「な、なんでですか? 私、騎士になれないんですかっ?」




 『ちゃぽん』と浴槽に張られた湯の水面が揺れる。

 ローロは城の地下一階にある広々とした浴槽に、少しだけ落ち着かない様子で浸かっている。辺りにはもうもうと立ち込める湯気ばかりで何も見えない。

 全裸の少女は自身を包む湯のじんわりとした温かさと、先ほどまで行っていた畑仕事の疲労から、ほうと小さく息を吐いた。

 少女はメフトから言われたことをなんとなく思い出す。


「――汗かいたでしょ。お風呂入ってきなさい」


 畑仕事がひと段落するまで小一時間はかかった。その後のことだ。

 メフトは小ぶりの肩を上下させているローロを見て、そう提案した。驚いたのはローロだった。


「え、でも……」


 お風呂なんていいんですか? という言葉をローロはそのまま口に出すべきか悩んだ。初対面の相手に、それもこれから自分の主君となる人にどう思われるか一瞬考え込んでしまったからだ。

 1890年代にもなると『電気』という不可視の力学を人類は発見していた。それを動力として利用し、熱量を生む機構も確立はしていた。だから1900年代初頭には、並々と大量の水を暖めることは比較的簡易に行えるようになっていた――とはいうものの、送電網を敷いた施設というのはまだまだ貴重な時代でもある。

 提案するメフトとてローロ以上に土と汗に汚れている。彼女の着る長衣は汗でかそのか細い肢体を浮かび上がらせていた。

 主君よりも先に、従僕たる騎士がお風呂だなんて。

 というローロの逡巡を理解できたのか、「ああ」とメフトは小さく頷くと。


「この城、近くに湯脈が通ってるの。廃城だったのを買い取ってから引っ張ってきたのよ。普段からずーっとかけ流しの垂れ流しにしてる温泉だから好きに使って」

「オンセン……」


 言葉では聞いたことがある。

 遥か遠い異国では地下から無限に湧き出る熱湯の水脈があって、その地の人々はそれを『温泉』と呼び当たり前のように湯船に浸かるのだと。


「温泉……。」

「あら、お風呂が好きなの? ならいーじゃない、場所案内するからさっさと入ってきて」

 

 さてそんなわけでローロが城の中で初めてしたことは脱衣所で服を脱ぐことだった。汗を吸って重くなった、簡素な造りのパンツとシャツを籠に入れ、湯気まみれの浴場に目を瞠り、汚れを落とし――そして今に至る。

 十分に疲れも解れたし、そろそろ上がろうか……そんなことを考えた矢先のことだ。

 浴場の扉が突然開いた。


・――『誰か』『入ってきた』。

・――『誰か』『とは』『誰のこと』。

・――『この城に』『この国に』『私以外の誰かは』『一人だけ』。

・――『メフトさまのこと』。


 ローロは聴覚から伝わった情報を基に反応する。顔を上げると、湯気の奥からひたひたと歩いてくる人物が一人――やはりメフトだった。

 長い黒髪を後頭部でくるりと団子にした魔王その人がほっそりとした裸身を堂々と晒している。

 唐突な登場に思わずローロは声を上げてしまう。


「メフトさま!」

「……さま?」


 不思議そうに小首を傾げたメフトは、ローロを放って自身の体に着いた汚れを落とし始めた。備え付けの石鹸を泡立て、全身を洗い、湧き続ける湯水で泡を落とす。そうして浴槽に入ると、ローロからやや離れた位置で肩まで浸かった。

 そこまで経ってからメフトは呟いた。


「“さま”はいらない」

「いえ。そういうものですから」

「ふーん? 変なの」


 会話がそこで途切れる。二人は今日出会ったばかりだ。両者が両者のことを何も知らない以上、会話が弾む余地は無い。ローロはしばらく目を瞑っていたが、ややあってから立ち上がった。


「あの、先に失礼します」

「?」


 メフトがローロを見上げた。その、黒い瞳がよこす眼差しには特別これといった情緒が含まれていない。


「別に同性なんだし、気にする必要ないでしょ」

「そうかも……しれないですけど……」


 ローロが早々に浴場から出ようとしたのは、主従が連れ立って湯船に浸かるというのが少女的には『ありえない』ことだったからだ。仕える者と仕えられる者はきっちり区分けされるべきだというローロの考え方は、曲がりなりにも軍人を育成する士官学校で過ごしていたことが影響している。

 そんなローロの考えは、少女がそうと説明しないがために伝わらず、絶妙に二人の会話は噛み合っていなかった。奇妙な違和の空気が湯気と共に場を包む。不思議そうにしてメフトが見つめる先、ローロがゆっくりとまた湯に浸かり直すと、魔王は言った。

