「私にも、何か、出来ることを……」




 その日も、ローロは当然のように明朝三時に目を覚ました。普段のルーチン通りならばベッドから抜け出、髪の手入れに最低でも一時間はかける。いつもの日常はそのようにして始まるはずだが──今日は少し勝手が違う。

 いや。今日も、か。


「……」


 目を覚ますと、すぐ傍にある、ほっそりとしたなめらかな首筋が真っ先に飛び込んできた。白くて、なだらかで、眩しい首の線。薄らと浮かぶ血管さえ造形美だとさえ思えてしまう。

 ここはメフトの私室、ベッドの上だ。

 普段使っている自分のベッドとは違う。そしてメフトの私室で眠っていたのだから、当然メフトもいる。今視界を占拠する白い首は彼女のものだ。──つまり隣でメフトが寝息を立てている。

 昨日はアルの……幼馴染の歓迎会があったのだ。そこで酔い潰れてしまったメフトを介抱し彼女の私室まで連れてきたら、流れで一緒に眠ることになった。

 明朝三時というのは大抵の者が眠りこけている時間。メフトも、今は穏やかな寝息でその胸を小さく上下させている。


「……」


 主君をこんな朝早くに起こすわけにはいかない。

 身じろぎひとつで起こしてしまいそうだ。それくらいなら、彼女が起きるまで、もう少しうとうとしていても──。


「メフト、入るぞ」


 声とともに勢いよく扉が開かれる音。慌ててローロは体を起こし、声の主を──ティアレスを見る。


「朝早くに悪いが問題発生だ。…………なんだ? ローロも一緒にいたのか?」


 昨夜の……というか数時間前までの酒宴の酔いはどこへ飛んでいったのか。深刻そうな表情で眉を立ち上げている金髪の女が、同じベッドで横になっていたローロを見て小首をかしげる。

 なぜかローロは言い繕わなければならないと思ってしまった。


「これはその」

「介抱したまま一緒に眠ってしまったんだろう? 昨日はそれなりにバタバタしていたしな」


 どうやら納得してくれたらしい……というよりも、それ以上に火急の件を抱えているように見える。

 物音で隣のメフトも「なーに……?」と寝起き眼を開き出した。


「ティアレスさま……どうしたのですか?」

「──森に複数の足跡を発見した」


 ティアレスの姿を認めたメフトが瞬きを三度──女の青い瞳に宿る真剣さに、彼女も表情を引き締めた。



 ◇



「複数人による、まったく同じ形状をした足跡?」

「ああ」


 ローロとメフトが食堂をあとにしてしばらくすると、アルも酔い潰れてしまったらしい。仕方がないのでアルを準備していた客室で寝かしつけたティアレスはそのまま森の野営地で飲み直そうとしたところ……件の足跡を発見した。──というのがティアレスの報告だった。


「野獣の群れという可能性はないのですか?」

「ないな。あれは明らかに人間の足跡だ」

「まったく同じ形の……ですか」

「断言してもいい。同じ形状の足跡で、複数人だ。奇妙に聞こえるかもしれないけどね」


 場所を変えて炊事場で、三人は顔を突き合わせ話し込んでいた。炊事場に鎮座している、火を点けていない竈は静かで冷え固まっていて、明朝の暗がりをよりいっそう硬いものに変えている。

 ローロの疑問を即座に否定したティアレスを補足するように、腕を組んでいるメフトが付け足した。


「ティアレスのそういった分析に関してだけは信頼に値するものよ。彼女は足跡ひとつで性別、身長、体重、体格までなら9割の精度で判断できるよう訓練されている。足跡が複数あっても正確な人数を割り出せるくらいよ」

