「だとしてもそれはあなたじゃない」



 空から降り立つ女を見て。

 その、常変わらずあり続ける美しい黒髪を認めて――ローロは、自らへし折った左手親指のことなど忘れて自身の主君へと駆け寄る。


「メフトさま! 帰ってくるのは明日のはずじゃ……」

「あれだけ異常な魔力放出が付近であれば、私だって空を飛ぶ」


 決して顔の向きをティアレスから外すことなく、ちらりと女の黒い瞳が少女の左手を見る。


「……無理をしたわね、ローロ」

「はい……」

「でも、まあ、ありがとう。よくこの城を守ってくれたわ」

「――はい!」


 ローロの頭の中から痛みという痛みのすべてが吹き飛んだ。同時に沸き上がる情動に、自然と笑顔が溢れる。

 主君であってほしい人から認められて――褒められて。

 

・――『うれしい!』


 こんなに嬉しいことはない!

 少女の嬉し気な笑顔を横目に、メフトは相対する女へと表情をそぎ落とした。 


「……で? 五年ぶりに会ったと思ったら、あなた何をしてるのティアレス」

「見て分からないか? 貴様を殺しに来たんだよ」

「あ、そ」


 二人は旧知の仲なのだろう。

 だというのにさして再会を喜ぶような様子はない。

 メフトは嘲笑い、ティアレスは凄絶な殺意で眼を歪める。


「にしても――なぜ自分がローロを殺せなかったのかさっぱりわからないって顔ね。滑稽で笑える」

「…………悔しいが、私の全力を受け流されてはそういう顔にもなるさ」

「脳足らずなあなたのために説明しておくとね。ローロはナノミリメートル級の演算機構型魔法を同時に発動し続けているの」


 数は恐らく百京かそれ以上。

 そう付け加えたメフトの言葉に、ローロも頷く。


「可能なのか……そんな、桁外れの魔力操作が」

「できるからあなたはローロに勝てなかったんでしょ?」

「……」


 少女の後頭部に浮かぶ紫紺の輻輳円環。現象として顕現を果たしたその魔法は、ローロ・ワンという人格の絶対制御部マスターコントロールにあたる魔法であり、百京の演算機構型魔法によって構成される複合魔法の一種である。

 一つ一つの演算機構型魔法の構造は実にシンプルであり、個々が果たすべき機能も単純さを極めている。故にそれぞれの魔法の実行に必要な魔力は、その肉眼では視認不可能な小ささから極めて少なく、魔力操作技術さえあればどれだけ魔力総量が少なくとも使用可能だった。

 これが、ローロが唯一扱える魔法。

 算術と、論理と、制御の三要素によって生体ハードウェアが収集した情報を処理し、『ローロ・ワン』に何が必要かを都度策定する最上位権限体。

 絶対演算魔法群【MOSマギマ】。


「あなたの前にいるのは、歴史に名を残すほどの魔力操作技術を持った天才よ」


 ローロが手繰る最高魔力操作速度は、生体神経系ならびにシナプス代替魔法の情報伝達速度――つまり思考と同義だった。そしてその思考は生体神経系の限界速度――神経電位信号の伝達速度を優に超えている。

 何故なら魔力という『物質らしきもの』による並列処理を同時に行っているからだ。

 物理法則に囚われない超常の力学は、それそのものがローロ・ワンの思考速度に直結した。


「その子の“力”は、致命的な魔力総量の不足を補うに足るわ」


 それは、彼女の脳内という限定的な話ではあるが――理論・・上は・・光速・・にさ・・え至る・・・


「さて。あなたのポンコツな頭でも分かるように説明し終えたことだし、そろそろ本題に入りましょうか」

「メフト、貴様――――」

「よくもまあ……私がいない間に、私の騎士見習いを殺そうとしてくれたじゃない?」


 言葉の終わりと共にローロの直感が――感情が吠えたてる。


・――『来る!』

 

 その予測をティアレスもしたのだろう。騎士は、瞬間的に莫大な量の魔力放出を始め――それを全て一つの魔法へと昇華させた。

 魔力放出から魔法構築・展開までの速度はまず間違いなく、一握りの英雄のみが振るうことを許された天賦の才。魔力放出に十分な時間を割いてからローロに対し振りかざした超速の突進でさえ、どこ・・かで・・手を・・抜い・・てい・・という事実。

 研ぎ澄まされた【強化】魔法は、0.001秒でティアレスという人間を極超音速域にまで加、 






 ところで。

 “魔法使い”というのは、かつての戦略兵器の代名詞である。






 1900年代以前――今より遥かに魔法が神秘に包まれ、その使用には感覚的才能が更に多く要求された古代。ごく少数の者達が振るう『魔法』という力は、戦時においても平時においても、絶大な効力を発揮した。

 後方から振りかざされる高火力魔法の数々。

 その効果範囲は一撃で戦場を破壊し、敵軍を粉砕した。

 遥か遠方の領主が振るう懲罰的魔法の数々。

 それは被支配者達の反抗心を簡単に粉砕した。

 魔法を展開する時間的猶予さえあれば、“魔法使い”には万の兵とて塵でしかなかった。

 “魔法使い”の数が同時にその国の戦力を意味し、時には“魔法使い”自身が領地を持つことさえあった古き時代は確かにあり――しかし、“魔法使い”は淘汰された。

 何故か?

