「女王? 私だけど」





 メフィストフェレス条約。

 それは五年前に始まりかけていた世界大戦がとある個人によって強制的に止められたことに端を発する、個人と全国家が締結した、個人・・対国・・家の・・不平・・等条約・・・である。

 条約が『全国家』へ強制力を持つのは以下となる。



 ・あらゆる手段によって行われる侵略行為の禁止

 ・軍備増強に関連する予算編成の禁止(治安維持に関連する場合は認めるものとする)

 ・軍事的作戦行動に関する決裁権限の永久剥奪

 ・すべての植民地の返還及び内政干渉の禁止

 ・旧植民地への独立支援義務

 ・戦費賠償請求の禁止



 また、『とある個人』は『全国家』に対し以下の権利を有する。


 ・上記事項いずれかの非遵守が確認された場合、該当国家の最上位意志決定機関関係者全員を一切の予告なく即刻殺害する権利。

 ・本条約を破棄した締結国に対する、政体を構築する人員・組織・施設へのありとあらゆる破壊行為。


 単純に言い換えるなら『お前達は戦争に関連する行いを何も許されていないし、抗おうとする者は全員殺す』という、『とある個人』から『全国家』への一方的な通達である。

 1919年現在までに存在した条約の中でも跳び抜けていかれた・・・・条約であることは間違いなく、全ての国家が堂々と断言する。これは不平等条約の極みだと。



 ◇



 窓の先に広がる見晴らしの良い草原の、風に揺れる緑。

 雲一つない快晴だった。空に浮かぶ恒星は空を青く染め上げている。

 もう冬も終わるな、と。揺れる馬車の中で、ローロは鼻先をくすぐる空気の質で思う。

 騎士団長が言っていた通り、ローロが『騎士』として叙任される別国へは厳重な警備が付いた。今ゆっくりと街路を進む馬車の手配から、途中の宿まで、ローロは一切代価を支払っていない。警備についた軍人の数は十人。一人を護送するにしてはかなり大規模だ。


「……」


 少女は肩から胸前に流している自前の銀髪、そのひと房を手に取ると折り畳み式のブラシで梳き始める。特にすることがない時にやる手慰みの癖だった。

 生まれてから一度も切ったことのない銀髪は少女の身長を優に超え、馬車と共に歩く屈強な軍人の背丈よりも更に長い。複雑な結い方でかろうじて腰を越えた程度の長さに纏めてあるものの、その長さは極めて珍しいものだったのだろう。警護の任務につく軍人たちと顔合わせをした際、彼らの瞳は目線だけで語っていた。

『これがあの魔王の騎士になるのか』、と。

 具体的にそこまで考えていたかは分からないが、自身の五感から得られる情報の分析がローロは得意だった。

 銀髪を梳きながら、ローロは数日前に自分が結んだ契約書の内容を思い出す。


・――『変な契約書』『だった』


 契約者への益と呼べるものがほとんど皆無の契約書だった。契約者は絶対殺害対象として扱われる、などの脅迫じみた文言が並んでいた。契約者の契約以前の身分・経歴・地位・資産のすべてを没収するとまで書かれていた。あんないかれた・・・契約書にサインする者など、天涯孤独の身の上であるローロくらいなものだろう。

 何より異質だったのは、契約の対象が、個人対メフィストフェレス条約締結国であるという点だ。

 史上初めて国家が個人と締結した、締結せざるを得なかった条約。メフィストフェレス条約のことはローロも知っている。

 5年前に始まりかけた世界大戦を強制的に止めた者と、その後にその者へと服従した世界中の国々の間で結ばれた不平等条約だ。一切の戦争行為を禁止し、戦争行為によって得られる利益も禁止する条約。

 メフィストフェレス条約を遵守しなかったがために主たる政体を完膚なきまでに破壊された国が52も存在する。

 破壊した者が住む城へは、もうすぐ着くと言う。


「あれが『例の国』の城かあ」


 馬車からも遠目に姿を見えるほど近づいてきている。かつての戦争で城攻めに遭って以来ろくに修繕されていないのだろう。塀のあちこちが崩れ落ちた、あまり立派とは言えない城。さして大きくもないことは遠目からでも分かる。

