「じゃあぐっちゃぐちゃになるまで叩き潰してあげる」


 ローロがその母親に体を乗っ取られて、いいように扱われている。同じように隣で身動きができずにいるメフトを殺すためにその体を使われている。


「アッハハハァ──! ほらほらほらぁどうするのっねえどうするのっ?」


 ローロ・ワンは極めて少量の魔力しか放出できない。だというのに、マギアは【対消滅反応】を自由に手繰ることで強者として君臨していた。──まさに今、こちらへ向けて巨大な岩塊を投げつけているように。


「チッ──!」


 豪速で次々に投げつけられる岩石群はすべて叩き落された。細胞レベルでの【強化】魔法発動という秘策を、強引に扱っているティアレスによって。

 とはいえティアレスの発言通りなら彼女はいま不完全な【強化】を展開する他ない状態だ。防護魔法が不良のまま発動される【強化】はそれだけで自身を壊す諸刃の剣。事実として、ティアレス・ティアラ・ホルルがたった今岩石を受け止めるために使用した左手首は、それだけで使い物にならなくなってしまう。

 『ごき』、とも。

 『ゴぢゅ』、とも。

 重なった音階は間違いなく肉と骨が同時に潰れたそれ。


「ッ──……ァァアア……!」


 痛みで呻く喉を、爆ぜそうになる声を、奥歯まで砕くほどに噛みしめて耐えきったティアレスが別の言葉で吼える。


「メフト! 魔法は使えないのか!」


 隣のメフトは、黙って首を横に振るだけだ。


「メルツェル展開維持の妨害か……!」


 仕方がないなと褪せた笑いを浮かべ、女はマギアへと肉薄する。【強化】によってその身を砕きながら。

 アルは、そういった眼前の光景をすべて視界に収め、しかし何一つ揺れ動く心を持てずにいた。


「……」


 ……頭が灼けたように真っ白だ。

 現実をそうと認識しているのに、そこから先に思考を繋げられない。汗を散らし、血を吐き、ローロの……マギアの猛攻を防ぎ続けるティアレスを見ても、何も。

 ただただ思考を埋め尽くすのは過去の情景。

 たった今破壊された屋敷跡地に建つ幻想の故郷。ローロ・ワンの生家でたくさんのままごとをしたこと。彼女とともに過ごしたこと。


「……ねえアル」


 言葉は遠い。

 ローロが昔自分に見せてくれた微笑を思い出そうとする。

 何も感じない。


「お願い。逃げて」


 言葉を遠ざける。

 ローロがかつて振舞ってくれた料理を思い出そうとする。

 何も感じない。


「あなたは何も悪くない。これ以上ここにいるべきでないわ」

「……」


 言葉を遠ざけようとする。

 ローロの形を思い描く。必死に少女の笑顔を脳裏に象る。

 何も感じ取れない。


「ティアレスはあなたを守れと言った。……ローロのために覚悟を決めたあの女のためにも、私はできることをするから」

「……、……」


 言葉を遠ざけたくて、遠ざけるしかなくて。

 ローロの声を、匂いを、形を、熱を、どうにかして記憶から掘り返す。

 なのに、何も、心が微動だにしない。

 隣で何もできないでいる女は未だに喋りかけてきて。


「アル、あとは私が」

「──そこまで言うなら魔王さまがなんとかできるの?!」


 うるさくて。

 腹が立って。

 許せなかったから、アルは顔を振り上げた。


「アル……」

「メルツェルの展開妨害がなに!? 実体を持つわけでもない魔法と今ああして乗っ取られてるローロのどっちが大事なの!? 魔王さまは何もかも知ってるんでしょ!? 魔王さまなら何でもできるでしょ!? メルツェルを捨てるだけじゃん!」

「そう。そうね……そうなんだと思う……」


 怒ることはとても簡単だった。憎むことはとても簡単に心をたきつけた。

 ローロ・ワンを想って揺れる心は何一つなかったのに、アルは今、メフトに対するやる・・せなさ・・・だけで泣きそうになる。


「できない……できないのよ……」


 世界で最も強い、魔王だった。世界を支配しているはずの魔法使いだった。

 マギアニクスが【対消滅反応】を扱う最強の環境支配級魔法使いだったとしても、無限の魔力総量という世界の理を二つ三つ突き抜けた究極無比の魔法使いには刃向かえないはずなのに。

