「────名乗れよ、女」
失神の際に受けた蹴りで腹部に異様な熱が篭っている。……内臓をやられているな。
アル・ルールは戦意を喪失し、メフトはメルツェルの維持で戦闘には加担できない。
「つまり当座は私で凌ぐしかないわけだ」
ティアレスが見る先で、ローロ・ワンの表情が明確に切り替わった。焦燥と悲しみに沈みきったものから、どこか狂いを帯びた歪んだ笑みに。
「困った子よねえ。親の命じたことも守れないなんて、子供失格だと思わない?」
「素行不良なクソガキだったものでね、親とは疎遠なままそれっきりだよ」
「あら悪い子……」
酷薄な表情と共に、ローロ・ワンは──否、ローロの肉体を乗っ取る魔法創造型魔法【マギアニクス・ファウスト】は、ぷらぷらと揺れる自信の右手首を持ちあげる。たった今、ローロ本人によって破壊された右手。それは少女の艶やかな淡紫色の瞳にひと撫でされるだけで、瞬きの後には以前までの美しい形を取り戻す。
瞬間的に展開された治癒系魔法だ。
(魔力放出の瞬間も把握できないか)
通常の攻性魔法とも別種の才能を要求される魔法だろうと実行可能であるということ。
ありとあらゆる魔法を使用できる天才性はメフトと同一のそれであり、尋常でない魔法展開速度はローロのそれだ。
「──で? 魔法も使えないのにそんな大それたこと言っちゃっていいのお?」
地下室に転がる剣を悠々と拾ったマギアは、更には魔法を強制停止させられる魔法、【
極端に少ない魔力総量しか持たないローロ・ワンの肉体だろうと余裕で笑っていられるのも納得だった。魔王級の展開可能魔法数に、魔王の騎士並みの魔力操作技術、そして“魔神”としての魔法消滅魔法──。
ティアレスは素直に認める他なかった。
ここにいるのは、遥か格上の強者である、と。
しかし。
「ローロ、悲しみや怒りに囚われてはいけないと君は教えてくれただろう?」
「あなた誰に話しかけているの?」
「君は君であろうとする限り誰よりも美しい」
「ねえ、私の話を聞いてくれる?」
「生き様を取り戻すんだ」
「あなたのこと嫌いになりそうなんだけど……!」
それは、とある女が、とある少女にとっての理想の騎士をやめる理由にはなり得ない。──覚悟を灯す女の顔に、マギアが顔に貼りつく笑みをより深く薄く歪め。
マギアは明確な殺意を持ってティアレスへと肉薄した。
少女の肢体が【強化】によって得た瞬間的な加速は、魔法展開能力を封じられているティアレスには到底たどり着けないもの。
だというのに、
「……うーん。私でも間違えることってあるのねー」
振り下ろした剣の軌跡にティアレスの肉体が収まっていないことを、マギアが不思議そうに首を傾げてから納得した。
【強化】による人体認知不可能な速度での斬撃だ。たった今ティアレスが数歩引いた位置にいるというなら、それは【強化】による速度の追従以外はあり得ない。──つまり【対消滅反応】の展開に失敗があったのではないか、とマギアは推定した後に断定している。
だからマギアが再度【強化】による爆速で距離を詰め、その勢いのままに刺突を放った際──それを躱してみせれば、女はローロの顔に貼りつかせた笑みにヒビを入れることになる。
「────ちょっとあなた、なんで魔法が使えてるの?」
「【対消滅反応】については私でも知ってる机上の空論だ」
即座に後方へと跳び距離を離したマギアへと、ティアレスはゆっくりと向き直る。長身の女が見せる冷静さにマギアの笑みは深くなり、警戒もまた増すのが分かった。
