「メフィストフェレスラフレシアディアレシオディファレンスディファレンシアバレルロードカルテル・ファーストラグドール」
時は少しだけ遡る。
ティアレスが退いた直後のことだ。
夜が明けるまであと小半刻もないという頃合い。ローロはメフトの私室──窓際に置かれた椅子に座り、自らへし折った左手親指関節部の治療を受けていた。
同じく向かい合う位置の椅子に座っている黒髪の女、メフトが嘆息している。彼女の背後に位置する大きなベッドがより大きく見えた。
「まったく。無茶をして」
呆れたように小言を言うメフトが、時間が経ち赤紫色の内出血を伴いながら腫れあがった患部を爪先で突く。
「あでっ……痛いです、メフトさま」
「痛くしてるの」
手錠抜けをするためとはいえ、あまりに咄嗟の判断が過ぎたかもしれない。先ほどまで鎮痛作用を齎す脳内分泌物が効果を発揮していたものの、こうして落ち着いてくると徐々に徐々に痛みは酷くなっていた。
少しの刺激で生理的反応として涙が出そうになっているローロを見て、メフトが溜息をつく。
「いーい? 魔法で人を癒すのはかなり難しいのよ」
と言いつつメフトの長い指が少女の左手親指関節部をそっと撫でる。
──すると、不思議なことに痛みは引いて行った。
「これは、魔法ですか?」
「【再生力強化】って言うの。無理に治すなら【細胞増速】とかあるけど、あれは体にも負担のかかるやり方だし、どんな後遺症が出るかわかったものじゃない。……結局は人自身が持つ自然治癒力に勝るものはないのよ。私がしてるのは、その手助けってところ」
治癒系魔法の使い手はそれひとつ扱えるだけで一生職に困らないほど貴重だ。
数ある魔王の噂の一つに、『メフトはあらゆる魔法を扱える』というものがある。あながち嘘ではないのかもしれない。
「……メフトさまは凄い方なんですね」
「そーね。魔法は破壊目的にしか向かない力学だから、真逆のことをやらせるなら、できることには限界がある」
だから、
「──本当に無理だけはしないで。私でも、欠損した人体を治すことはできない」
女の釘をさす言葉に、ローロはしっかりと頷く。魔法に集中しているのだろうメフトがこちらを見ることはなかったが、それだけ真剣なのだと分かったのだ。
メフトの指が患部を撫でるたびに少女の神経系は痛覚を和らげていく。集中する女と、女を邪魔しないよう黙る少女。しばらく二人の間には会話がなかった。あまりの静けさに、世界には二人きりしかいないのではないかと、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
「……細い指」
音のない夜。
長い指をもった女が、その闇を溶かしたような黒の瞳に少女の手指を納めて、撫でていく。
吐息さえ聞こえてしまいそうなほどの静寂さの中、メフトは顔を上げずに続ける。
「きれいな手ね。水仕事もしているのに肌荒れひとつないなんて」
そう言うメフトの手の方が綺麗だとローロは思う。
「前から思っていたけど、ローロは肌のきめも細かい。きっと剣を握るのなんて似合わないわ」
何となく。少女は主君たる女が何を言いたいのかわかりつつあった。
メフトの言葉を待つ。その上で伝えたいと思ったのだ。
「戦わない人生だって、ローロならきっと選べる」
「それでも騎士です。私はメフトさまの騎士になりたいです」
「……」
「メフトさま?」
突然黙りこんでしまったメフトは、やはり目線を下げたまま言った。
「……あなたには……謝らないといけない。ローロを敵だと言ってしまった。ごめんなさい。私、びっくりすると、急に変なことを言ってしまう時があるの」
ちらと、微かに上向く瞳。どこか弱々しい上目遣いは一瞬でまた目をそらしてしまう。
「失望した?」
「いいえ。そんなことありません」
「そう。なら……いいん、だけど……」
「どうしたのですか? 歯切れが悪いです」
「…………あのね」
