるよう『出来ている』。
普段ならそこから髪の手入れに一時間以上かけ、こっそり趣味の編み物をやるなどしてメフトを起こす時間までのんびり過ごしているのだが……今日は事情が違った。
「……」
昨日の夜、メフトの寝袋に忍び込んでそのまま二人で眠ってしまったのだ。出ようとしたローロをメフトが拒まなかったからとも言えるが、なんにせよたった今ローロがメフトと同じ寝袋の中にいる事実は変わらない。
明朝三時──まだ陽も登っていない時間。
メフトは当然寝ている。
・──『起こさないように』『出るのは……』
たぶん無理だ。これだけ密着しているのでは。
ローロは主君の眠りを妨げるわけにもいかず、かといって彼女が眠ったまま寝袋から出るのは至難の業だった。
なので少女は待つことにした。
メフトから感じられるほんのりとした甘い花の匂いに包まれながら起き続ける数時間がどのようなものだったか、ローロはあまり考えないことにした。
そして6時頃。
普段より早いが、野宿だからだろう。──メフトが目を覚ましたのが分かった。小さな寝息が、その規則性を失い活発さを示しだしたのだ。
「んんー…………あ、あら?」
「お……おはようございます」
こちらを見下ろすメフトと、目線がかち合う。彼女の黒い瞳は困惑で瞬きをしている。
「その……とりあえず出ます」
「そ。そう、ね」
もぞもぞとローロが寝袋から出る。寝袋から上体を起こしたメフトは、外気に当てられて頬の赤みが余計に増しているように見えた。
その特徴的なつるんとした黒髪にできた自由奔放な寝癖を直すことも忘れて、メフトが照れ隠しにか頬に手を当て俯く。
「ごめんなさい。私……夢の中で、気持ちのいい抱き枕でも抱きしめてたような気がする」
「い。いえ。私の方こそすみません。どうも私が寝ぼけて潜り込んだみたいなんです」
「そう……なんだ」
奇妙な静寂。風とともに鳥が空を飛んでいく音さえよく聞こえる。
「……朝食にしましょう」
「はい」
それきり、二人とも今朝の出来事を話題に上げることはなかった。どことなく二人ともが恥じらいのようなものを覚えていたのだけは、確かだった。
◇
街に着いて。
市場を目指し。
必要なものを買う。
……と、記述するなら三小節で納まる程度の話だ。ローロ・ワンの
とはいえ、そのたった三小節を行っている内に、気づけば昼を過ぎていた。
「さて。……必要な分は揃った?」
『国民なき国』から最も近い街。世界の支配者と近い距離にあることが関係しているのかは不明だが、あまり寂れた様子のない街だった。人気は多く、家屋は軒並み綺麗で真新しい。街中央に位置する市場の活気も濃く、こうしてメフトと市場の隅で並び立っていてもがやがやと騒がしい声音が耳に響く。
ローロは朝に街へ着いてから買った品々のリストを諳んじて、よし、と頷いた。香辛料、調味料、保存食、加工肉、道具の整備に使う消耗品、食器や衣類……。
「すべて完璧です」
「いいことね」
すべてつつがなく済んだことにローロは小さく息を吐く。
さて。用事は終えたのだから後は帰るだけだ。身分を偽って来ている以上あまり長居すべきではないだろう。──などとローロは思っていたのだが、隣のメフトの目線は市場から外れた位置に向かっている。
視線の先を追うと、そこには落ち着いた雰囲気の喫茶店があった。オープンテラスの席が空いている。
少女の淡い紫色の瞳が同じところへたどり着いたのが分かったのか、隣のメフトがにっこりと笑ってみせた。
「せっかくだし、少し休憩していきましょう」
「え……いいんですか? その、お金のことだって心配です」
「あの城と周辺の土地を買えるくらいにはお金持ちなのよ、私」
だから気にしないでいーの、と言いつつメフトは喫茶店に足を向ける。
買い出しに必要な路銀を出しているのは全てメフトだった。そもそもローロはとある契約書に基づいてなけなしの資産すら全て生まれた国に没収されている。一文無しに近い少女は、メフトの資金がどこから湧いてくるものなのか疑問ではあった。今回の買い出しとてそれなりの金を消費している。