 誰かが考えたのだ。


 “魔法使い”が魔法を展開するよりも速く、“魔法使い”を殺せばいいと。

 “魔法使い”が反応するよりも速く、“魔法使い”に肉薄すればいいと。


 そのために速さを求めた者達がいて、その者達が【強化】魔法を極めることを結論として導いて、……結果としてそれは大半の“魔法使い”を駆逐するに至った。

 ――“騎士”の台頭と共に“魔法使い”の時代は終わった。

 速度は、物理法則が支配する世界において、究極の力だった。

 “魔法使い”の歴史的敗北を遠巻きに見つめていた人々の中で、誰か・・がま・・た考・・えた・・



 であれば誰よりも速く魔法を振るう“魔法使い”がいたら、どうなるのだろう。



 ……彼女にまつわる噂は数しれない。

 曰く、無限に等しい魔力総量を持ち。

 曰く、世の全ての魔法理論を把握し。

 曰く、果てには自身の能力を超えた魔法さえ生み出した者。

 個体で星を割ることが可能な、魔法使いの王。

 メフトにはローロ・ワンが持ち得ない無限の魔力があり。

 彼女の魔法展開速度はとある理由からローロ・ワンを越えており――。




【神の意向を知らしめるのに複雑な手続きはいらない】

【私達は望んだ時に望むだけのものを与えられる】




 ――0秒。

 ティアレスは動作の一つも行えていない。




【愛しき娘メルツェル・カルテル】

【あなたの臍を喰らいましょう】




 ――0秒。

 ローロでさえも情報処理の開始ができない。




【代償によって三億一層の魔法群積層配列は即時完了し】

【第一の展開をあなたは迎えることになる】




 ――0秒。

 月は、銀。

 地は孤独。

 全ては静止している。

 全ては音をなくしている。




【漏れいずるものに玉杖を】

【存在しないはずの神へ、寓意の感謝を】




 ――0秒。

 一人、メフトの魔法構築だけが時の狭間で進んでいく。




【さあメルツェル】

【私のかわいいぬいぐるみ】




 ――0秒。

 対策不能。


 ――0秒。

 反応不能。


 ――0秒。

 回避不能。


 ――0秒。

 誰一人として其の魔王に抗うこと能わず。


 ――0秒。

 全生命に服従以外の道はなく。


 ――0秒。

 垂れた頭には切断以外の未来はないと知れ。




【光を、突破してみせなさい】




 メフトは、そして、超光速で魔法を発動した。







【終末魔法第一被展開体、“速度無効オープニール”起動】







 世に解き放たれたのは、ティアレスの剣付近にて虚空より現出する一条の力場。周辺空間を歪曲するが故に、無色であるはずのそれは虚無の漆黒を帯びる。

 現象の発生は、つまり時間の経過が始まった瞬間のこと。ティアレスは魔力放出すら実行できていない。


「――!!」


 一撃でティアレスの握る剣が粉砕された。彼女の右腕全ては力場による驚異的な力の奔流に押し潰され、瞬間的な粉砕骨折に至る。

 ティアレスは、激痛で煮えたぎる視界の中で、それでも魔法を展開しようとした。失った武器を再生するための【物質錬成】か、肉弾戦に持ち込むための【強化】か。

 しかし。


「        ! ぉ  あ  あ !」


 当世において五本の指に入るであろう至高の英雄は――“騎士”は、魔法の発動さえ許されず吹き飛ばされる。

 城壁に、轟音を伴い叩きつけられる女。

 ティアレスはしかし、一撃必殺の【終末魔法】を喰らっても尚立ち上がろうともがいていた。【終末魔法】による猛攻を受けてもなお致命傷を防ぐティアレスは、間違いなく当世において一握りの英雄。時代が時代ならば国家を単体で破壊できるほどの能力を持つことに疑いは無いだろう。

 しかし対するは星を個人で掌握できる支配者である。


 ――騎士が発そうとした殺意は、感情の発露以前に地へと叩きつけられる。

 ――騎士が振るおうとした力は、発揮以前に為す術もなく空を舞う。


 自重に従い首から真っ直ぐに落下したティアレスが、未だ死んでいない事の方が奇跡だった。 


「……相変わらず、頑丈すぎてびっくりする」

「それくらいしか……取柄が……なくてな……」


 女の全身から夥しい量の血が流れていた。後頭部で一つ結びになっていた金髪はほどけ、千々に乱れている。その身に包んでいた侍従の服装は破れに破れ、素肌のあちこちにある内出血や擦過傷の跡を色濃く見せつけた。

 右腕の粉砕。

 左大腿骨頸部断裂。

 折れた肋骨によって左肺は損傷し。

 左手五指は全てが曲がってはいけない方向に捻じれている。


「……これが、魔王……」

「そうよ。よく見ておきなさいローロ。これが世界を支配するに足る悪い魔法使いの実力だから」


 これが最強。

 これが絶対。

 これこそが全国家が殺害を未だに目論見、超えるために兵力強化に邁進し、魔法を兵器目的に開発させ続ける元凶。憎悪の連鎖、その頂点……!