「人を猟犬みたいに言うな。……まあ事実だが」


 魔法など一切使わなくともそれほどの技能を身につけているというのだから驚きだ。いったいどのような訓練が必要なのだろう。

 すっかり酔いが醒めたと言わんばかりに後頭部を掻いているティアレスが、普段とは程遠いほど冷徹な声音を出す。


「とにかくそういう訳だ。どうも胡散臭い奴らが近くにいる。──メフト、城の外に二人を決して出すな。それと貴様は【探知】なんかの索敵魔法も使えたな?」

「ええ」

「なら常時展開していろ。街での襲撃と関連付けて考える必要があるかもしれん。もしそうなら……相手は本気で来るぞ」

「……わかった」 


 元々二人の中ではすでに結論が出ていたのだろう。ティアレスの釘を刺す言葉に、メフトも重く頷く。


「しばらく私が庭で警護に当たろう」

「いいの? あなた、私を殺そうとしたのに」


 ずいぶん協力的ね──という言外の言葉を、メイド姿の女は皮肉げに口端を歪めて流した。


「お前を守るためじゃない。ローロと、すやすや寝てる後輩のためさ」

「……ありがとう」

「ふん。お互い、妙な関係になったものだな」


 とりあえず方針は固まったということでいいのだろう。

 森に複数人の足跡を残した不審者。城の庭で警護に当たるティアレス。索敵型魔法で魔法的な監視に当たるメフト。アル……は、今のところ守られるべき客人だ。

 であれば。

 私は。


「私も」


 寝る前の酔いは綺麗さっぱり消え去ったのだろう。メフトが少し寝ぐせの残る黒髪を手で撫でつけている。彼女は既に【探知】などの索敵型魔法を展開し終えているのか、その集中力は瞳のどこにも乗っていないどこか遠くに向かっていた。

 彼女の視界に、ローロは映ろうとする。メフトの前に立つ。主君を──主君だと認めてほしい人を、ローロは上目に見つめる。

 黒い瞳は、まだ日も昇っていない炊事場の中にあっては余計に暗い。黒い。


「私も、何か、出来ることを……」


 ぼんやりとした瞳はその焦点をようやく目の前のローロに定める。

 言葉を、きっと聞いていなかったのだ。メフトが曖昧な微笑を返した。その事実がローロ・ワンという少女を頼りにしていないのだと、そう思わせた。

 ──思い出す。 

 怪我をした。酷い怪我をだ。身体の痛みなんかで泣いたことはなかった。だけど泣きそうになったのは、あの時のメフトが酷く追い詰められた顔をしていたからだ。

 あんな顔を……また、させてしまうかもしれない。


「出来ることが……ありますか?」

「……」


 弱い言葉。部屋を出ようとしたティアレスが足を止めたのが、気配だけで何となくわかった。

 メフトはただの一度も目を逸らすことなく、表情を真摯なものに変える。……私に、真剣に向き合ってくれている。


「私は決めたの。もう二度とあなたを苦しませないって」

「──おい。メフト、お前な」

「黙りなさい。これは私とローロの問題よ」

「……」


 有無を言わせぬ口調は、本心から抱いた強い意志によるものだ。ローロには分かる。メフトの想いが痛いほど・・・・伝わる。

 冷徹な女王は、世界の支配者は、──魔王はただひたすらに信念の頑なさを言葉に変えるのだ。

 定まってしまった覚悟を……数時間前に見定めた己の成すべきことを、願いを、少女へと紡ぐ。


「ローロが無事でいてくれさえすれば、それが私の喜びになる。──ねえ、それじゃダメ?」

「だめなはずは、ないです」


 それだけ想われているという事実に喜びがあった。

 それだけ本気なのだという事実に震えが走った。

 それだけ、ローロ・ワンが戦力的に頼りにならないと言われていることに、息ができない。


「ローロ。あなたを必ず守り通すから。

 だから私を信じてくれる?」


 彼女の細い手指が私に触れることはない。その不思議な熱は今では遠い。あの、甘い花の匂いは遥か彼方にある。

 たった今。

 この瞬間。

 確定した。




 ローロ・ワンは、メフトにとっての『私の騎士オヴィディエンス』にはなり得ない。




 庇護すべき少女でしかないと、メフトは伝えた。

 何故ならローロが弱すぎるからだ。彼女やティアレスの立つ領域には及ばないからだ。──だから、メフトに頷くことしか出来ないのだろう。 


「アルに伝えてきます。今日はアルと共に居ることにしますね」

「……頼む。今は客室で眠っている」


 ローロの意見に、ティアレスは押し殺した声音をする。理想の騎士たる彼女の想いが分からないローロではない。──炊事場を、出来るだけ早く、だけどメフトにそうと気取られないよう必死になりながら、後にした。 

 部屋を出る。

 歩く。 

 歩く。

 歩く。


「メフト。今回の一件が終わったら、私は貴様を殴るぞ……!」

「好きにすればいい。その程度で揺らぐ覚悟だと思わないで」


 声が遠い。

 遠くていい。

 夢が、遠い。

 母さん。母さんの言いつけ、守れないかもしれない。……ううん、あと二年と半年も経てば、きっとメフトさまは騎士に叙任してくれる。だけどそれは本当の意味での騎士ではない。私が描いた騎士ではない。

