「なら嫌いじゃないってことでいーい?」



 さて。夜。

 めったに使うことのない城の食堂は、丁寧な掃除が、城主にして国主であるところのメフト本人によって為されていた。埃は一掃され換気が済まされ、部屋の中央に置かれた机も清潔なテーブルクロスが新しいものを用意されている。その上に並ぶのは、ティアレスが作ったシチューに柔らかな白パン、幾つかの肉料理、副菜、そして滅多なことでは封を開けないワインまであった。

 配膳の済んだ食事と、それを囲う三人を見回したメフトが、主催者役としてグラスを掲げる。


「では。アル・ルールに」


 にこりと、女王に相応しい気品ある笑みと共にそう言うと、アル、ティアレス、ローロの三人も手に持ったグラスを掲げた。


「わたしに!」

「後輩に」

「アルに」


 ──「かんぱいー!」と元気よく賓客のアルが声を上げれば、そこから先は楽しい食事の始まりだ。


「先輩先輩、このシチューおいしいですねえ!」

「ふふん。だろう? 私の特製だからな。自信作だ」

「今度作り方教えて!」

「ああいいとも」


 既にアルとティアレスは固い絆で結ばれている様子だった。背格好の似ているローロがアルの着替えを用意したが、ティアレスは今度アルのためにメイド服を作るつもりでいるらしい。よほど後輩が出来たことが嬉しいようだった。


「しかしメフト、いいのか。お前のお気に入りだろ、このワイン」

「確かに年代物だ!」


 と、ボトルのラベルを見て仰け反るアル。メフトはほんのりと赤い頬で微笑む。


「いいのよ。こういう時でないと中々飲む切っ掛けができないし」


 成人済みの三人はメフトが用意したワインを片手に料理を美味しそうに食べている。ローロは飲酒に適した年齢ではないので、グラスの中身は森で採れたリンゴを絞ったものだ。少しだけ酒に興味がないわけでもないが、この半年間ティアレスもメフトもローロの飲酒を頑なに許さないので諦めている。


「……ティアレスさま、年代物だとお酒は美味しいのですか?」

「ん? んー」


 グラスの中身を丁度傾けていたティアレスが、こくりと喉を鳴らしてからグラスの縁から唇を放す。

 空になったところに容赦なく並々と葡萄酒を注ぐと、けぷぅと小さなげっぷをしつつ彼女は言った。


「すまないね、私にもわからん」

「そうなのですか?」

「はは……とりあえず年代物のワインとウイスキーは高いからな。ありがたがって飲めるという訳だ」


 あっけからんとした快活な笑みで更に酒を飲み干すティアレスを見て、大事なワインの封を開けたことを早速後悔していそうなメフトが額に手を当てている。


「あなたは一生安酒だけ飲んでて、勿体ないから」

「ふん、タダ酒ほど安い酒もないだろ」

「ティアレス……。……まあ、今日だけは無礼講ってことにしといてあげる」

「お。なんだなんだ、今日は無限に煽り散らかしていいのか?」

「あら。あなたが初めてお酒を飲んだ時、調子に乗って私に一気飲み勝負をしかけてきて無事に負けたのはどこの誰? あの時二日酔いのあなたを介抱したのは私だったと思うけど」

「ハっいつの頃の話をしてるんだお前は。あれから6年は経ってるんだぞ」


 ──6年前? 


「ということは、ティアレスさまは15歳の頃から飲酒の習慣があったのですか?」

「あっヤッベ」


 現在21歳のティアレスがめちゃくちゃ『やっちまった』と顔に出していた。この人はとことん考えなしだなと思うついでに、──ティアレスが未成年飲酒をしていたなら、別に自分もいいのでは? という疑問と興味が湧いてくる。