「――メフトォッ!」


 驚異的なのは、もはや立ち上がることさえままならないティアレスが、メフトを睨むその眼から未だに殺意を捨てないでいることだろう。

 無理やり起動させている【強化】魔法は、全身の折れた骨を強引に繋ぎ合わせている。

 本来なら致命傷に匹敵する肺の損傷も、【強化】を構築する魔法群の一種で保護し延命処置を行っている。

 何もかもが無茶苦茶だった。

 彼女がこれ以上戦う意味は何もなかった。


「ホルル家は決して貴様を許さない! 私達の悲願を盗んだ貴様を!」

「ホルル家? そんな家もう無いでしょ」

「ああそうだ! 貴様が殺したんだ、私の姉を……! 姉さま達をッ! 母を――父を!!」


 だが、そうまでして、立とうとするのだ。

 だが、そうまでして、魔王を殺そうとするのだ。


「あなた、あんな家に愛着があったの? あなたを人とも思っていなかった最低最悪の一族じゃない」

「それでも私の家族だった……! そしてッ、私が最も貴様を許せないのはそんなことじゃないッ!」


 一体。

 どれだけの感情が。

 彼女を、ここまでの、修羅にさせる――!


「なぜ……なぜだ、メフト……! 答えろ――ッ!!」


 青き炎を宿す瞳は最後に魔王へと縋るような色を見せた。

 ローロは、ティアレスの表情に、凄絶な憎悪の奥に潜む悲哀を見た――気がした。


「なぜメルツェルを殺した!」

「あなたに教える義務はない」

「……っ」


 荒く、吐血混じりの吐息の繰り返しだけが、空間に響き渡る。

 湿っぽい呼気が収まることはなく。

 ……ついにティアレスは、地に跪いた姿勢のまま項垂れた。


「遠いな。何もかもが」

「もう遅いのよ、何もかも」

「……っ」


 わからない。

 ローロには、分からない。


「……忘れるな。死んだとて晴れる恨みだとは思うなよ。貴様はいつか報いを受ける。貴様が背負う罪を、いつか必ず責め立てる者が現れる」

「だとしてもそれはあなたじゃない」

「はは。そうだな。そうだと思う」


 二人の会話の根底にある憎悪の応酬が。

 どうして憎しみ合う彼女たちの声音がこんなにも感情を排していて、悲しみを押し殺しているように聞こえるのか。


「じゃあね、ティアレス」

「先にあの世で……待ってるさ」

「私が行くのは地獄だから、たぶん二度と会わないでしょうね」


 今日。昼間はあんなに快活に笑っていたティアレスが、血まみれの姿で、瀕死の状態を晒している。

 数日前。ローロに祈りを託したメフトが、何一つ情動の無い瞳で、旧知の相手を殺そうとしている。


「さようなら。我が盟友、古き最愛――――」


 分からない。

 分からない。

 ローロ・ワンは何一つ、二人から教えられていない!


「――待ってください!」


 どのような論理の帰結が導いた行動だったのか。動き出したローロ自身にも理解できなかった。

 感情も。

 算術も。

 制御も。

 その全てを超越した『何か』が――少女に、主君の前に立ちはだかるという行動をさせていた。

 そして両手をめいっぱいに広げ、メフトを真っ直ぐに見上げた瞬間には、自分が何をしたいのか理解していた。してしまった。


「お願いします。ティアレスさまを殺さないでください」

「…………。……ローロ?」


 『国民なき国の女王』は。

 二週間共にいた少女の突飛な行動を理解できないと、どのような感情を浮かべればいいのかわからないと、瞠った瞳で物語る。


「なんで? その女は私達の敵でしょ?」

「私は、メフトさまに、ティアレスさまを、殺してほしくありません」

「――。」


 言い切った瞬間。

 メフトの表情は、明確に歪む。

 未だ深い夜の闇よりも。

 砂埃の入り混じる冬の風よりも。

 現実のすべてを捻じ曲げるほどに、歪に……にこり・・・と。 


「へえ。ローロは、ティアレスの側に付くんだ……」


 ふうん。

 ふーん。

 ふーーーーーーん。


「あ、そ。

 ならローロも私の敵ね。

 ――敵は殺さないと、ね」


 メフトの、愉快で愉快でたまらないと言いたげな笑顔が、そのままローロだけを見つめていた。




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