 描いた騎士。

 夢想の形。

 それは、どのようなものだったろう。

 わからない。とにかく歩く。

 歩く。

 ……歩き続けて、客室の前に立つ。


「……」


 ぐしぐしと両の瞼を手で擦った。目端に溜まっていた涙はきっと、少し目が乾燥したからだ。

 せめて幼馴染の前でくらい、強くありたいと思った。


「アル。アル、起きて」


 扉をあける。シンプルな部屋の構成だ──ベッドに、箪笥。ベッドで寝ているはずのアルは何故か、ベッドから転がり落ちそうな位置でぐうぐうと寝息を立てている。

 ローロがわざとらしく足音を立てても起きる気配がない。仕方が無いので、その形の良い小鼻を指でつまんだ。

 数秒後。気持ちよさそうに眠りこけていたアルが苦し気に顔を歪める。


「んんんん! んががががが!」


 とても成人済みの女が出していいものではない声を上げ、アルが目をぱちりと開けた。


「……あれ、ローロ、どしたの?」

「あのね」


 その、翡翠にも似た濃青の瞳の中に、ローロの顔がある。小さな顔、小さな肩、小さな体。

 簡単に壊れる体だ。

 簡単に怪我をしてしまう。

 もっと強い力が欲しかった。

 たくさんの魔力を扱えたら。

 願いを一直線に叶えられるだけの力が。

 だから、それがないからメフトさまは、私を、


「えへ……メフトさまに、頼み込まれちゃった」


 言葉が勝手に溢れていた。

 年上で、だけど平気で道端に転がって駄々をこねるくらいはしてしまう、どこか幼いところがある幼馴染。アルの前では気丈に振舞おうと決めていたのに。


「私を、メフトさまが守ってくれるって……!」


 普段は禄に機能しないはずの情動が吠えていた。ローロ・ワンを構成するうちの生体脳が悲しみでおぼれていた。それに引っ張られる形で……否、それと同等以上の感情の発火で、判断機能を司る主制御セカンダリでさえも堪えることが出来ていなかった。

 涙が出た。

 生理的反応を止めようがなかった。

 メフトの、本気だからこそ絶望的な慈愛が苦しかった。

 言い返せるほどの実力がない自分をどうすればいいのかもわからなかった。


「私には誰も守れないって、だから、私は、私には何も……!」


 ぽろぽろぽろぽろ。涙は出る。掬っても拭ってもとめどなく。

 嗚咽がローロのか細い喉でしゃくり上げる。どうすればいいのかも分からない現実に、だけど言葉が零れ落ちた。


「私は、守られてばかりいるのは、嫌だよ……」

「大丈夫。大丈夫だから」


 きっと状況は呑み込めていない。どころか突然やって来た幼馴染がいきなり泣き出して、困惑しかないはずだ。

 それでもアル・ルールはローロを優しく抱き寄せた。それが自分の成すべきことだと。


「ローロは強くならなくていいんだよ、無理をしなくていい。ローロに罪はないよ」

「だけど私は騎士になりたい! 称号だけじゃない、本物の、本当の騎士に! それがなにかもわからないのに……そう願ってる!」

「ローロの夢は知ってる。何年そばにいたと思ってるの?」


 膝立ちの幼馴染が、抱き寄せる両腕に力を籠める。後頭部に当てられた片手が少女を撫でつける。


「夢は叶うよ。ローロの夢は絶対に絶対に叶うから。だから大丈夫だから……泣かないで」

「な、泣いてなんかない」

「えーそんな強がり言っちゃう?」


 クスクスと笑う密やかな声音。


「……でも意外だったな。ローロがここまで大泣きするのなんて初めて見たかも」


 見知った者に心情を吐露して少しは落ち着いたのかもしれない。体の震えが落ち着いたころを見計らってか、アルが抱きしめる格好のまま耳元で囁く。


「ちょっと外の空気を吸おうよ」

「でも、ティアレスさまが城の外には出るなって」

「大丈夫大丈夫。外っていっても塀の中だし」


 抱擁を解いた幼馴染が、そのままの流れでローロの手を取った。

 久方ぶりに感じるアルの手指は、思い出の中よりも遥かに大きくて──力強い。



 ◇



 結局引きずられるような形でローロは部屋を出、塀の傍に腰を下ろしていた。勿論隣にはアルがいる。 

 場所としては城の庭、畑がある辺りだ。城門前を警護しているのだろうティアレスからは距離が離れている。だから、という訳でもないが……二人して膝を抱えて身を縮めるようにして座っていた。まだ朝の四時にもなっていない時間では辺りは暗く、畑で収穫を待つ葉物野菜たちが夜闇の中でその存在を静かに主張している。