 恐怖で何もかもを平伏せさせた張本人はたった今、無力に項垂れ、消え入りそうなほどか細い声を震わせるしか出来ていない。

 ──なんだ……これ。


「メルツェルを作ったのは私、殺したのも私。それでもメルツェルを捨てられないのが私で……だから……」

「そんなの……そんなの知らないよ!」


 何故、この女はこんなにも弱いのだろう。

 泣き腫らした瞳で、隙あらばティアレスを突破して殺しにかかろうとしているマギアを見つめることさえ出来ない? 

 俯いてばかりいて……!


「何もかも魔王さまが始まりなんだよね、だからマギアニクスおば様はああしてローロにたくさんの『仕込み』をして、結果としてローロが乗っ取られたんでしょ!? わたしも……わたしもあの人の道具にさせられてた! わたしが悪くないなんて……口が裂けても言えないけど……!」


 わかっている。アル・ルールは、自分でも分かっている。

 今こうして喉を迸る怒りは、そこに苛立ちをぶつけやすい矛先があった生まれた心だと。

 分かりやすい憎悪の収束点がすぐ隣にあったから飛びついたのだ。 

 下賤で……どうしようもない醜さの塊。

 誰かを憎むことはこんなにも簡単で!

 ローロ・ワンへの情動が、愛情が、何をしても機能しない苦痛に向き合うよりもメフトという弱者・・に八つ当たりする方が楽だった。


「すべては魔王さまが原因なのに、なんであなたは泣いてばかりいるの!?」

「……っ」 


 こんなものがアル・ルールだ。

 自分で自分を唾棄する他なかった。たった今、彼女はメフトを責め立てるのと同時に、自身の醜悪さにさえ嫌悪を抱いている。


「答えてよ! 魔王さまがローロをああまでしたんだよ! わ……わたしも、先輩も、みんな魔王さまがそうだからここにいるんだよ!?」


 泣きたかった。

 止めどなく溢れる醜い叫び声の何もかもが、自分の本心からのものだなんて認めたくなかった。弱っている知人を責め立てるような真似を簡単に出来てしまう人間なのだと自分で自分を認める他なくて、──だから泣きたくて仕方がないのに。


「……わ、私が」


 目の前。

 すぐ隣。


「こんな簡単に無抵抗になってしまう私が死ぬことで、マギアが納得するなら、ローロを解放してくれるなら私は」


 美しい黒髪を今は砂と土に塗れさせ薄汚くしている魔王が──恥じ入るように更に俯き、ほとんど聞こえないほどの声音をする。


「…………………………殺されるべき、なんだと、思う」

「…………なに……それ」


 自責も。自嘲も。羞恥も。悔恨も。憎悪も。怒気も。

 すべてが死んだ。すべてが萎えた。

 ──メフトは、最低だと思った。


「ローロは、ローロはそんな弱気な魔王さまのために自分で手首を砕いたの?」

「……いくらでも罵倒してくれて構わない」


 ──どうして、こんな女なのだろう。

 何故……ローロはメフトを選んだのだろう。




「命を捨てるのってそんなに美徳なの?」


 メフトのような、綺麗な黒髪で生まれたかった。




「失ったら終わるんだよ……何もかもそこから先は無いんだよ……!?」


 メフトの、同性ならだれもが羨むような眩い肌艶だったらよかった。




「死んだら、死んじゃったら、ローロはどんな顔をして生きればいいの!?」


 メフトが普段するような気品ある仕草が欲しかった。 




「あれが誰であれローロの体なんだよ? 魔王さまはローロをどれだけ苦しめるの!?」


 何もかもが自分とは違う。




 弱くて。大事な時にはいつも無力で。何かにつけて悩んで、泣いて、苦しむ様を見せることでこんなにもたくさんの人を苦しめている。

 だけどそんなメフトをさえ、きっとローロは愛してしまっている──。


「ずるいよ!」

「……っ。そう…………思う……っ」

「なんで泣くの!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 こんな時に。こんな醜い女に言い負かされて、ボロボロと泣くことしかできない弱い女が。