先ほどからメフトの様子は変だ。
普段はあれだけはっきりとした物言いをする彼女が、今はこちらを見ようともしない。
ローロが続きを待ったのは十秒近い。人と人が二人きりで会話をするのであればその沈黙は物質として現れそうなほど重い。
やがて。ぽつりと。
「……………………ティアレスのこと、どうして教えてくれなかったの?」
どこか、詰るような響きを持った、小さな呟きだった。
三日前。森でティアレスと出会っていたのを報告しなかった理由を、尋ねられている。
──急に。
心臓を鷲掴みにでもされたような苦しさが、喉を圧迫しだした。
「その。……訊いても、教えてくれないんじゃないかって、思ったんです」
「……そうね。きっと私は、伝えなかった」
メフトは、ローロの手指を撫でていた動きを止めた。もう治療は済んだのだろう。
それでも女は顔を上げない。覆うように、守るように、少女の小さな片手を両手で包むようにして──だけど触れようとはしなかった。
まるでそんな資格はないと。そう自制をしているように見えた。
「昔ね──馬鹿な女がいたの」
そして唐突に声の調子を上げた。
顔を上げたメフトはそのまま窓の外へと首を向ける。決してこちらを見ようとはしない。
「昔、少し状況は違うけど、伝えるべきことをどうしてか伝えられなかった馬鹿な女がいたの」
「……」
「結果として女は何もかもを失ったわ。それまで当たり前のようにあった絆は一瞬で崩壊した。気遣いのつもりで成したことが、取り返しのつかない結果と共に女への憎悪となったの」
遠回しな嫌味を言っているようには聞こえなかった。
きっとこれは自戒であり自嘲の物語だ。
「私、ずるいことを言ってるでしょ」
「そんな……」
「わかってる。こんな私だからローロは尋ねなかったのに、今はあなたをその事で詰っている」
ええそうね。
私は、本当に、最悪。
「…………間違えて、間違えて、間違え続けて、ここまで来てしまった」
窓の外に広がる闇が陽光に溶けるまでまだもうしばらく掛かるはずだ。
街の灯りも見えない平野はひたすらに濃密な闇。だけどメフトの横顔は、その奥にある何かを求めて、探して、──必死になっていた。
「こんな私の側に居ようとしてくれる人なんて、どこにいるんでしょうね──」
いつもは細いあごのラインに惚れ惚れとする主君の横顔が、今はどうにも脆く見えた。そんな脆さを自分自身で許せないのだと、壊してしまいたいと、剥き出しの痛みに吠え立てるメフトを垣間見た気がした──そんな風にローロには見えたのだ。
だから、胸を張って言葉を遮った。
「います。ここに、私が」
「──」
「私、思うんです。私には分からないことが多くて、きっとメフトさまは何かたくさんのことを知っていて、」
メフトさま。
ティアレスさまと何があったんですか?
メルツェルって誰ですか?
どうして母の名前を聞こうとしたんですか?
何故世界を支配したのですか?
どうして一人で生きようとするのですか?
騎士は────不要ですか?
「私には出来ないことがたくさんあって。だけど──どんな形でもメフトさまと会えた今こそを、嬉しく思っています」
知っている。ローロはメフトと出会う前、既に理解していた。
生まれた国の騎士団に入れなかった以上、騎士になるための手段なんてどこにもないのだと。
愛国心や忠誠心が無い。──その通りだろう。ローロにはそのようなものがない。情動の大半が機能していないのだ、そんな心が芽生えるはずがない。
魔力が無い。──まったくもってその通りだ。ローロには致命的なまでに魔力総量が不足している。騎士として必要な魔法の大半は使えないか、使い物にならないかだ。
きっと……ローロ・ワンは騎士になれないままだった。母の願いを叶えることはできなかった。
「騎士になれなかったはずの私に、メフトさまが道をくれました」
だけど、メフトという主君と出会えた!