マギアが警戒している通り、ティアレスは【強化】魔法によって斬撃を回避している。しかしそれは魔力放出を伴わない魔法展開だった。故にマギアは【対消滅反応】によって停止すべき【強化】魔法が把握できずにいるのだ。
女の警戒をよそに、ティアレスは続けた。
「机上の空論であり、魔法発動者を必要とする魔法の一種であり、つまりは魔法として発動されるということだ」
「それがどうしたの?」
「分からないか? 魔法である以上、魔力放出を必要とするんだよ」
なに当たり前のこと言ってるのこの女、という侮蔑の込められた嘲笑をマギアが見せる。ティアレスもまた鼻で笑ってやった。
「……魔力を放出し展開されるということは、この世の法則に従っているということ──速度という概念に身を置くということだろう」
「……」
「【対消滅反応】よりも速い魔法展開速度さえ確保できるなら、【対消滅反応】発動までは魔法を使える──この意味が分かるな、マギアニクス・ファウスト」
こちらの言葉の意味が分からないはずはないだろう。だからこそマギアは次の一手を攻めあぐねている、警戒している。
何故ならマギアがたった今寄生する肉体は──ローロは、騎士でさえ追従不可能な魔法展開速度を持つのだから。そんなローロ・ワンの魔法展開速度によって放たれる全魔法対象の【対消滅反応】は絶対の事実として不条理なまでの強さを誇るのだ。
ただしそれより速い魔法展開がないという前提の下で。
「昔、騎士を代々輩出し続けていた家系の長がふとした考えを持った」
ティアレスは腹部から染み広がっていくような灼熱の痛みを無視する。
先の蹴り一発で破裂した胃腸。
本来ならば立つことさえ奇跡と言えるほどの激痛の中でも、ゆっくりと語ることができた。
あまつさえ瞳を伏せ、無手でありながら動じることはなく、──思い出すのは幼少期の自分。
「【強化】魔法を無意識化でも発動できるようになったら、もっと早く魔法使いを殺せるんじゃないか、と」
今なら分かる。
ティアレス・ティアラ・ホルルが生を受けた一家というのは世間一般の観点からすれば異常だったのだと。
ホルル家──魔法使いを殺すことだけに執着した騎士の家系。
「そのために彼が思いついたのは人体の改造だったんだよ。……やり方は、私の前に生まれた15人の姉上たちで実践済みでね」
肉体という肉体を。
骨という骨を。
神経という神経を。
果てには全ての細胞を。
「たしかあなた……ホルル家の出身だったかしら?」
切り刻んで、破壊して、粉々にして、ぐちゃぐちゃにして、その上で意図的な復元再生を処理することで変異したこの肉体。
「ということはまさか、あなた持っているの? 【対消滅反応】と同じく机上の空論でしかなかった、
──あくまで空想の産物でしかない概念がある。
観測機器の発達によって発見された『細胞』なるもの。その中にある、特定の機能を持った微小存在。人間では認知できないほど極めて小さいながらも、人間という種の個体が、その肉体を維持するためには必須の機能をもったそれら微小存在を細胞小器官と誰かが命名した。
そんな存在があると知った魔法研究者がふと考えたのだ。
魔法を自動展開するよう作られた細胞小器官があれば、人間が意識下で魔法を発動するよりも速く魔法展開できるのではないか? と。
「ほう。詳しいな、正解だ」
三度の全身粉砕骨折により骨格は強靭さを増し、この身に女らしさは宿らなかった。
十五回の消化器系破裂により神経系は痛覚というものへの耐性を得たが、代わりに時折幻痛で疼くようになった。感覚麻痺の薬草が手放せなくなった。
肉を抉り。
再生され。
骨をへし折られ。
再生され。
内臓を砕かれ。