「おっきい野菜だねえ」

「……うん。私も世話してるんだよ」

「おお。じゃあ昨日食べたおいしいシチューにも使われてたりするんだ?」

「そうだね。玉ねぎなんかは私が獲ったやつかも」

「すごーいローロの手作り野菜食べちゃった!」


 そこまで言わなくても。

 鼻先を赤くしている少女が淡くほほ笑むと、年上の幼馴染も嬉し気に笑った。


「ねえローロ。覚えてる?」

「何を?」

「ほら。昔、よくこうやって二人でぼんやりしたよねって」

「たくさんありすぎて覚えてるどころじゃないよね、それ」


 小さな頃からずっと傍にいるのだ。数えきれないくらいの思い出がある。


「んもう! 覚えてないの? ほら、あれだよあれ!」

「あれ、って言葉じゃわかんないよアル……」

「んーだからぁー!」


 何故だか顔が赤い女は体を上下させている。柔らかな栗毛がふわふわと揺れているのを見ていると、──やがて。


「……ずっとローロの傍にいるって約束したんだよ、わたし」


 抱えた両ひざに顔を埋めるように、アルは俯く。

 そのひそやかな声音で思い出した。


「もしかして私が士官学校に行く直前のこと?」 


 うん、としおらしく頷く隣の幼馴染。

 もう五年以上前になる。ローロが、母親の言いつけに従って騎士になることを目指し、そのまっとうな手段として生まれた国の士官学校へ入学することになった頃。荷物をまとめたローロは馬車を待つ間、アルと共にこうして座り込んで眺めていた。地元の、小高い丘から。その眼下に広がる田園風景を。


 ──本当に行っちゃうの? 

 ──うん。だって母さんと約束したから。

 ──マギアニクスおば様の遺言は……大事だもんね。

 ──私のすべてだよ。


 他愛ない会話をしばらくしていると、馬車がやってきて。だからローロが立ちあがったその時。


「あの時の言葉……今でも言えるよ」


 アル・ルールは熱情の篭った瞳で言ったのだ。




「わたしはローロの味方だから。

 きっとずっと最後まで傍にいるよ」

「悪いがそれはできない約束だな」




 場違いな男の声。二人の顔が跳ね上がる──しかし、遅かった。

 ローロの隣にいたはずの幼馴染は、いつの間にか眼の前にいた男の肩に、担がれていた。


「────」


 どこにでもいるような平凡な服装。首元まできっちり隠すジャケットの襟、素肌を隠す手袋。そして顔全体を隠す、白いばかりの仮面。

 いつ。 

 どこから。

 どうやって。


「俺の複製体が世話になったみたいだな、ローロ・ワン」


 言葉に現実へと引き戻される。二人でいた塀の付近にぽっかり空いた穴──まさか塀を突き破った? 

 そして見た。

 男の肩に担がれているアル・ルールを──。


 ・──『何か』『しないと!』


 わかってる。わかってる。わかってる。

 魔法を使え。何でもいい。今、この時、この場にいるのは自分しかいないんだ。幼馴染を。古くからの友を救えるのは自分だけなのだ。

 使え。

 使え。

 使え。

 使え。

 使え! 

 力を!! 


「──────」


 もはや何を起動したのかさえローロは把握していなかった。

 掌大の、全力で捻出した魔力は何らかの魔法を形作った。射出されるような攻性魔法を? それを見上げる先の男に向けて放って? 男が……どうしたと思う、ローロ・ワン? 