 少女の淡い紫色をした瞳がテーブルに置かれたワインボトルをじーっと見つめているのに気づいたメフトが、慌てて言い繕った。


「ローロ。あなたはそこの不良女のようになってはいけないの」

「……ですがティアレスさまは私と同じ歳の頃には既にお酒を飲んでいたようです」


 理想の騎士をじっと見つめる。

 彼女は「ぷ、ぷぴい~」などと下手くそな口笛もどきを吹きつつ目を逸らしながらお酒をまだ飲んでいた。


「というか、メフトさまも6年前にはお酒を飲まれていたんですよね。メフトさまは当時16歳ということになりますよね」

「いやまあメフトはちょっと特殊でな……」

「──黙って。それ以上言わないで」


 ティアレスが曖昧に笑うのを強引に遮ったメフトは、ローロに向き直ってあせあせと言い訳を重ねようとする。


「そ、そーね。でも……でもねローロ、あのね、お酒は大人になってから」

「飲んでいたんですよね」

「……うん」

「し──信じられん。あのメフトが口で負けるところを始めて見たぞ……ローロ、なんて恐ろしい子だ……」

「あなたは黙ってなさい」


 年下の少女に轟沈させられた駄目な大人二人を放っておいて、ローロは予備のグラスにワインを少量注いでみた。

 両手でグラスを手に持つ少女は恐る恐るといった様子で匂いを嗅ぐ。

 ふわふわとしたアルコールの匂いだ。


「はわわ……いい子だったローロが悪い子になってしまう……」

「だ、だめよ。ティアレス、あなた何とかして!」

「無理だろ! 私達がローロの年頃には酒樽一つ開けてただろうが! どの口で正論を抜かすつもりだ!?」

「それはそれ! ローロはローロでしょ!?」


 なんだかすごい顔になってあわあわしている大人二人にそっと言う。


「一口だけです。一口だけでいいので飲んでみたいです」

「ひ、一口だぞ。一口だけだからなローロ!」

「そーよ一口よ。二口めは駄目だからねローロ!」

「なんかお二人ともローロの親みたーい」


 既に出来上がりつつあるアルがけらけら笑っている。というか、ティアレスもメフトも同様に頬は酒乱で赤い。

 そんな三人を透明なグラス越しに見つつ、ローロはグラスの縁を唇に付け。

 ぐいっと。

 口の中で広がる奇妙な匂いがあった。喉を通り過ぎる妙な焼き付く感覚が次いで来た。胃に落ちていったのがはっきりと分かる存在感が最後に残った。


「……なんというか」


 グラスをテーブルにそっと置いて、三人にその渋い顔を見せた。


「お酒って変な味ですね。……私はリンゴのジュースでいいです」

「──あははは! そうかそうか、ローロにはまだ早いか!」


 青い瞳を弧にしたティアレスが破顔した。大きく口を開けて笑い転げている。よほど少女の反応が面白かったらしい。

 その隣ではメフトもどこかほっとした様子で緊張の和らいだ笑みを浮かべている。


「ローロも大人になったら分かるわ」

「なんだか永遠に来ない気がします」

「好き嫌いはあるもの。でも、いつか一緒にお酒を飲める日が来ると嬉しい」


 メフトもティアレスも、あまり表には出さないだけで酒が好きなのだろうか。それとも大人は皆、お酒が好きな生き物なのか? ローロはメフトに頷いて、料理にも手を付け始めた。


