「その道は修羅で満ちている。その道が行く先は私と同じ地獄」
頬を、打たれた。
痛みはない。不思議と濃い衝撃だけが脊椎を震わせていた。
「……」
横を向いた顔をゆっくりと正す。
見上げる。
怒声を上げた女は……ティアレスは。
「何も出来ない自分を蔑んで、それで気は済んだか、……状況は変わったのかい」
「──」
“騎士”は現実をひたすらに見据える目をしていた。
彼女ほどの精神があれば、きっとどのような悲哀でも動じることはないのだろう。──強いな、と、素直に思う。
その青空よりも尚強く澄み切った青の瞳が今はただ眩しくて、ローロは俯いて、臍を噛む。
「私には……何もできなかったんです」
「……。何もできないなんてことはないさ。君にしかできないことがある」
ティアレスの声音はどこまでも優しい。
わかっている。ただ茫然としているしかなかったローロをこうまで正しく叱れるのは、彼女が特別よく出来た人物だからこそだと。ティアレスの心に真っ直ぐな芯があるからだ。
彼女の、真っ直ぐな背筋にも似た精神が崩れることはない。
「私には魔法が使えません。使えても、誰も守れるようなものじゃなかった……」
「だが君には足がある。立つことの出来る両足が」
だけど足しか無かった。
何をも成せない両足だ。こんなものは。
「私にはティアレスさまのような強さがありません」
「だが君には剣を握れるだけの手指が残っている」
だけど手指だけだ。
何かを掴んで離さないことさえ、出来ない。
「私には自分をそこまで誇示できるものがありません」
「だが君には敵の喉笛に食らいつく顎がある」
だけどたかが顎だ。
誰にも届くことはない。
「私には、もう、何も──」
「ローロ。君には足がある、手指がある、喋れるだけの顎がある、君はここにいる……まだ負けてなんかいない。……いいかいローロ。騎士は──」
少女の言葉を、より強い口調で女が遮った。
こちらを見ろと女の手が少女の両肩に置かれた。大きな手。ごつごつとした掌。
半年前に出会った頃からティアレスは何一つ変わらない。
彼女はいつまでもローロ・ワンにとっての、理想の騎士だ。
「──騎士が、剣より先に心を折ってはいけない!」
「……!」
騎士たる女は自己の揺るぎない信念をもって、騎士でありたいと願う少女へ歯を見せて笑っている。
心が……比喩でなく、震えた。
「前を向け。目を逸らすな。──戦え。諦めきれない現実があるなら今君にはすべきことがあるはずだ!」
「私……の……すべきこと……」
「──ティアレス! 今のは何!」
城の扉を開け放つ音と同時に、メフトの悲鳴に近い叫び声が響き渡った。ティアレスは扉の方へと顔を向ける──もう、ローロを見ることは無い。
「一体何があったの?」
「アル・ルールが攫われた。例の仮面の男だ。索敵魔法は展開していなかったのか? なぜ気付けなかった」
「展開はしていたけど反応はなかった……私の魔法を突破した?」
「可能性としてはあり得るな。対策はできるか」
「手間ではあるけど、動体反応の方に魔法を切り替えるわ。──……見つけた。城から東。数km先。一直線に城から離れていく二足歩行の物体がひとつ。……東の方角には街がある、潜伏するつもりね」
「あの仮面を着けた男は街へ行くと言っていた。話は合うな」
二人の会話はひたすらに前だけを見ていた。
現状を憂うことはあっても、過去にばかり気を取られてはいなかった。
それは彼女達の心に覚悟があるからだ。
強い意志を持っているからだ。そして何より、自身が何をすべきか、見定めているのだ。
「なんにせよ攪乱系の魔法使いが攻めてきた事実は変わらん。そして後輩が攫われたこともだ」
「ティアレス、ローロをお願い。──私が出るわ」
「城を空ける気か」
「捕捉さえできれば世のすべての魔法を扱える私のほうが優位に戦闘を進められるでしょ」
「【終末魔法】はどうだ、距離無効が使えるならここからでも殺せるはずだ」
「
「……わかった、異論はない」
眩しいと、思った。
強い人達だと、憧れた。
・──『思い』『出せ』
私では遠い。
彼女達のようになるのに、どれだけの時間がかかるのかさえ分からない。
・──『思い出せ』
半年前、圧倒的な強さを見せつけたメフト。その拒絶の精神、その孤高を美しいと思った。