非力な騎士が、騎士であろうとすることを、『国民なき国の女王』はその存在を許してくれたのだ。
私はだから。今、きっと、あなたに向かって笑いかけられる。
「それだけで十分です。私はメフトさまの側に、その理由ひとつで立てる」
「……」
メフトの過去に何があったのかは分からない。それを教えてくれる日は今日じゃないだろう。それでも構わなかった。少女はもう、メフトを信じることが出来る。彼女を本当の意味で主君と仰ぐことができる。
「私はメフトさまを裏切りません」
騎士になれと母は言った。
魔王の騎士でありたいと、今は思う。
「約束した通りです。私はメフトさまの側にいます。ずっとです」
「……ローロはいつもまっすぐね。あなたのそういう、とても深く考えて物事を決める性格は私には好ましくて心地良い。だけど……だから……」
しばらくメフトは目を瞑ったきり、口を噤んだ。
その無言を待つ時間は決して不快なものではない。
そうして。
黒い瞳が真っ直ぐに少女を映す。
「──ええそうね。私は、ローロに言えないことがたくさんある。言葉にするのが難しい思いや、過去や、あなたに伝えるための勇気を出せない真実が……沢山あるの」
弱い女で、ごめんなさい。
そう付け足すメフトが恥ずかし気にはにかむのを、ローロはじっと見上げた。
「だけど、努力したいとも思ってる。ローロに応えられるようになりたいって。今はそう思えるの」
初めて彼女が見せるどこか幼い表情に、少女は初めてメフトが心を許してくれたような気がして。
しかし呪いは嗤う。
◇
──・強制:その女に抱き着け
──・忘却:実行後、上記命令を忘れよ
◇
ローロは躊躇うことなくメフトの胸元に飛び込んでいた。
からころと床を転がる椅子の音。少女が勢い余って蹴飛ばしたからだ。
唐突なことに目を丸くして、それでも少女を受け止めるために腰を上げたメフトは──ローロの勢いを抑えきれず、二人して背後にあったベッドへと倒れ込む。
「ぅ、うわ、っとと──ろ、ローロ?」
頭上から聞こえる普段より遥かに近くの声音。
女の体に抱き着いている自分を把握し、ローロの思考は判断機能を急に取り戻す。
・──『な』『なん?』『なんで?』
状況としてはメフトを押し倒したようなものだった。自分自身の行いがローロには理解できなくて、何故だか顔が赤くなる。
「……あ、ご、ごめんなさい。私、なぜかこうしたくなってしまって」
「い、いえ。いいけど、別に……ローロがそうしたいなら……」
さすがの魔王と言えど、いきなり抱きつかれあまつさえ押し倒されるとあっては、調子も狂うらしい。少し落ち着かない様子のメフトの体温は先ほど触れられた手指よりも熱い。
抱き止めるために背中へと回された両腕は、暖かくて。
女の肢体は細くて。
だけど細いばかりでない柔らかさを頬に覚えた。
甘い花の匂いをローロは感じて、それがメフトの────というところで、これ以上はいけないと思う。
「すみません、離れます……」
「……え」
体を起こそうとした。だけど、ローロの背中に絡まる両腕は解かれない。
身動きが取れないまま少女は首を巡らせる。上を向いても頭上にある女の顔は、首の角度からして見る事は出来ないが。
「あの、もう……大丈夫ですよ……?」
「ごめんなさい。もう少しこのままでいさせて」
「わかりました……」
主君がそうと望むのであれば、ローロは何も言えなくなる。
訳が分からなかった。
突然抱きついた自分にも、そんな従者を許し何故か受け入れるメフトも。
「……」
静寂は長い。
夜はもうすぐ明けるだろうか。
女の心臓がゆっくりと鼓動を刻むのを聞きながら、ローロは呟いた。
「メフトさまは……お身体が細いですね?」
「ローロこそ。ちゃんと食べて?」
くすくすとメフトが笑い声をあげていた。
やがて、ぽんぽん、と背中を優しく叩かれる。メフトの両腕が解かれた。
そっと体を起こすと、ベッド一面に広がる艶めいた黒髪の中で、女が目を緩めていた。
「ごめんなさい。久しぶりに人肌に触れた気がして、懐かしかったの」
「そう。ですか」
懐かしいとはどういう意味なのだろう。
いまいちローロには分からない。
上体を起こし、ベッドのせりに座ったままでいるメフトの隣に、何となくローロも腰を下ろす。──自然と主君の隣に座れた自分に、少しだけ驚きながら。
「あの、一つ聞きたいことがあります」
「んー? なーに?」
「メフトさまは、メフィストフェレスさまなんですか?」
「ああ、私の本名が知りたいの?」
「はいっ」
ティアレスが言っていた言葉を思い出す。
メフトを指してメフィストフェレスと呼んだのだ。もし主君に本名があるのなら、知りたいと思った。
隣の女は悪戯っぽい笑みをしている。
「メフィストフェレスラフレシアディアレシオディファレンスディファレンシアバレルロードカルテル・ファーストラグドール」