 

「さっきはありがと。急で驚いたでしょう」


畑仕事のことだろう。

いきなり鍬を手渡された時は面食らったが、あれがこの城での日常の一部なのだと理解できた今ではそう奇妙な行いでもなかったとローロは思い直している。

魔王とまで呼ばれる世界の支配者だろうと、人は人だ。生きるためには食事を摂る必要がある。それをメフトは誰にも頼らず自分でやっているだけのことだ。


「いえ。主君の力になれたので大丈夫です」

「……? 変な論調ね。まあいいか。これからあんなことを毎日することになるけど、大丈夫?」

「士官学校に最近まで在籍していたので、体力仕事には慣れてます」

「あら頼もしい」


 くすりと浅く笑ったメフトが、その特徴的なくっきりとした二重瞼に少しだけ感情の色を乗せる。ローロには、彼女がこちらに敵意を向けていないことがわかった。


「お風呂あがったら城の中を案内するわ」


 小さく頷く。

 それから会話らしい会話はなかったが、そのうち少し離れた位置から小さな小さな鼻歌が聞こえだしたのを、ローロはじっと聴き続けた。






 ――脱衣所にて。

 風呂場を出、替えの衣服に袖を通したローロ。隣で同じように着替えるメフトは、少女の銀髪をまじまじと見下ろしていた。


「今気づいたんだけど、あなた、凄まじく髪が長いのね。2メートルくらい?」

「2メートル40センチになりました。母の言いつけで、今まで一度も切ったことないです」

「へえ、すごい」

 

 女の中でも背が高い部類に入るメフトだが、ローロはそれより頭一つ分低い背丈だ。自身の身長の1.4倍近い長さの髪というのはそれだけで確かに『凄まじい』。

 そのまま真っ直ぐ下ろすと床に触れてしまうからか、少女は濡れたままの髪を乾かす前に結んで簡単に束ねている。その状態で銀髪から水気を拭き取り終えると、自前のブラシで梳き始めた。

 それなりに髪が長いメフトでさえ背中の半ばほどまでしか伸ばしていない。相対的に見てローロのように長い時間をかける必要がないので、メフトは着替え終えてからはローロの慣れ切った手入れの仕方を興味深そうに見つめていた。


「……すみません。手入れに時間がかかってしまって」

「気にしないで」


そう気軽に言い返すものの、やはり気になるのだろう。


「母親の言いつけって言ってたけど、親元を離れてよかったの?」

「母はもう死んでいます。他に家族や親戚もいません」

「……そ。ごめんなさいね」

「いえ。五年も前のことなので」


 まずいことを聞いてしまったとメフトは顔をしかめる。気まずいのか、それ以上の質問を投げかけることはなかった。ローロは気にせず手入れを続け、ある程度納得できるところまで済ませてから複雑な結い方に戻した銀髪と共に立ち上がった。


「終わりました」

「そう。じゃあ、案内するからついてきて」

「はい」 


二人で脱衣所を後にする。旅行鞄と直剣を携え、ローロはメフトの説明を一字一句聞き漏らすまいと集中した。


「ここは炊事場。この城電気は通じてないから、火を自力で起こす必要があるわ。あなた、料理はできるの?」

「それなりにでよければ」

「そ。ならこれからは交代制にしましょうか」

「……いいんですか?」

「いいから交代制。ね。いーい?」

「メフトさまがそう望まれるなら……」

「じゃあ決まり」


 ・――『炊事も』『メフトさまは』『する』。

 ・――『私の』『仕事』『のひとつ』『でもある』。


「ここは庭。さっき畝を作ってもらった畑があっち。大抵の食べ物はあの畑と、城の裏にある森から摂ることになるわ。畑仕事はけっこー手間だけど頑張って覚えてもらうわよ」

「はい」


 ・――『畑仕事』を『覚えること』。


「ここが私の部屋。用事がない時は大抵ここにいるから、何かあったら呼んで」

「わかりました」


 ・――『主君』の『部屋』。


「風呂場……はさっき入ったからいいか。じゃあ次はあなたの部屋ね。はいここ。私の部屋の隣。廃城になる前は女王の私室だったらしいから、それなりに広いと思うけど」

「……」

「何か足りないものがあったら言って。用意するから」

「いえ。どんな場所でも大丈夫です」

「そーお? ならいいけど」


 ・――『私に』『あてがわれた』『部屋』。

 ・――『前任者も』『ここで?』。 


「外から見てわかったかもしれないけど、城の二階から上はほとんど使ってないの。掃除もしてないから埃まみれの蜘蛛の巣だらけ。そういうわけだから案内しなくてもいーい?」