 国としての名を、かの国は持たないらしい。だから誰もが『例の国』と呼ぶ。世界中の国々を支配している『例の国』の女王は、辺鄙な土地にあった廃城とその背後に広がる森林一帯を買い取り、その城を自国の領土とした。

『例の国』の、『国民なき国の女王』。──それがローロを『騎士』に叙任する、これから仕えるべき主君だ。


・――『初めの挨拶が』『肝心』


 はじめまして、がいいのかな。

 それとも何かこう……騎士っぽい感じを……?

 少女は考え事と共に髪を梳き続けた。他に、考えたいことは特になかった。

 既にローロ・ワンという少女が居た、という事実が生まれ故郷の国から抹消されていても。一かけらの資産も。国籍も。何もかもが抹消されてしまったとしても、少女が考えるのはこれから仕える主君についてだけだった。



 ◇



 遠目から見て『みすぼらしい』と率直に感じた小城は、こうして目の前にあると更に『みすぼらしい』と思えた。

 あちこちが崩れ落ち機能していない塀には無数の蔦が絡みつき陰鬱に映る。塀の先にある城壁も同じだ。3階から上は何かどんよりとした空気が漂っているように感じられた、あまり上の階は使われていないのかもしれない。


「ここが『例の国』との国境線……」


 ローロは目の前にある小ぢんまりした門を見、ついで背後を振り向く。自分を運んできた馬車も軍人たちも今では遥か後方へと去っている。軍人たちの丁寧だが感情が欠片も篭っていない敬礼に礼を返しただけで、この数日の移動中に碌な会話がなかった。

 契約書の内容に沿うなら、ローロはこの門を潜った瞬間から全世界から絶対殺害対象として扱われる。


「よし」


 一つ頷き、躊躇うことなくローロは行った。

 小さな旅行鞄と士官学校で支給された直剣だけの身軽な装備で、世界を支配する者の居城の中へと。

 ──門を潜ると、その先はかなり広々としたスペースがあった。庭ということだろう。そして庭の一角では複数の畑が備えられており、その一つで鍬を振るう者がいた。日よけのつば広帽子を被り、汚れてもいいようにか長衣一枚の背中姿は性別も判断がつかない。

 ローロは少しだけほっとする。

 よかった、国と言うだけあって下働きをする人もいるんだ、と。こちらに背を向けているその者へと真っすぐに近寄り、声を掛けた。


「こんにちは」


 尖りのない滑らかな声質が、丁度鍬を振り終えた者の動きを止める。

 振り向きつつある人物へとローロは続けた。


「私はこれから騎士として叙任される予定の、ローロ・ワンです。失礼ですが、女王様はどこにいらっしゃいますか?」

「女王? 私だけど」

「えっ」


 顔を見て、真正面から目が合って。

 ──ほっそりした人だな。というのがローロの第一印象だった。

 つば広帽子の奥からこちらをじっと見つめる瞳、その色は黒。はっきりと感情の質を伝えられそうな二重瞼が印象的だった。日に晒されたことがそもそも無いと思えるほど病的に白い肌、ほそい面立ち、ほそい首、服の襟口からちらちら除くほそい鎖骨。腰も、足も、腕も、指までも、『細い』。

 背はローロより頭ひとつ分大きいだろうか。

 背が高くて、ほそくて、きれいなひと。


「え……と、女王様?」

「そうだけど」


 つい先ほどまで鍬を振るっていたからか、肩で息をし、頬に髪を張り付かせている年上だろう女性。けろりとした様子で自分がこの国の……『例の国』の女王であると認めた彼女について、ローロは思い出す。

 そうだ。そうだった。『例の国』の女王様は、『国民なき国の女王』だなんて呼ばれていた……。


・――『『国民なき国』』『だったら』『畑仕事も女王様がやる?』

・――『ぜんぶ』『ひとりで……』


 不思議な感慨に包まれ二の句を継げないでいるローロに対し、女……『国民なき国の女王』はふうと息を吐いてから帽子を取る。帽子の中で蓄えられていた黒髪が枷を外されたように広がった。