再生され。
全ての細胞が【強化】魔法を自動展開できるまで強制的な破壊と再生を繰り返したこの肉体。
「さて。
私の【強化】魔法同時展開数は細胞と同じ約60兆1であり、
私の最高速域はよって光速の51%に至る」
“ホルル家の最高傑作”ティアレス・ティアラ・ホルルは謳うように言い放つ。
言葉に、マギアが興奮しきった様子で瞳を輝かせた。
「最速を目指して最狂に至った人体実験一族ホルル家! この世でいっちばん頭のおかしい騎士の家系! うそ! 本物なの!? まさかその完成系とこんなところで出会えるなんて思ってもみなかった!」
「私の最大速域は容易くこの星を砕いてしまう。だから私は決して本気を出すことなど許されていない」
マギアが【対消滅反応】でティアレスの……厳密に言えばティアレスという女を構成する肉体全細胞60兆が発動した【強化】魔法を止められなかったのは、当然のことだと言えた。
いかにマギアニクス・ファウストがありとあらゆる魔法を強制停止させられるのだとしても、同時発動数60兆の【強化】魔法すべてに【対消滅反応】を付与できるはずがない。そんなことが出来る存在がいるとすれば、それほどの処理能力を持った存在など──もはや神しか居ない。
「……でもあなた嘘ついてるでしょ? それだけの規模の魔法を発動したにしては、ずいぶんと遅いわ」
惑星上の全生命が対応不可能な速度を叩きだせる“騎士”を前にしても、マギアの余裕は、その狂った笑みは崩れない。
ご明察だと屈託なくティアレスは笑った。
「不器用でね。星を壊さない程度まで出力を落とすと、私は極超音速域までしか速度を上げられないんだ」
「それだけじゃないはずよねえ?」
更にマギアはティアレスの右足を指差した。女の見る先で、僅かに痙攣するティアレスの右足がある。──明らかな過負荷、その影響だった。
「あなた、今の回避行動だけで足に酷いダメージを負ってるでしょ? 骨折……とまではいかなくても、ヒビくらいいっちゃったんじゃない?」
「なんだそんなことまで分かるのか。ああ、そうだよ。細胞単位での【強化】魔法は完全な防護魔法展開までは至らない。これもまた私の不器用さが招くものさ」
この不出来さを何度、当主に叱責されたのだろう。完成された肉体を持ちながら、当の本人があまりにも不器用だったから、ティアレス・ティアラ・ホルルは魔王を殺せなかったのだ。
ホルル家の史上最高傑作とまで呼ばれ、しかしその不出来から最低愚作と後に失望され。
飽和する痛みしかなかった幼少期。
失望と無関心だけが残った少年期。
それでも……家族を愛していた。
「なーんだ。完成系だなんて思い違いしちゃった。あなた、失敗作よ」
「笑いたければ笑うがいいさ」
憎悪の果てに魔王を殺すと一家の墓前に誓い。しかしそれさえ果たせなかった。
いつも、いつも何一つ上手くいくことはない。何故ならティアレス・ティアラ・ホルルは不器用だからだ。いつも一言多くて、果たすべき復讐を完遂することもできなくて、中途半端で、図体ばかり大きくて。
「それでも……こんなにも不器用な私を、それでも理想の騎士だなんて呼んでくれるんだ」
彼女は、泣き腫らした瞳で言った。
私を殺してください、と。
言葉を聞いて震えあがった自分がいる。
怒りを覚えた自分がいる。
頼られたことが嬉しかった自分がいる。
そして、自覚したのだ。
「であれば私は騎士でなければならない。あの子が憧れ、あの子が目指す姿そのものでなければならない」
だから立った。
だから今ここにいる。
だから、騎士であるために必要な剣を、手に持つ時は今──!