何はともあれ主君が望んでいるなら、それに口出しせず付いていくのが従者というものだ。すぐにメフトの後を追って隣に並ぶと、二人して先ほどのオープンテラスの席に座った。
「はー。やっと一息つける」
「お疲れ様です。メフ」
「ん?」
「……お姉さま」
「ん。あなたもお疲れ様」
今日の天気は見事な秋晴れで、真っ青な天井を呑気に数個の雲が泳いでいる。以前ほど空を近く感じないのは冬が到来しつつある証拠だ。
水を持ってきた店員にメフトは手馴れた様子で注文をしている。……ひょっとすると、買い出しの度に来ている店なのかもしれない。
「あなたはどうする?」
「お姉さまと同じものでお願いします」
──ほどなくして無糖の珈琲が二つ、湯気を立てたカップにて配膳された。茶請けの菓子としてか、クッキーも二枚ずつ付いている。
無糖か……。
「半年ぶりの街中はどうだった?」
「なんだか落ち着きません」
「そーお? てっきり人里が恋しいのかと思ってたけど」
「元々人付き合いは少ない生活をしていたので……」
「ふーん」
メフトは珈琲の豊かな香りに目を細めつつ、その味を楽しんでいるようだ。ローロはというと一口飲んで、
・──『にっが!』
もう少し冷ましてから飲もうと思い直す。
ローロが、顔が渋くなるのを我慢している間、メフトはオープンテラスの席から見える街中へと目線を逸らしていた。
彼女はぼんやりした様子で呟く。
「……これでも規模としては小さい方なのに、来る度に人の多さに驚く。大抵の人が日々を生きるために集まっていて、だけど中には悪意を持ってそういった人たちを喰らおうとする者もいる」
「?」
世界総人口は70億人を超えたらしい。メフトによる【終末魔法】行使の結果として世界大戦が阻まれ、各国間での武力衝突が実質的に禁止されてもう五年になる。有り余った力を国々は貿易に転じていた。武力で益が得られない以上、経済力が物を言う時代が始まりつつあった。
概ね世界は平和で、豊かになっていっている──覇権を得たのが、今目の前にいるたった一人の女だという事実を除けば。
「──半年間」
世界の支配者がこちらを見つめた。その黒い瞳には吸い込まれそうなほどの闇がある。
「あなたを城の外に連れ出す勇気がなかった」
「……」
メフトの告白が意味するところをローロは考えた。
ティアレスとの件が落着を見せてからも、ローロは買い出しに参加できなかった。最初に拒まれてから進んで同行を願い出たことはなかったが、少しだけ寂しさを感じていたのも事実だ。
情動機能を司る
判断機能を司る
それらが融合して生まれた『ローロ・ワン』には多少なりとも感情というものがある。生体・魔法複合人格であろうと、いくばくか。
「あなたにもしもの事があったら、……私は私を絶対に許せない」
思われている事実に喜びを覚えている。
砂糖菓子が砕けないようにそっと触れるような扱いをされていることに、少し歯がゆさを覚えている。
複雑だ。
メフトと出会ってから半年で、ローロは自分の心・魂と呼ばれるものがここまでぐちゃぐちゃなことを初めて知った。
・──『まだ』『騎士になれない』『頼られてない』
私は嬉しいはずなのに……どこかで悲しい。
これをきっと、悔しい、という言葉に変換すべきなのだとローロは判断する。
「……契約書の件ですか?」
「ええ。あれは決して脅しなどではなく、諸外国の本気の憎悪から来るものよ」
メフトをここまで臆病にさせるものなど、ローロが『例の国』へ赴く原因となった契約書以外には存在しないだろう。
半年経ってもまだローロは内容を諳んじて言える。
『本契約はその効力をメフィストフェレス条約締結国すべてが批准する』
『契約者は以下に記す処理を受けた後、『例の国』へ護送される』
『・国籍の喪失』
『・身分の剥奪』
『・経歴の抹消』
『・資産の没収』
『尚、契約者は『例の国』到着後、全てのメフィストフェレス条約締結国から絶対殺害対象として扱われることを覚悟せよ』