「はい」


 ・――『あとで』『確認しておくこと』。


「……さて、だいたいこんなもんかな。何か質問はある?」

「今のところはありません」

「そーお? 何かあったら言ってね」

「はい」

「じゃあ今日やらないといけない分の畑仕事も終わったし、あとは好きに過ごして。夕食時になったら呼ぶから」


 メフトが両手を突き上げ伸びをする。目を線にして呑気に欠伸までしてみせる様は、ローロの脳裡に黒猫を想起させた。彼女の悠々とした仕草をじっと見つめていた少女は、メフトが欠伸を終えた頃に、ぽつりと。 


「……あの、」

「ん?」

「ひとつ、ありました。伝えたいこと」


 今日ずっと思っていたことがある。

 

「私はローロです。ローロ・ワン」

「……ああ。そういえばそう名乗っていたわね」


 主君は未だに『あなた』としか自分を呼んでくれない。ローロはそれが、自分の中でさほど感情を揺れ動かすような事実ではないと気づいていたが、不思議と喉に引っかかるような違和感があった。

 

・――『私は』『メフトさまに』『名前で呼ばれたいようだ』

 

 自分の生理的不和から自分・・の欲・・求に・・ついて・・・そんな推測をする中、何の気なしにメフトは口端を小さく緩めて頷いた。


「じゃあローロ。これからよろしく――」

「はい、よろしくお願いします。メフトさま」

「――ああ私も、言い忘れてたんだけど」


 ?

 

「私、あなたを騎士と認めるつもりはないからよろしく」

「……え」


 えっ。


「え?」


 ・――『え!』 


「な、なんでですか? 私、騎士になれないんですかっ?」

「ちょ、ちょっと。落ち着きなさいよ。ほら近いから。というかあなた、そんな風に喋れるのね」

「うう……」


 厄介なことに、ローロでは自分の脳内でバチバチと火花を散らす神経電位信号の制御ができない。感情の高ぶり。それはそれだけで主制御・・・から外れてしまう。魂とやらを律しないといけないのに――ローロは小さくて丸い肩をいからせて、詰るように上目遣いなんかをしてしまう。


「契約書に叙任してくれるって書いてあったのに……」


 淡い紫の瞳が見つめる先、主君(であってほしい人!)が極めて冷静な表情をしている。


「いーい? あなたがサインすることになった契約書の内容をよく思い出してみなさい。あの契約書はね、条約締結国があなたを好きなだけ憎むことだけを約束しているの」


『本契約が契約者に与えられるものはメフィストフェレス条約締結国、つまり現存する全国家からの敵意のみ・・である。』


「……あ」

「あなたを“私の騎士オヴィディエンス”にするかどうかを束縛するだけの効力が、あの契約書にはない」


 言葉の綾だ。騎士になれると舞い上がってしまっていた当時のローロは契約内容の精査することさえしなかった。内容の表面だけを理解したつもりになっていた。

 これは、自分の失態でしかない。きゅっと下唇を思わず噛んだローロを、メフトは不思議そうに見つめている。


「……変な子。そんなに騎士になりたいのね」

「母の、遺言なんです。だから私は騎士にならないといけない」

「へーえ」


 すごく興味なさそうな声だな、とローロは少し寂しく感じた。

 

・――『メフトさまは』『少し』『淡白なひと』


 いや、だとしても諦めるわけにはいかない。母との約束を違えることは絶対に出来ないのだから。


「それでもメフトさまは私の主君です。……しっかり仕えれば、いつか騎士にしてくれますか?」

「はあ」


 心底呆れたと言わんばかりに重い溜息。


「出会って一日も経ってない女にそんな傅きたいわけ?」

「私は騎士になるって母さんと約束したんです」

「……そ。ならまあ、頑張ればいーんじゃない?」

「はい、頑張ります!」


 「うわなんか急に元気になった」とメフトがぼやく。魔王がこちらを見る目線に、少しだけ感情の色が乗り出したのをローロは理解する。

 変わった子だな、という視線だ。どう思われようとローロには関係ない。自身が生んだ結果で誰かに認めてもらう過程を少女は面倒くさがったりしない。


「それじゃあよろしく、“私の騎士見習いエクスワイア・ローロ”さん」

「見習いじゃなくて騎士です。よろしくお願いします!」


 『例の国』へ着いて早々、騎士に叙任されることはなかったが……。

 何にせよ、ローロ・ワンの新しい日常はこのようにして始まることとなった。




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