「ふん。しかしこの感じは昔を思い出すな。覚えているかメフト、私達二人で家にあった酒樽を盗んでは裏山で派手に酒盛りしたよな」

「そういえばそんなこと、あったあった。酔ったあなたが『逆立ちで川の中を歩いてやるよ!』とか言ってそのまま溺れていたのは本当に傑作だったわ」

「ええー、先輩そんなことしてたんですか? すごーい!」

「今ならいけると思うんだがな……」


 いよいよ顔の赤みが増してきている三人は実に楽しそうだ。


「ロおーロょぉ~」

「うわ、お酒くさいよアル」

「うへへぇ」


 既に出来上がっているアルが、いつの間にか隣に移動してきて抱き着いてきた。


「ローロと最近会えてなかったから嬉しいんだよぉ~」

「確かに二年と三か月は会ってなかったね」


 七歳年上の幼馴染が頬ずりしてくるので、ローロは食べることも飲むこともできない。仕方ないのでアルの相手をすることにした。


「んん? ローロ、ちょっと背ぇ伸びたよね?」

「もうアルより高いと思うよ」

「うっそだあー!」

「本当だよ。もうアルよりお姉さんだからね、私」

「そんなことないよー! 私の方がローロより背高いはずだもん」

「大人は『もん』なんて使わないんだよ」

「そんなの知らないもん」

「──二人は本当に仲良しなのね」


 アルとローロの会話を聞いていたメフトが、その黒い瞳を楽し気に緩めつつ尋ねる。


「アル。よければローロとの馴れ初めを教えてくれない?」

「ええ~、魔王さま気になっちゃうの?」

「とっても」

「仕方ないなあ~。ごほん、──時は20世紀初頭。1905年の春だった……私の一家は紛争から逃れるために疎開先に引っ越したのです。疎開先は、緑豊かな田舎でした……」

「急に始まったぞ」

「アル劇場と私は呼んでいます」

「……1905年って紛争があちこちで起きていた頃ね」

「──そこの領主の一人娘がローロだったのです! 当時ローロは三歳! 私は十歳! 疎開先では年の近い者がいないということで、領主であるローロのお母様から遊び相手になってほしいと頼まれたのが出会ったきっかけでした!」


 アルが握り拳を作って物語るように、二人が出会ったのは自分が三歳の頃になる。十歳のアルは当時から異才を放つ存在で、例えばローロが負った怪我を瞬時に直すことは日常茶飯事だった……ような気がする。

 三歳のローロ・ワンが覚えているのは曖昧な出来事ばかりだ。


「当時のローロはとにかく何にでも興味を持ってたんだ。あれこれ触っては、これなに? あれなに? アルお姉ちゃんすごいっ、アルお姉ちゃんしゅてきっだいすき~って、私の後ろをよちよち追いかけてくるあの頃のローロは天使みたいに可愛かったなあ~!」

「アルお姉ちゃんなんて言った記憶ないよ私」

「うっそだあー私はちゃんと覚えてる!」


 アルがたった今話しているような内容はぼんやりとしか記憶していない。

 三歳。

 三歳か。


『……なんてことを! あなた、自分が何をしようとしたのか分かってるの!? 自分の娘を殺そうとしたのよ!?』

『アハハ……。…………だったら何? お前に関係あるの?』

『それは……ない、と思うけど……でも! 無理心中なんて間違ってる!』

『うるさい正論ねえ』


 その頃、何か酷い出来事があったような、ないような。思い出そうとしても何もかもが曖昧で──全ては忘却の果てに消えてしまっている。

 ……だというのに。何故か。

 何故かローロは、空いた片手で、そっと自身の首を撫でていた。


「──そうしてローロが士官学校の宿舎へ行くのを、私は涙ながら見送ったのでした! 以上、私とローロの人生第一幕でした~」

「おおー」


 ティアレスが拍手する音によって、意識が引き戻される。それなりに長い芝居になったはずだったが、他ごとで頭がいっぱいだった。

 と。──三人の目線は、テーブルに突っ伏してすうすうと寝息を立てている黒髪の女に向かう。 


「……おや。珍しいな。メフトが酔い潰れるとは」

「魔王さまぐでんぐでんなのー?」

「そうみたい。……私、お部屋まで連れていきますね」

「えー。わたしも行く!」

「こらこら後輩。ここはローロに任せてやるべきだ」

「そんなあ。……じゃあ先輩、今日は飲み明かしますか!」

「ああいいぞ、城中の酒瓶を空にしよう!」


 アルの方はティアレスが対応してくれるようだ。

 突っ伏しているメフトを、ローロはそっと抱き上げる。極少量だろうと【強化】魔法さえあれば、自分より背の高い者でも運ぶのは簡単なことだ。

 ローロは楽し気な二人の喧騒を背に、食堂を後にした。




 ◇




「よ、っこい、……んしょ……」

「んん……」


 メフトの私室までそう大した距離もない。部屋の中は当然ながら暗い。大きな窓からは雲一つない夜空と、邪魔する物がいないからこその眩しく輝く月が見て取れた。月光のおかげで暗いながらも物の配置は何となくわかる。