『本契約が契約者に与えられるものはメフィストフェレス条約締結国、つまり現存する全国家からの敵意のみである』
『それでも本契約を結ぶのであれば、契約者は世界を支配する魔王より直属の『騎士』に叙任される』
たびたび彼女はローロの行いに──主君の居る所へ必ず居ようとする行いに、苦言を呈している。
曰く『条約締結国の殺意を甘く見るな』と。
「あの契約書についてティアレスさまが児戯のままごとだと言っていました。そのようなものを各国が批准することには意味があるのでしょうか。──あの契約書は、何なのですか?」
「……そうね」
少しだけメフトが口を閉ざす。考え込む仕草で口元に手を当てた彼女が、ややあってから。遠い目をしてぽつりと。
「しいて言うなら私への嫌がらせ」
「嫌がらせ……ですか?」
「だって私はあの契約書の効力を認めていないもの。世界中の国と条約を結んで数年経ったら、いきなりあの契約書一枚だけ持った人間が度々城に来るようになったのよ。大抵は私を暗殺しようとする諜報員だったけどね」
「……」
「……条約締結国も、誰が指示しているのかなんてわかっていないでしょうね。機構は複雑化し、その実態を誰も知らない。だけど彼女の意志は間違いなく燻っている。たぶん、継いだ者がいる……」
「?」
ローロには理解できない独り言に、少女の首が小さく傾ぐ。それを見たメフトが視線の焦点をローロの小さな顔に戻し、優しくほほ笑んだ。
「いつか分かるわ。その時まで待ってくれる?」
「……はい」
ローロはもう知っている。自分とメフトの間には、何か奇妙な接点があるのだと。ローロが唯一扱える魔法……演算機構型魔法群をメフトに初めて見せてからの、彼女の態度の変化は異様なものだった。
何よりメフトは、ローロの母親を──マギアニクス・ファウストの名を五年前から知っていたのだ。
私達には何かがある。その何かが何なのか、わからないが。
「待てます。待ちます。全然平気です」
「ありがとう──さて。じゃあ、ローロの欲しいものでも買いに行きましょうか」
「え」
「なーに? その顔。ぜんぜん考えてなかったの?」
呆れたと言わんばかりにメフトが頬杖を突く。
だけど彼女がこちらを見る瞳の色はどこまでも柔らかいものだった。
「あなたも年頃の女の子なんだから。ほら、お洒落がしたいとか、可愛いアクセサリーが欲しいとか、そういうのがあるはずでしょう? 何でも言っていいの。何でもは無理だけど、手持ちの金で買える範囲なら買ってあげられるから」
「えっと」
唐突な話題の切り替わりにローロは考え込んでしまった。欲しいもの、欲しいもの、……なんだろう。
日々を生きるために細々とした事を繰り返す生活は嫌いではないし、メフトやティアレスの側でそれが叶うならきっと自分に不足はない。元々欲求というものが薄いのは自覚している。
けれどメフトはローロがどんなものを求めるのかを、楽しんでいるような雰囲気で。
だから、強いて上げるなら。
──あなたから“
「……毛糸の束が欲しいです」
本当に欲しいものではなかったが、及第点だと思った。
メフトが器用に細い眉を片方だけ持ちあげる。
「毛糸?」
「その。実は編み物が趣味なんです。それで、手持ちの毛糸がもうなくて、だから……」
「編み物……」
次いで目を瞠るメフト。わざとらしいくらい驚いた様子で口元に手を当てる彼女が、ふざけてそんな仕草をする人ではないとは知っている。
「……まあ、そうなの?」
ぱちぱちと瞬きしながら問われた言葉に、ローロは俯きつつ小さく頷いた。
「変でしょうか……」
「──いいじゃない。とっても素敵だと思う。ええ、買いに行きましょう!」
なぜかメフトは俄然やる気になっていた。カップの中に残っていた珈琲を飲み干すと、待っていられないと言いたげに代金を置いて席を立つ。慌ててローロも立ち上がった。クッキーは食べる暇もなかったので服のポケットに入れておく。後でたべよう。そして温くなった珈琲を飲み干した。
苦い!