半年前、騎士たるを示したティアレス。その高潔な精神、その在り方を目指したいと思った。
……私は。
・──『思い出せ!』
私は。
こんなにも素敵な人達と共に居るのに、どうして俯いてばかりいるのだろう。
「……待ってください」
捻り出した声には弱々しい震えがあった。薄弱な意志を代弁するような脆さばかりが現れていた。
それでも、メフトもティアレスも、始めようとしていた行動を止めてくれる。
四つの、遥か上にある瞳に見つめられて──だけど不思議と胸を張ることが出来た。
「あの子は。アルは、昔……私の指を作り直してくれたことがあるんです」
ローロ・ワンが五歳の時だ。
何にでも興味を持っていた稚児は野菜を切ってみたいと考えて、食糧庫にあった野菜を手に取った。……けれど母親はそんなローロの好奇心を知っていたから、少女の手が届く範囲に刃物を置いていなかった。
だからローロ・ワンは【切断】の魔法を発動したのだ。
結果、雑な精度の魔法は幼子が手に持っていた野菜ではなく──小さな薬指を切り落とした。
「あの時、血まみれの私を見つけたアルは必死でした。必死になって私の指から出る血を止めようとしてくれました。どうしようもなくなって、それでもアルは諦めていなかった。そして諦めずに……奇跡を起こした」
「欠損部位の再生すら可能なんて。本当の意味での天才ね」
「……あの時、誓ったんです。アルが危ない時は絶対に助けようって。救うのは、自分でなければならないと」
だから? と、メフトの黒の瞳は静かに続きを促す。
ティアレスも同じようにローロを見つめている。
──わかっている。
今ここにいるのは、自分にはない力を持った者達だ。彼女達からすれば魔法ひとつ満足に展開できない者が、無力で無謀な勇気を振り絞ろうとしているようにしか見えないのだろう。
それでも二人はローロの言葉を待っている。メフトはひたすら冷徹に。ティアレスは、その口端に小さな笑みを浮かべて。
「私は、私の薬指に掛けて、アルを救います」
「……ほう」
「……」
それだけで十分だと、ローロ・ワンは前を向く。
剣を持てるほどの力もない者が、それでも騎士であろうとする滑稽さを、だけどここには笑う者など一人もいない。
だから!
「──私がアルを助けます!」
胸を張れ。
「あなたではもう追いつけない」
「いいえ。何としてでも追いついてみせます」
顔を上げろ。
「攪乱系の魔法使い相手に、極わずかな魔力総量では対抗手段がないぞ」
「何も無いからと諦めたくありません。【
声に気力を漲らせろ。
「ローロ。ここは私達に任せて。絶対にあなたの大事な幼馴染を傷つけさせたりなんかしない」
「それでも」
ローロ・ワンには目指すべき自身の姿があり、それを恥じる必要はどこにも無いと──もう知っている。
「だとしても……私は、私の唯一の親友を助けるのが自分でありたいと願います!」
五年と半年前、ローロの母親マギアニクス・ファウストは遺言を残した。
騎士になれと。
それからの五年間をひたすらに騎士になる事だけを目指して生きた。騎士になることだけが目的だったから何も迷わなかった。どんな劣悪な条件が課される契約書だろうと関係なかった。
「私は弱くて……脆くて。
だけど守りたいものができました!」
半年前、ローロはこの城へ来た。
メフトという魔王と出会った。彼女の下で暮らすうち、自分がどのような騎士になりたいかの形がぼんやりとだが出来つつあった──そんな風に願いを抱いた自分に、自分が一番驚いている。
「私はこの城が好きです。裏手にある森が好きです」
だけどこの情動は芽生えてしまった。
城で毎日目を覚ます。
メフトを起こして、二人で仕事をして、塀を直すティアレスを眺める。時折喧嘩する二人はたいてい険悪だけど、それでも共に食事を取れる現実がある。そこに今では大事な幼馴染であるアルまで来てくれた。
「畑仕事が好きです。育てた野菜を食べるのが好きです。森で山菜を取るのが好きです。お風呂も、編み物をするのも、ティアレスさまとお話をするのも、メフトさまのお手伝いができるのも、きっときっと大好きです!」
こんなに嬉しいことはない。
こんなにも守りたいと思えた世界はどこにもない。
もはや歯止めを効かせることなんて、出来ない──!!
「ティアレスさまが好きです!
アルのことが好きです!