 羨ましくて──悔しくて。

 自分だって泣きたいのに。


「逃げてるよ魔王さまは! ローロからもマギアニクスおば様からも逃げたいだけだよ!!」

「──」


 次々にこみ上げてくる情動があった。

 認めなければ、ならない。自身の内に沸き立つ明確な決意を。


「……させない」


 怒りを。

 憎悪を起点に。

 メフトという女を、今ここで殺させてはならないのだと。

 何もかもを隠したままローロ・ワンの肉体で殺させるような真似を、アルは決して認められない。


「魔王さまはちゃんとローロに謝らないといけないと思う。あなたはローロに全てを打ち明けて、その上でローロが何を言うかを待たなくちゃいけない!!」


 彼女は断罪されるべきだ。

 ──だけどローロはきっと彼女を許すだろう。

 彼女は憎悪されるべきだ。

 ──だけどローロはきっと彼女を慈しむだろう。

 彼女は復讐されるべきだ。

 ──だけどローロはきっと彼女を抱きしめるのだ。


「だからぜったいぜったい今の魔王さまを殺させたりなんかしない!!!!」


 それでも、怒りは、この心と体を奮い立たせるものになれたから。

 生きようと燃え立つ感情によってアル・ルールは立ちあがれる。


「どれだけ作り物で……偽物で……まがい物でも……」


 ──瞳を伏せる。

 ローロ・ワンの柔らかな頬が好きだった。彼女が時折みせるひっそりとした微笑みが好きだった。綺麗な綺麗な銀髪も。淡い紫の瞳が揺れるのも。その白い歯を、赤い舌を、艶やかな桜色の唇を、ほそい両肩をいつか、いつか味わえたらと。

 胸に抑えた手。その奥に眠る鼓動は、どれだけ過去の幻影を思い浮かべても高鳴ることがない。

 きっと。もう二度と。


「記憶は記憶で、思い出は思い出で……!」


 ──瞼を押し上げる。

 ローロ・ワンが狂ったように笑っていた。柔和な頬が剃刀じみた鋭さで歪んでいた。ティアレスを痛めつけて痛めつけて、嬲り殺しにしてやろうと笑い声をあげていた。 

 ……アル・ルールにとって何もかもは過去だ。思い出以上の懐かしさを得られない。


「恋はね、愛はね……っ、胸が苦しくなって辛くって! がまんできないくらい抱きしめたくなったよ! 好きな子を思うだけで苦しいのに幸せだったんだ!」


 言葉は虚ろ。何故なら既にアル・ルールはローロ・ワンを愛し・・てい・・ない・・恋し・・てい・・ない・・。虚ろさを飾る震えた声音は、そんな自分への悲嘆でしかない。眼前のローロへのものではない。


「だけど──ううん、だからこそ!」


 ……全てに作為があったとしても。仕組まれた情動なのだとしても。

 それでも芽生えていた思いがある。

 例えアル・ルールには既に過去の造形なのだとしても──ローロはきっと、今でもメフトを想っているのだ。


「ローロがあなたに感じた、わたしと同じものを……守りたいんだ」


 アル・ルールはその時、ひどく寂し気な微笑みを浮かべてみせた。

 誰に対してのものでもなく。

 ただただ、涙の代替として。


「たとえそれが決してわたしには振り向かない心だとしても──わたしが、もう二度と向けられないものでも」


 一歩。

 女は殺し合いの空間へと歩みだす。

 二歩。

 女は剣戟の音が響き続ける世界に身を置く。

 三歩。

 女はそのようにして、メフトを庇う位置に立つ。

 ──そして、全力で息を吸い。 







「マギアニクスおば様────! 