大人はよくこんなものを平気な顔で飲めるものだ。感心しつつメフトと共に市場へと向かう。
「毛糸ってどこで買えるのかしらね。布屋……で売ってるといいけど、まあ行ってみて訊けばいいか」
うん、と頷いたメフトが隣の少女へと向き直る。差し出された片手の意味が分からないローロではない。
「さあ。ほら、手を繋いで?」
「はい!」
不思議な、溜まった熱。それは自分の手指から発しているのか。それともメフトの細い指から?
市場ではぐれないために手を繋いでいるだけだというのに、それ以上の何かを感じ入る自分。心なしか普段より速く歩いているメフトの心境を考えてしまう自分。軽やかに踊る黒の毛先。私の、銀色の髪も同じようにきっと揺れている。そこに都合のいいものを見出そうとしてしまう自分!
ただ街中を二人で歩いているだけだ。
でも、
・──『うれしい』『たのしい!』
うん。そうだね。
私もそう思う。
「にしてもあなたにそんな趣味があったなんて知らなかった。どうして今まで教えてくれなかったの?」
「大したものを作れる腕前じゃないからです」
「なーに? そういう謙遜の仕方なの? あなたは手先が器用だから、そんな事を言ってるけど、きっと凄く丁寧な編み目で作るんでしょうね」
雑踏の中で、決して離れることのない隣の女が少しだけ悪戯っぽい顔をする。
「……ねーえ、今度出来上がったものを見せてくれる?」
「いいですけど……えっと、どんなものが欲しいですか?」
「──欲しい?」
言葉の意味が分からないと一瞬だけメフトが眉をひそめ、──しかしすぐにはっとなった。
「そうか。……単純な帰結よね。編み物だから、作る物がいるのか。自分のためじゃないのね……」
「簡単なものでよければ三日くらいで仕上げます」
「…………あなたは本当に何というか」
見上げるメフトは、困ったような、呆れたような、そんな表情になっていた。
「そう。あなたは本当にまっすぐ」
「?」
いまいち要領を得ない会話だ。
「冬支度の一環で防寒具が欲しいのではなかったのですか?」
「……そういうことにしておきましょうか。でも、作るならまずはあなたの分から先にね」
そんな会話を続けていると、目当ての布屋に辿り着いた。色とりどりの反物が並ぶ中、店内へ入った二人は別れて毛糸を探すことにする。さして急ぐ買い物でもないからか、メフトは普段見かけない布地を眺めつつ探していた。ローロもそんな主君の様子を視界の端に収めつつ、毛糸がどこかに並んでいないかきょろきょろと見回して──。
あった。
「お姉さま。こっちの方に毛糸がたくさん並んで────」
振り向く。
メフトは少し離れた位置で、店の者と話し込んでいた。微笑を浮かべる彼女が見ているのは「やあお嬢さん」
「──」
視界を塞ぐ人間の体。
瞬時に見上げた。
真っ先に思ったのは『仮面』だった。
そのへんの露店で売っているものだろうか。粗雑な造りの、瞳や口が作られていない真っ白な仮面を、何故かその人物は着けていた。
容姿の分からないその人間はしかし、ローロへと顔を下げている。
「悪いがちょっとついてきてくれるかな」
体格からして男。平凡な上下の衣服。素肌を隠すかのように首元まで閉じたジャケット、そして手袋。
仮面をつけていることさえ除けばどこにでもいる人間だ。しかし、仮面一つでその異常さが染み出している。だというのに、
「【気配遮断】」
「当たりだ。堂々と接触していない意味をよく考えてくれ」
「……誰ですか。所属は」
「悪いが言えない。そしてこちらの言う事を聞いてくれると助かる。でないと……な」
仮面の男がそっと親指を立てて店の外に向けた。その指先を、警戒しつつ追いかけ──息をのむ。
メフトをひたすらに見つめる、同じような仮面を着けた、同じような体格の男が居た。
複数いる。
一体何人がここに?
目的は? 何故【認識阻害】を貫通できた?
いや、それより、それよりも、主君の命が……狙われている──。
「君に大事な用事があるんだ。大事な用事が、ね……」
ローロは今更理解した。
サインを書き記した契約書の効力。
その憎悪、殺意、本気の……。
これは。
これは、魔法戦だ。
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