メフトさまのことが大好きです!!」
「──」
魔王が目を瞠る。真っ直ぐぶつけた言葉に、僅かな動揺を引きずり出せる。
これが全てだ。
彼女と過ごした半年間の成果。その結実。
私の言葉を彼女がたしかに聞いてくれること。
それだけで弾む心がある。
──歯止めの効かない愛情が、ローロの中で剣になれた。
「大好きな人を。その人達との日常を守れる騎士に私はなりたいです、メフトさま!」
「────」
今この時、少女の道は完全に定まった。
騎士になれるか否かではない。
メフトに足る騎士になれるかでもない。
力があると、無いとか、そんな程度の問題でもない。
「………………騎士とは、馬鹿な生き物だな」
やがて言葉を発したのはティアレスだった。あきれ返ったような声音と共に、彼女はローロへと一歩前に進む。
彼女の実に嬉し気な眼差しがローロだけを見つめる。
そして──。
「ティアレスさま?」
その手に持っていた剣を。先ほどローロの命を救った長剣を、鞘ごと少女の胸に押し付けた。思わずローロは両手で受け取ってしまう。
「銘などは無い。けれどその剣はそこのメフトが、かつて私のために作った、刃先が単分子で出来た剣だそうだ」
「……わかりやすく言うと究極の切れ味を持つ刃よ」
補足するメフトに、ティアレスも頷く。
青い瞳の女は絶えることのない嬉々の中で、ローロに言った。
「これを、君に」
「──」
両手に納まる、ずっしりとした重さの剣。無骨な造りは魅せるための装飾を一つも持たない。ただただ、使用者の意志を具現するための道具として鎮座する長剣だった。
「もう私には不要なものだからな」
「いいのですか……?」
「持っていけ。騎士に必用なものはどんな障害だろうと斬り伏せる剣だろ。騎士の先達として私に出来ることはこれくらいだ」
「……! ──ありがとうございます、ティアレスさま!」
……どれほど。
どれほどティアレスの在り方に心が震えたか分からない。たった今だってローロに発破をかけた彼女の、厳しくも優しい接し方が少女を再起させるに至ったのだ。
ティアレス・ティアラ・ホルルは、ローロ・ワンにとっての目指すべき道そのものだった。
両手に握った鞘入りの長剣を、ローロはその身に抱きしめる。万感の思いが喉を震わせる。
「あなたと。ティアレスさまと出会えて本当によかった……」
「お、おいおい」
──視界が、気付けば歪んでいた。
ぼろぼろと。眦から止めどなく溢れる温い滴。
止めることが出来なかった。
悲しいから泣くのではなくて、嬉しいから泣いている。『ローロ・ワン』の判断機能を司る私に、そんな情動があったことが嬉しくて。だから。
だからローロは、心の底からの喜びで笑うことが出来た。
「ティアレスさまが私の理想の騎士でいてくれることは、私にとって一番の幸運なんだと思います──」
「……。……はは。参ったな。こんなに喜ばれたこと、ないんだ」
少女の泣き笑いを真正面から受け止めて、背の高い女が赤面する。頬を少し掻いたティアレスは、耳まで赤い顔のままで、にっこりと笑って見せた。
「なあ。忘れてくれるなよ。私は君に命を救われたんだ。あの時君が私に見せてくれた背中の大きさは、きっと二度と忘れないよ。──君が望みさえすれば、この身は剣となって君を助ける」
「ありがとうございます。ティアレスさま」
「……私はろくでもない女だが、今は君の騎士でありたいと願うよローロ」
快活な笑みはいつもローロが素敵だと思っているもの。
どんな時でも揺るがないティアレスの在り方に、ローロも頷く。
「メフト」
そして、ティアレスは穏やかな口調そのままに振り向く。
先ほどから微動だにしていない、城の主へと。
「お前もわかっただろ。ローロはもう、私達より強いよ」
「……」
「今日がこの子のきっと門出になる。私はローロの背中を押してやりたい。……メフト、お前は?」
問いかける言葉に、未だに瞳を閉じたままでいるメフトは。
「……私はあなたを、飴細工のように扱っていたのね」
ややあってから消え入りそうなほどのか細い声音で、そう呟いた。
彼女が瞼を押し上げる。その、黒いばかりの瞳にローロ・ワンを映す。
「だけどローロ、あなたは剣のようでありたいと願っている。私は……ローロの思いに応えたいつもりでいたのに、あなたを本当の意味で見ていなかった」
「メフトさまがこの半年間、私のことを想ってくれていたことは知っています。私にはそれが心地よかったんだと思います。メフトさまのご厚意に感謝だってあります。……だけど私は、メフトさまに守られるばかりの自分が受け入れられないのです」