「──」
ティアレスが振り上げた右腕は瞬間的なマッハ10の領域にあった。例え魔神だろうと止められない速度は、単純な物理法則によって屋敷を地下室ごと破壊する。
吹き荒れる木材、煉瓦、石、土砂──その中でティアレスはメフトとアルの二名を瞬時に確保し、街路の向かい側で着地した。
先ほどから何一つ行動できずに泣いてばかりいる魔王に、一瞥さえくれずに失意のアルを押し付けつつ。
「──守れ」
簡素な一言だけ告げて、反応を見ることもなく真っ直ぐに駆けだした。
ティアレスの一撃によって瞬時に舞い上げられた屋敷の残骸が、雨粒と共に地上へと降り注ぐ。巨大な瓦礫が衝突するたびに轟音が鳴り響き、──しかし滑らかな声音の、狂ったような笑い声は絶えることがない。
踊るように。舞うように。マギアニクス・ファウストが両腕を広げ嗤っている。
「アハハハハハ! あなた、確かにずいぶん凄い体をしてると思うけど本当に不器用なのねえ!」
淡い紫の瞳が向かう先はティアレスの右肩。屋敷跡地へと疾走する彼女の右肩は当人の動きとは関係なく無秩序に揺れていた。それは骨折からくるものではなく、
未だに千切れ落ちていないことはまさに奇跡。かろうじて皮膚が持たせているに過ぎない。
肉体深奥にある神経部まで剥き出しにした重傷。当然ながら滝じみた量の血液が撒き散らされている。【強化】無効状態での、強引な
が。
「断裂程度がどうかしたか──?」
通常ならば重傷だというのに、ティアレスが見せた反応はたった一つ。──細胞レベルでの【強化】魔法による、強制的な固着のみ。目に見えない瘡蓋で覆われたかのように、裂傷は継ぎ接ぎだらけながらも塞がれる。
「そんなこと何度もできるはずないわよねえ! あなた、そのうちバラバラよおバラバラ!」
「だったら何だ?」
「やっぱりあなたのこと嫌いになっちゃった……!」
激痛という激痛を無視したティアレスが左腕を振り上げ、同時に常時張り巡らせている魔力糸を瞬間的に物質化させる。旅先だろうと携行してきた複数の剣──それらに紐付けられた魔力糸は物質化により物理法則の影響下へ入り、ティアレスが糸を引き寄せることで召喚される。
彼方より飛来する鞘入りの剣たち。
数は三。
女を守護する騎士の如く、長剣は地に突き立つ。
地に突き刺さる劒の一本をティアレスが手に取るのと、屋敷の残骸すべてが降り終えるのはほぼ同時だった。
「────名乗れよ、女」
ティアレス・ティアラ・ホルルは鞘から剣を引き抜くことなく、その切っ先をマギアへと向ける。
「なにそれ、騎士ごっこ?」
しかしマギアニクス・ファウストが応じることはない。女は馬鹿にしきった様子で肩を揺らすだけ。
言葉で通じないのであれば……。ティアレスは自身を構築する細胞への魔法発動を命令──特異な神経伝達物質により次々に励起した細胞小器官60兆は魔法展開工程を瞬時に完了、細胞個々の【強化】魔法は不出来ながら完成し。
神の目を持つわけではないマギアニクス・ファウストは当然ながらティアレスの右腕が大上段の構えを取ることを、認識さえ許されず。
騎士の振り下ろした剣は発火の後、塵となる。
極超音速域で地へと叩き落された剣。物質は極度の加速が引き連れた空力過熱に耐え切れず発火、溶解、塵となって消え失せる。──それだけではない。たった一振りの剣が巻き起こした影響で屋敷の残骸全てが砕け散り、無人の土地一帯へと放射状に荒れ狂った。
ティアレスの右腕は何もかもが粉砕の後に消失する寸前まで行き、しかし細胞単位での【強化】魔法は強引な細胞壁同士の固着によって形状を保つ。常人であれば瞬時に発狂するほどの激痛に包まれた右腕で、更にティアレスは二本目の剣を手に取った。
「あーあ! あなたが失敗作でなければ私の負けは決まっていたのにねえ! あなたはその不器用さから死ぬのよ!」
……陽光が、場違いに辺りを輝かせ始めていた。
それまで天蓋すべてを覆っていた雲はティアレスの解き放った一撃で吹き飛ばされていた。
「──名乗れ。
貴様が相対するはその肉体本来の持ち主に仕える
ローロ・ワンの
湿った空気が一掃される。
微粒な雨粒が陽光を反射して黄金で世界を埋め尽くす。
「私を殺すっていうのは、ローロを殺すってことだけど?」
「なんとかするさ。私は一人じゃないんでね」
「だからこの肉体を殺す気でやるってこと? 怖い怖い」
──少女が目を細め、かつてティアレスが託した剣を構える。
──女が瞳孔の開ききった眼をもって少女へと新たな剣を向ける。
「“魔神”マギアニクス・ファウストぉ」
「“星殺し”ティアレス・ティアラ・ホルル」
髪を頬に貼りつかせたままに。
狂想の笑みを、冷徹な闘志を、双方が浮かべ。
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