 彼女を天蓋付きの大きなベッドにそっと置いて、その側に腰掛けた。

 女の顔を見下ろす。真っ白な肌はそれこそ林檎のように赤い。


「メフトさま。ベッドです。寝るならここで寝た方がいいと思います」

「ん゛ー……」


 まだ意識が覚束ないのだろうか。

 目をきゅっと瞑っている彼女は、しばらくしてからようやく瞼を押し上げる。普段以上に潤んだ眼差しがこちらを不安定に見上げている。


「ローロ。ごめんなさい。面倒をかけてると思う……」

「そんなことはありません。全然平気です」


 彼女と過ごしたこの半年間、メフトが酒を飲むことはほとんど無かったと記憶している。飲んでいたとしてもせいぜい寝酒程度で、ここまで酔い潰れるほどではなかった。少し、心配だ。炊事場から水差しを持ってこよう。


「お水持ってきますね」


 ローロがベッドから抜け出ようとした直後だった。


「え……──まって」

「ぉわあ」


 背後から寂しそうな声音が一つ鳴り、直後には腕を掴まれ引き込まれていた。

 どこに──ベッドの中央に。もっと言えば、メフトの上に。

 ローロの長い髪がさらさらと宙を舞い、勢いが落ち着けば柔らかな銀光となって主君の周囲へと降り注ぐ。


「……」

「……」


 細い手指が、ローロのたおやかな手首に絡みついている。動かすことができない。突然のことに気付けばローロの膝はメフトの両足の間に割って入っていて、──これは、馬乗りに近い姿勢だ。

 先ほどよりも至近距離でメフトと視線がかち合う。品のある顔立ちは、いつにもまして赤かった。 


「め、メフトさま?」

「ごめんなさい。お願いだから、少し一緒にいて」

「……はい」


 有無を言わせぬ口調は泥酔しているからなのか。普段よりも押しの強さを感じて、少女は頷く他なかった。

 とはいえだ。

 このまま馬乗りの状態のままでいるというのは、メフトにはよくても、ローロにはあまり良くなかった。


「えっと。このままですか?」

「あ、腕、疲れる?」

「その……腕は平気、なんですけど、えっと」


 恐る恐る聞くと、メフトも今更気付いたように視線を下に向ける。彼女がローロの腕を掴んだ際に衣服がずれたのだろう。メフトの着ていた服の裾がめくれてしまっていた。その下には何も着ていないらしく、そのすべらかな腹部はローロには丸見えになっている。

 ちらちらと淡紫の瞳がメフトの顔と、へそと、腰回りを行ったり来たりしているのを、女は不思議そうに小首を傾げて見上げた。


「? どうかした?」 

「メフトさまはその、なんていうか。…………やっぱり腰が細すぎます」

「んー」


 意図の読めない相槌。小さな逡巡の後に、メフトが口を開く。近くで見るとその唇の瑞々しさが、血色よく色づく薔薇のような赤みが、はっきりと分かった。


「……ローロは腰の細い女は嫌いなの?」

「嫌いとかそういうのではないですけど……」

「なら嫌いじゃないってことでいーい?」

「まあ、はい」

「よかった……」


 一体なんの安堵なのだろうか。

 ローロは困惑しつつも、奇妙な無言の時間に耐えきれる自信がない。他愛ない話でもすることにした。


「メフトさま。酔っていますよね」

「うん。酔ってる」

「初めて見ました。メフトさまの、その、ちょっとだらしないところ」

「そーお?」

「メフトさま」

「なーに?」

「あの」

「ん」


 先ほどの質問の意味。

 何故、ここまでローロを大事に扱おうとするのか。街での大けがの際に見せた表情──あの悲壮さを、その裏にある心理を考えてみろとティアレスは言った。

 それはローロの中で集約すると次のような言葉となる。


「……私に、嫌われたくないんですか?」

「…………」


 主君は黙る。

 黙り、そして小さく目線を逸らした。やがて……そのまま、ぽつりと。


「かもしれない」

「……なんで」


 ローロの言葉はもう止まらなかった。色々な過去が脳裏を過ぎった。

 半年前、演算機構型魔法群を見せた時からだ。あの頃からメフトの様子は明確に変わった。それからの半年間をローロは幸せに過ごすことができた。そこには、あれほどに独りであることを望んでいたメフトによる、ローロを受け入れるための努力があったことは明白だ。