「そうね。私は、ただひたすらあなたを壊さないように願って、守ろうとして、そのくせ何も出来ない自分をあなたの前で卑下してみせて──それはローロの自尊心を傷つける行いだったのに、どうしても分からなかった」
悔しさを滲ませる言葉と共に、メフトはそっと上を向く。彼女の両手が気付けば拳を象り、皮膚を喰い破りそうなほどの力で震えている。
「あなたは自己の痛みで泣くのではなくて、
あなたの弱さで痛みを負った誰かを見て、泣く」
空は、未だ黒い。陽光はもう間もなく上るだろう──しかしそれはもう少し先の話になる。
薄明りで包まれた闇を背に、メフトは首の向きをローロへと正した。
「そんな現実を変えたいとずっともがいているのでしょう」
「はい」
「そんな自分を受け入れたくなんか、なかったのでしょう?」
「はい」
「だというのに、私はあなたに『か弱いばかりのローロ・ワン』を強制していたのね」
「……」
「あなたを、私が、ずっと苦しめていた」
「……」
目を伏せて、ローロは思い出す。
彼女は私に食べたいものを食べさせようとしてくれた。
街へ連れ出し、欲しいものを買い与えようとしてくれた。
日々を生きるための生活の中で、少しでも、私が幸せになれるようにと計らってくれた。
そこにどれだけの努力があったのだろう。
それでも、ローロ・ワンは──私は。
「──はい。私は、メフトさまの前で、弱いばかりの自分でなんかいたくありません」
「──そう。きっとローロならそう言うと思っていた。あなたは、強いもの」
寂しさを滲ませる褪せた微笑みと共に、メフトは自身の悲哀を言葉に変えた。
……ローロ・ワンの胸をちくりと刺す痛みがあって。
……同時に、きっとメフトも同じような痛みを覚えている。
どちらにも相手を思いやる心があった。
ただただ、思いやり過ぎた想いが、双方の心に耐えがたい傷を作ってしまった。メフトは少女を守れなかった自己を責め立て、ローロは彼女を苦しませてしまった自己の弱さに泣いたのだ。
「私はそれでも、メフトさまが好きです」
「ありがとう。私もよ、ローロ」
だけどローロの瞳にもう迷いは無い。少女の、淡い紫の瞳は、恐れも怯えも媚びも甘えもなく、ひたすらに真摯な熱で主君を見上げることが出来る。
そんな少女だからだろう。
「覚悟はある?」
メフトが、笑みの質を変える。
「え……?」
「私は悪い魔法使いだから。ティアレスみたいに素敵な贈り物はできないし、よくない手段しか持ち得ない。あなたにまっとうなものを与えられない」
悲哀ではない。
純愛というわけでもない。
憐憫でも、甘えでも、媚びるそれでもない。
「私の行く道の先には地獄がある。それでもあなたは、共に行く覚悟がある?」
ただただそこにあるのは、────破滅へと少女を誘おうとする邪悪なもの。
「私の背中を追うのではない。
私の庇護下にあるのではない。
あなたが本当の意味で私と共に並び立ちたいと願うなら──私に、ローロの魂をちょうだい」
そうして女は、その場に右手を差し出した。
手の甲を上に。
細いばかりの腕を。陽のなき薄明の中でなお眩い、白き腕を晒して。
「この手に傅いて、どうか誓いのキスを。
宣誓と契約を。
さすれば、私はあなたに究極の力を与えましょう」
魔王が──悪魔が、呪いを、嗤って、嘯いた。
それを。彼女の邪悪な笑みを。生白い手を。
見て。
少女は。
ローロは。
「私は君がどのような道を進もうと、そこに騎士の神髄を見た。だから決して止めはしない」
「それでも……分かっているのか? その女は君に禁術を授けるつもりだぞ」
「それでも私にはかけがえのない世界があります」
ティアレスはそれ以上何も言わなかった。
──前を見る。
既に、女は眼前だ。
──足を折り、腰を下げ、片膝をつく。
既に、女の手の甲は目と鼻の先にある。
──顔を上げる。
既に二人の視線が解けることはない。
「メフトさま」
「なーに? ローロ」
メフト。
メフィストフェレス。
メフィストフェレスラフレシアディアレシオディファレンスディファレンシアバレルロードカルテル・ファーストラグドール。
美しく、細く、非現実的なまでに黒と白を兼ね備えた魔なる女王よ。
「私はあなたの騎士になります。
あなたと生きてゆける世界を守る、あなたの騎士に」
──あなたと出会えて、よかった。
首を垂れ、手の甲に唇を捧ぐ。女の皮膚は柔らかく、瑞々しくて、少しだけどきどきする。