「んっ?」
「メフィストフェレスラフレシアディアレシオディファレンスディファレンシアバレルロードカルテル・ファーストラグドールよ」
「あの。私はからかわれているのでしょうか」
「いーえ。これが私の本名なの」
今度こそメフトが歯を見せて笑った。してやったりと、ローロのとびきり呆けた顔を見て笑い声をあげている。
その様子は実に嬉しそうで。誇らしそうで。
「長いでしょ。名付けた本人もきっと
母親からもらったのだろう名を、心の底から愛していると、そう全身から発している。
「だからメフトでいーの」
「は、はあ……」
「メフトって、呼んで。ローロ」
「……はい。メフトさま」
「ん」
どこか甘えをまぶした柔らかい声に、少女は隣の女を見上げながら頷いていた。
すっきりとした鼻筋がここからだとよく見える。まつ毛がすごく長い。瞳は黒い宝石みたいだ。
本当に綺麗な人だな、とローロは思った。
「さて。ローロ、その折れた親指はしばらく毎日治療が必要だから、寝る前は私の部屋に来てね。今日みたいに魔法をかけるから」
「はい。明日……というか、今日からも、頑張ります」
「怪我人は休んでなさい」
「そういうわけにもいきません」
「真面目ね。今日くらいゆっくり寝てていいのよ」
しばらく押し問答を続けた二人は、『とりあえず今から眠ろう』ということで落ち着いた。
ローロが隣の私室へ戻ろうとする際、ふいに思い出した様子でメフトへと声を掛ける。
「ところで、その。私はメフトさまとの日常を守り通せた気がするのですが……」
「ああ」
メフトが買い出しに出かける前、約束したことがある。
主君は言った。
『私達の日常を、この城を、守って』と。
ローロは今回十分にその役目を果たしたのではないだろうか。メフトは約束を果たした暁には少女を騎士にすると言っていた。だから……今更ながら、もしかして? と少女の心が小さく踊りだす。
「ふふ……そうね。ローロはしっかり守ってくれたわ」
ベッドに座ったまま伸びなどしていたメフトが、またしてもからかうような笑みで立ちあがった。
そうして窓際で立つと。
「でも、いつまで守り通せばいいって期限の約束はしていないでしょう?」
「──あ」
ま。また、騙されてしまった……。
目を丸くしたあとがっくりと肩を落としたローロは、しかしすぐに顔を上げる。
「では、いつまで守ればいいですか?」
「そうね……」
窓際で、少しだけ考え込むメフト。
「──三年後」
ややあって言われた言葉は、今度こそローロの胸に分け入っていく。
「三年後の、また冬が終わる頃までいっしょにいて」
魔王は未だ雛鳥のままでいる少女へと祈るのだ。
「はい。ずっとお側にいます、メフトさま」
騎士は、主君の信頼に応えたいと、だから願う。
地平線より薄日の淡い赤が広がっていく。
夜は、陽光へと溶けつつあった。
◇
私が間違え続けた結果として
ローロの母親が死んだのも五年前。
それはきっと、私への当てつけ。
運命などという不確実性を信じたことはないし、きっとこれからもない。
あるのは寓意などではなく、害意であり敵意であり殺意だけ。……憎悪は、ひどくシンプルな仕組みとして世界を揺り動かし続けている。
だからあなたは死んだのでしょう?
私はあなたとの最後の会話を今でも覚えている。
あなたにしてしまったこと。
あなたに伝えられなかったこと。
あなたにしてあげられなかったこと。
後悔はどれだけ積み重ねても私に過去の改変を許さない。
……あなたの、私への恩讐は、ローロという形で結実したのね。
私には罪がある。
今ならわかるの。あなたがローロを絞め殺そうとした理由が。その悔しさ、怒り、悲しみが。
あなたは死んでしまって、だからあなたに対してできることはもはや残されていない。
だけど、だから、あなたはローロを差し向けた。
だったら私はローロという少女へ真剣に向き合わなければならない。
その覚悟を、あの子は私にくれた。
こんな私の側にいてくれると言ってくれた。
マギアニクス・ファウスト。
私は私なりに、あなたの娘を愛せるようになりたい。
罪滅ぼしにしかならないとしても。
今度は間違えたりなんかしないから。
あなたがくれた馬鹿みたいな名に誓って。
仮に世界中の誰をも殺すことになったとしても、必ずローロだけは幸せにしてみせる。あの子が生まれてきたことは決して間違いではないのだと、私はあなたに証明する。
でも。
もし、そうなったら、ローロはどうするだろう。
それでも私の騎士でありたいと願うのだろうか。
……くだらない仮定だ。
それにもう私の道は定まった。
何もかもが、きっと……ローロへの贖罪になるはずだから。
〈一章 完〉
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