 ローロ・ワン、お前の無我に放った脆弱さはどうなったと思う。

 何も・・起こ・・さな・・かった・・・

 ──私の放った魔法を、男は肩で笑って何もしなかった。簡単に展開された防護魔法が弾いてしまった。

 それだけ。

 それだけにしかならない。


「そういう戦い方じゃあ、何一つ守れやしない」


 男の分かったような口調を呆然と聞いた。

 その通りだと思う。

 やりようはあるはずだった。ティアレスとまっとうに対峙できた程の行動策定さえあれば。

 ──思考が動いていなかった。現実をただそうとしか認識していなかった。

 そして。

 男が、こちらに向けて手をかざし──攻性魔法が、来る。  


「ローロ!」


 男の肩の上から、アルの悲鳴。【発熱】による極めて単純な熱エネルギーの放射が、ローロへと放たれ。

 熱量の放射というのは白に似た色をしている。直撃すれば、致命傷とまではいかなくとも、碌な結果は生まないだろう。

 少女の思考は未だに硬直していた。反応が、できない──。

 あと0.1秒で直撃するだろうという瞬間。


「避けて!」


 唐突に魔法の射出速度が落ちたように見えて、




 目の前に振り下ろされる剣。




 攻性魔法の砲弾はあっけなく弾かれる。

 視界を覆う紺色の衣服があった。同じ丈の白いエプロン。いつもの、だけど圧倒的な存在感を今では放つ侍従の姿。


「最近出来た後輩なんだ。それなりに気に入っている関係でな」


 声に情の気配はない。それは純然たる殺意の表れだ。

 女、ティアレス・ティアラ・ホルルが──即応していた。 


「……返してもらうぞ」


 言葉の終わりを待つより先に、ティアレスは【強化】魔法を展開し終えている。その脚力は瞬時に男への肉薄を許し、的確に敵対者を刈るための袈裟懸けを見舞った。

 決して常人の反応を許さない動作。

 当然のように男は振るわれた一剣をその身に受け、しかし──袈裟懸けは空を切っていた。


「──攪乱系か」


 男の姿が、歪曲していた。

 まる・・でそ・・の場・・に居・・ない・・ように・・・。そのままの姿でくぐもった笑い声をあげている。


「おっと。事前の情報収集は大事だからな、最強の強化型魔法使い、“ホルル家の最高傑作”に真正面から戦いを挑むほど俺は馬鹿じゃない」


 ティアレスが舌打ちを打った。

 やり取りの通りの出来事が起きたなら、仮面の男は攪乱型魔法を発動していたことになる。それこそ自身の位置を他者に歪めて伝えるような、視覚情報を阻害する類の魔法だ。 

 肩の上で暴れまわるアルを抱え直しつつ、仮面の男は言う。


「これは人質として預かろう」

「……引き換えに何を望むつもりだ?」


 わかるだろう、ティアレス・ティアラ・ホルル。


「魔王の命だ。魔王メフトの首を持って来てもらおう。……場所は以前、俺の複製体が魔王によって破壊されたあの場所にしておこうか」


 歪み続けていた男の姿はついに掻き消える。少なくともローロの視界においては、完全に姿形を失っていた。アルでさえも。


「刻限は三日後ということで。──それでは」

「待て! ……くそッ、もういないな」


 再度盛大な舌打ちを放ったティアレスが周囲を見回すが、辺りには何もない。

 あるのは、陽を待つばかりの夜明け前の空。

 ぽっかりと穴を開けられた塀。微動だにしない畑と作物、そして──。 


「あれは恐らく【迷彩】だな。搦め手で来るタイプの、攪乱特化型魔法使いか。厄介だぞローロ」


 そして、何一つ身動きが取れないでいる、少女が一人。

 首の向きをティアレスへと正すこともできないローロに、女が疑問の声を上げる。


「ローロ?」

「…………何も」


 目の前で、攫われた。……できることは無数にあった。最も近くにいたのだから。

 この手は。

 この足は。

 ただの反応一つ、よこさなかった。


「何も、できなかった」

「ローロ。しっかりしろ、おい、ローロ」


 自分には本来、機敏な反応を可能とする力があったはずだった。【MOSマギマ】……絶対演算魔法。自分自身で稼働状態への移行を判断する魔法は、いつもいつもここぞという時にしか起動しない。逆に言えば、ここぞという時は、今ではないと告げているようなものだった。

 大事な。たった一人の幼馴染だというのに、『ここぞ』ではないと言う私。

 【MOS】とて私だった。

 私、『ローロ・ワン』を構成する一部だった。

 だというのに、どうして、何一つ私は成せない……! 


「私は。私は、目の前でアルが攫われるのを、私は──!」

「……ローロ」


 吼える少女に対し、女は少しだけ目を瞑っていた。

 しかし。一向に立ちあがる事さえできないでいるローロを見て。


「ローロ・ワン! 歯を食いしばれ!」


 手を振り上げ──真っ直ぐに。

 頬を打つ音。

 痛みを的確に抜いた衝撃だけが、ローロの右頬を打つ。曲がった首をゆっくりと戻して、ただ、見た。




 目の前に、一人の騎士がいた。





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