 わたしはローロのことが今でも大好きです!!!!」







 ローロを救う。メフトを殺させない。

 ただそれだけのために、アルという女は自分にさえ嘘をついた。


「もうわたしはあなたの人形なんかにはならない! わたしは本心からローロのために生きるんだ!」

「ああ嫌だ嫌だ! 私の娘に色気づくなんて! やっぱり殺しといたほうがよかったわねえ!」


 マギアニクス・ファウストはローロの肉体を借りてうんざりした表情をする。……そう、それでいい。そうやって彼女の敵意がこの身に向かうのであれば、僅か数舜でも時間を稼げる。

 そんなアルの勇気が伝わったのか、全身から血を流すティアレスが、マギアの猛攻をかわしいなし受け流しながらも歯を見せて笑った。


「後輩よ! 早速で悪いが何かいい手段はあるか!」

「もッッッちろん!」


 咄嗟の思い付きがあった。そしてアル・ルールは非常に稀有な才能を持った治癒系魔法使いであり、天才だ。

 自信漲る様子でアルは言う。


「ローロの左手薬指は、昔、私が再生したものなんだ。……ううん、再生っていうより作り直したの」


 随分と昔のことだ。ローロは指を一本、自分で切り落としている。それをアルは治癒系魔法で復元している。 


「あれはローロの使った魔力で構成されてない。わたしの魔力が元になってる。わたしの魔力がローロの体の一部として【 M O S マギアニクス・ファウスト】の操作を受け付けてる!」

「つまり──?」

「あの指をかつて構築していた魔力に再分解して、【MOS】への逆流を狙うよ! そんでもってなんやかんやの魔法使って……マギ・・アニ・・クス・・おば・・様を・・ロー・・ロか・・ら引・・っぺ・・がす・・!」

「無茶苦茶だな……意味がわからん」


 呆れたようにティアレスが溜息を吐いていた。僅かに緩む闘志。

 そして、そのような隙さえマギアが見逃すことはない。──狂気の笑みと共にティアレスへと刹那の袈裟懸けを振るうが。


「────な」


 瞬間的に発動された【強化】は、ティアレスという女の左手を鈍器に変じさせた。

 使い物になっていなかった人体が撓り、マギアの振るった剣を弾く。肉が砕ける鈍い音はしかし、ティアレスの強く濃い笑みによって掻き消される。


「私にも意味わからん魔法になるから、その間私が無防備になるから! ──先輩はとにかく時間を稼いで!」

「フハ……そいつはいい。実に私好みの仕事だ!」


 自身の損壊など気にも留めないティアレスの覚悟に、マギアが引き下がる。気圧された女の驚愕を見てから、“騎士”は後方のアルを見ることなく訊いた。


「で、何秒立っていればいい?」


 既にアル・ルールは魔力放出を始めている。全神経を魔法発動に費やすためか、女は目を瞑っていた。

 ……マギアニクス・ファウストがこの場において最もアルを警戒したのは当然のことだと言えた。何故なら彼女はとてつもなく感覚で魔法を扱う古い時代の魔法使いだ。アルが発動する魔法の大半は理論化不可能な複雑怪奇なものであり、つまり【対消滅反応】による強制停止が効きづらい。

 発動までの時間こそ掛かるものの、彼女はマギアニクス・ファウストにとって致命的な一打を生み出すはずだ。


「────100秒。それで決着つけるよ、先輩」

「────任されよう。この剣、今は後輩に預けるさ」


 ティアレスが右手のみで剣を構え、静かに息を整える。

 決して短いはずはない100秒を、その呼気だけで持ち堪えると言いたげなほどにティアレスの全身に力が漲っていた。


「作戦会議は終わりい? ……100秒持つのかしら?」

「馬鹿にするな女。頑丈さだけが取柄でね」


 左手は役に立たない。右腕とてそう何度も振るえる状態にはない。両足は無理が祟って震えっぱなしで、先ほどから内臓の痛みは酷くなる一方だ。

 しかしティアレス・ティアラ・ホルルの背後には、託された守るべきものがある。この状況を切り開く魔法使いがいる。

 ──大好きな人との世界を守る騎士でありたいと願った少女がいるのだ。

 であればティアレスという女は、そんな少女を守る騎士であろうとするだけだ。


「全身の骨という骨がへし折れようが100秒守り切るさ」

「じゃあぐっちゃぐちゃになるまで叩き潰してあげる」


 剣を握れ。

 瞬きなんて忘れろ。

 眼前の敵から、少女の夢を守り通せ。

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