「──」
「……」
口付けは極めて短い時間だけ。
唇を離したローロが見定める中、女はゆっくりと瞳を閉じていく。
「契約は、結ばれた」
声に普段ののんびりとした様子はなかった。
何者にも侵しがたい冷徹な拒絶が。人知を拒む圧倒的な孤独の性が。──人とは別種の精神が、少女の前で露わになる。
「私はメフィストフェレス、空想の悪魔。
ファウストの娘。あなたに与えましょう、破滅なる禁忌を」
メフトが瞼を上げ。
そこには、
瞬間。ローロの脳内に刻み込まれた魔法構築理論があった。
それは少女の脳を甘く痺れさせる、禁術。その効果をローロは完全な理解のもとに把握し、そして末恐ろしさに目を瞠る。
「これは…………」
「もう理解したでしょ。なら行きなさい」
メフトを見上げる。
既に彼女の瞳は普段通りの黒に戻っていた。
そして彼女は何てこともないように言うのだ。
「“
「────」
もはや、どのような情動が当てはまるのか、ローロにも分からなかった。
咄嗟の判断で長剣を胸にかき抱いた。
俯いて、歯を噛みしめた。
……そうでもしなければ今すぐにでもメフトに抱き着いてしまいそうになったから。
「だって。三年後だって」
「あなたの忠誠は十分に届いたもの」
「だから顔を上げなさい」と。言われ、ローロは面を前に。
そこには自身の主君が笑んでいる。
歪む視界の中でもより一層美しく。
「ローロ。私のローロ。今からあなたは私の騎士よ」
「……はい」
涙を腕で拭った。
「その道は修羅で満ちている。その道が行く先は私と同じ地獄」
「はいっ」
彼女の前ではもう、弱い自分ではいられないと悟った。
「それでもその剣は私のためにある。……いーい? 誓えるかしら」
「はい!」
胸を張り。主君たる
そう、真摯に決めた。
「ならこれが最初の王命になる。──友を自らの手で救ってきなさい、ローロ・ワン」
「はい、我が主君!」
背を向けて、城の外を目指そうとする……が。逸る気持ちをどうにか抑えて、二人を邪魔しないよう少し離れた位置にいたティアレスへと近寄った。
侍従の格好をした、世界で最高に素敵な理想の騎士は、ローロの背中を叩くように歯を見せて笑ってくれる。
「二人でちゃんと帰ってくるんだぞ、ローロ」
「はい! 騎士になってきます、ティアレスさま!」
これでもう思い残すことはない。
私は私の意志に従って、騎士として行くのだ。
この、小さな背中に降り注ぐ、大事な人達の視線を力にして。
「母さん」
あなたの言いつけを守って生きてきた。
だけど今、自分にはそれ以上に大事なものが出来たような気が、している。
だから。
「ごめんなさい」
ローロは、その長すぎる銀髪を押さえていた髪形をすべて解き。
「私は────ひとつ、母さんとの約束を破るよ」
毎日の手入れを、本当に一度として欠かさなかったがための美しい艶。
力強さ。
柔らかさ。
少女の身長を優に超す白銀の髪は、未だ空に浮かぶ月からの輝きを受けて眩さを増し。
ローロは、空を見上げると。
後頭部にあった煩わしさが失せたことに心地よく目を細め。
──禁術を解放する。
「【
月下。
その長髪が地に触れるのと同時だった。
「魔力放出──開始」
ローロ・ワンが16年に渡ってたくわえた総計255cmの頭髪は、その長さを一挙に170cmまで減らす。
そして少女の全身より魔力が吹き荒れた。
無色透明の『物質らしきもの』が。『霧らしきもの』が。ローロではどうやってもその小さな掌大までしか放出できなかった魔力は──。
半径1kmを覆い尽くすだけの魔力が、少女を起点に生まれ続けていた。
純然たる力に、ローロは表情のひとつも揺らさない。
1秒とて惜しいと言わんばかりに、ひとつ小さな呼吸をして。
直後。
少女は、【強化】魔法で空へと跳んだ。
速域にしてマッハ7。
瞬間的な極超音速への加速だった。
──音の壁を突き破る轟音は、騎士の咆哮として空を駆け巡る。
薄明の空を銀色の龍が突き進むような幻想的な光景。それを、二人の女が見つめていた。
一人は静かな表情で。
もう一人は。
「私があなたを守るのではなく。
私の祈りが、あなたをきっと包むから──」
ひたすらな願いと共に。
「いってらっしゃい。ローロ」
秘匿魔法【
それは、魔法発動者が選択した自身の肉体──質量を、時限的に魔力へと等価変換する禁術である。
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