 しかしその理由まではローロにも理解できない。


「なぜ、私をそんなに大事にしてくれるんですか? 私なんかのためにどうしてああまで──」


 思い出す。

 涙を溜めて、メフトは我が事のように辛苦で歪んだ顔をしたのだ。

 あれが出会って半年の相手を想って浮かべられる表情なのだろうか。


「──だって、まだ出会って半年です」


 問いかけは時間という名の根源的なものだ。

 人と人との絆が簡単に作られたとして、それが一個人の考えを劇的に変えるとしても、年月は絶対の存在として君臨している。

 時間を経ることで固着した人の思いや価値観はそうそう変わらない。ローロが故人である母親の言いつけを未だに守り続け、髪を一度も切っていないことと同じように。


「あなたが私を特別なものとして見てくれるように、私もローロをそうやって見てる」


 メフトはただただ目を逸らしたまま、一言一言を噛み砕くように、自分自身に説明するような口調で、そっと言った。  


「だから余計にあのときのローロの姿が焼き付いて離れない」


 街での一件のことだ。彼女をここまで弱々しいものに変えてしまうほどの衝撃があったということを、メフトは赤裸々に語ってくれている。


「と、思う」

「『思う』ですか」

「……私には、私が一番理解できないから。──過去の行いすべてに根拠を用意できない」

「……」

「あの時なぜああ言ってしまったのか、なぜあんなことをしてしまったのか、私は間違えてばかりで、間違えてばかりな自分の直し方もわからない……」


 メフトは顔を横に向けてくすくすと笑う。

 笑みの意味が分かった。その、鋭い口端の歪み方。自嘲の笑い方だった。


「ティアレスに言われちゃった。私の精神構造は本質が人間とは別種だって。その通りなのに、指摘されて思い直させられた……」


 ねえ、ローロ。──そう言いつつ、女が顔の向きを戻す。

 夜。

 食堂の喧騒はひどく遠い。きっとここからは何も届かない。

 月明かりでさえ天蓋が遮ってしまう。

 夜目が効きだした暗がりの中で、しかしはっきりと見えた。

 女の、諦念が入り混じる褪せた微笑み。




「22年前に召喚された空想の産物が──悪魔メフィストフェレスが、いて。

 それが私だって言ったら、ローロは信じてくれる?」




 ローロは考えることさえしなかった。


「信じます。メフトさまの言う事なら、私はなんでも信じられます」

「──」


 彼女の瞳孔が広がるところまで分かった。僅かに開いた口から覗ける、白い歯、赤い舌の先端。

 震える白喉。

 やがて彼女の全身は何かを堪えきれないといった様子で一度身震いを起こすと──。


「わ、あ、あ……」

「ありがとう。ローロを、私も、きっと信じてみせるから」


 引き寄せられた。

 抱きしめられた。

 身動きが取れなくて。その細い両腕が背中に回されて。

 甘い花の匂い。

 柔い熱。


「朝起きたら、二人でお風呂に入りましょう」

「……そうですね」


 もはや何が何だか分からなかったが、彼女の細い手指がそっと背中を上下すれば──どうでもよくなってしまった。  


「明日からまた私達の日常を生きていく。きっとローロとならできると思う」


 街で起きた出来事が無くなったわけではない。

 怪我は癒えても、ローロが無茶をして、メフトがそれに苦しんでしまった事実は残る。

 二人が望む形だけでは居られないことを、メフトもローロも理解してしまった。


「明日から……だから。だから今だけはローロと共に眠らせて」

「……はい。メフトさま」


 時間という根源的な問題は、放置していても解決はしないが、勝手に前には進んでいく。メフトとティアレスがなし崩し的にでも共に居ることを選択できたように。

 苦痛を伴う現実はいつだって襲い掛かるのだろう。

 しかし、それは今この時の静けさの中にはないのだと、ローロは思う。

 今だけ。今少しだけ、先送りが許されるなら……。




 暗がりの中、聞こえるのは彼女の心臓の音。




 ここに共に居られる証はひどく落ち着く。心地いいと素直に思える。

 二人共やがて穏やかな寝息を立て始めた。

 月光は二人にまで届かない。彼女たちを覆うのは、死んだような夜の闇だけだ。


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