 つるんとした黒髪。

 艶があって、真っすぐで、綺麗だ。

 さらさらと地に流れ行く様をぼんやりとみていると、『国民なき国の女王』はやや気分を害したように眉をひそめてローロを見下ろした。


「なーに? 王様が畑仕事をしていたらそんなに変?」


 間延びした声音に吊られて目線を改めて上げると、見定めるような視線とぶつかる。

 混じりけのない黒曜石みたいな瞳。


「あなた、騎士って言った?」

「はい」

「ふーん……そ。しかし今回の騎士はあなたみたいな女の子なのね。ふうーん……」


『今回』? 

 つまり以前にも騎士が居たのか。『国民なき国』に。それも言葉の雰囲気からして、前任者はもう居ないのだろう。

 ローロが頭の中で考えを巡らせていると、『国民なき国の女王』様は畑の傍らに置かれた鍬をもう一本持ってきて──ローロに差し出した。


「私の騎士ってことなら手伝って。これ、大変なの」

「あ、……はい」

「私と同じことすればいいから」


 ほら、その辺に荷物置いて。騎士って言うくらいなら体力仕事くらいできるでしょ? 

 ずいぶんさっぱりした態度で促されるまま、ローロは訳も分からず畑を耕し始める。

 その様子を見て、『国民なき国の女王』もひとつ頷き、横に並んだ。




 ◇




 ──今から十年ほど前、魔法の体系化を目指す運動が世界各国で巻き起こったことがある。それまで碌に解明されていなかった魔法ならびに魔力に焦点が当てられるようになったのは、細菌といった人間の視力には納まらないほど小さな存在を把握できる程度に観測機器が発達したからだ。

 そうして様々な研究者が出した結論は、おおむね次の言葉に集約される。




『魔法は兵器として非常に優れている』。




 魔力を手繰る人員への教育的投資こそ必要だったが、必要な資源は『人間』だけ。つまり全ての国家が保持して当然の人的資源が、等しく他国侵略に効果的な兵器へと転じ得るという事実だった。

 これは全ての国家に夢を見させてしまった。

 これまでは資源や技術や国土が乏しいがために搾取されるばかりだった弱小国でさえも、武力によって世界に覇を唱えることが可能だというあまりにも大きな夢を。

 そんな証明がされてしまってから僅か五年。

 世界中で軍拡競争が巻き起こり、国々の武力衝突は日に日に増し、結果として世界大戦が勃発寸前のところまでいった。

 しかし1919年現在、そのような世界規模の戦争は起きていない。

 何故なら大戦勃発を阻止した『とある個人』がいたからだ。

 速度無効/距離無効/硬度無効──あらゆる障壁・障害・物理的要素を無視できる対象規模不問の回避不可能超光速殺傷性魔法群、【終末魔法】。どこに居ようとどのような対象だろうと確実かつ瞬時に破壊する、報復兵器の使用すら許さぬ究極の戦略兵器。そのような魔法を、彼女だけが世界で唯一扱えた。

『魔王』。

『魔法使いの王』。

『個人で星を掌握する者』。

『史上最強の魔法使い』。

『憎悪の頂点』。

 様々な忌み名を持つ彼女の存在を台頭させたのは、世界大戦を引き起こしかけていた主要国すべての政体代表者をどこにいようと関係なく同日同時刻に殺害するという、極めて単純な武力の行使によるもの。

 女の名を、メフトと呼ぶ。


「騎士……私は騎士に……だけど今は土いじりをしてる……」

「ほら、腰に力を入れる! この辺の畝をあと数日で作らないと、夏にトマトやナスを食べられないことになるから頑張りなさい」

「はいっ」


『例の国』の『国民なき国の女王』──魔王メフトは土と汗にまみれた頬で、隣の少女に喝を入れている。

 自身の名前以外の全てを捨て去った少女──ローロ・ワンは、自身の主君になる人へ応えようと一心に鍬を振るいあげては土を耕す。

 これが主従の、出会いだった。 



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