「ムムム……」


 ある日のことである。

 ローロが、自前の銀髪を後頭部で簡単な団子にして、畑ですくすくと育ちつつあるトマト周辺の雑草を抜いていた昼下がり。


「ろ、ローロ……」

「ティアレスさま?」


 城の裏手の方から聞こえてきた女の声にローロは顔を上げ──次いで目を瞬かせた。

 女、ティアレスは上気した顔で荒い吐息を繰り返しており、額に手などを当てている。その足取りはふらふらと危うく、明らかに体調が悪そうだった。


「ティアレスさま、まさか……」

「すまない。どうにも頭痛と咳が止まらないうえ、体も熱い。薬とか……もらえるだろうか……」


 普段通りのメイド服──踝まで覆う紺色のロングワンピースに、同じ丈の白いエプロンという出で立ちも、今日はどこか萎びて映る。しかしそれでも真っすぐ伸びた背筋が曲がらない辺りはさすがティアレスだと思った。

 ローロは畑仕事を中断し、すぐに彼女を城内で掃除中のアルの下へと連れて行った。この『国民なき国』で──城で、体調を崩した人を多く見てきたのは、間違いなくアルだ。アル・ルールは非常に特殊な才能を要求される治癒系魔法の世界的権威であり、その名は尋常の医学では太刀打ちできない症状を『復元』してしまうとして、世界中で有名だった。

 ローロ・ワンの七歳年上の幼馴染は、ダイニングとして使用している炊事場の隣室で拭き掃除をしていた。

 少女が連れてきたティアレスの姿を見れば、彼女は慌ててティアレスを近くの椅子に座らせて、自身もその対面の位置にて座る。


「はい、お口あーんしてー」

「あー」

「喉腫れてるねー。おでこ出してー」

「んー」

「結構熱あるねえ」


 アル・ルールが、普段なら柔らかくころころと変化し続ける垂れ目気味の丸い瞳を、いつになく真剣な色合いにしている。こちらはこちらで非常に珍しいものに見えたが、稀代の治癒系魔法使いとして仕事をこなしていた頃は、患者に対してはこんな風に医者然とした姿を見せていたのだろうか。

 豊かなうねりで膨らむ肩口の長さをした栗毛を、手癖のようにくるくると弄りつつアルは断言する。


「うん、風邪だね」

「風邪かあ……」


 鼻声で、泣き腫らしたように充血した瞳で、ティアレスが辛そうに呟いた。──次いで「けほッ、けほっ」と湿った咳をする。


「アルなら治せる?」

「うーん……風邪ってさあ、実はいちばん厄介なんだよね。何しろ骨を折ったとか切り傷だとか、体のここが悪いとか、そういう分かりやすい治すべき場所がないでしょ?」


 腕組みをして眉を八の字にしたアルが困り切った様子で続けた。


「実はわたしも病気とか原因のはっきりしないものに関しては、明確な原因箇所と病名が分からないと手の打ちようがないんだよねえ」


 アル・ルールは天才的な治癒系魔法の使い手だが、1900年代の魔法価値観に照らし合わせると『古い』と評される魔法の使い方をする。観測機器の発達によって魔力と魔法の関連性が少しは把握され、簡易の魔法であれば展開に関する理論が出来上がりつつあるこの時代、非常に感覚頼りの魔法展開というのはやはり前時代的だ。その分、体系化できないような複雑な魔法を展開することが出来るのも事実だが……そういった感覚で魔法を扱うアルにとって、『どこを治せばいいのかわからない』という認識になってしまう症状は、難儀なものだったらしい。

 治癒系魔法使いの権威は実に申し訳なさそうにティアレスに対し両手を重ね、頭を下げる。


「ごめんね先輩! わたしの力でぱぱっと治すのは無理です!」

「いいんだ。診てくれて、ごほ、……助かるよ」

「とはいえこのままだと先輩が可哀想なので、わたしに出来ることはしてあげるね!」


 ティアレスのややがっしりとした首筋に両手を当てたアルが、目を瞑って少量の魔力を放出する。無色透明だというのに何故か人間には認知できる『霧らしきもの』『物質らしきもの』が、彼女の「【むむむ】……!」という唸り声と共に、分類不可能な魔法へと変換され──ティアレスを何らかの魔法が包み、そして魔法の展開が終了した。

 魔力放出を終えたアルの前で、ティアレスが呟く。


「なんだかすこし体が楽になった気がする……」

「魔法で感覚をちょびーっと鈍くしたのと、体が持ってる自分を治す力を応援してあげただけだよー。……今日はぐっすり眠るといいと思います先輩!」

「結局そういうことになるのか……」


 アルが言う通りの魔法を実行したおかげだろうか。ティアレスの声音は先ほどよりもだいぶ力を取り戻していた。とはいえ普段の明朗な笑い声が聞けない辺り弱っていることに変わりはないだろう。


「それじゃわたしは鶏さん達のお世話してくるねー! お大事に!」


 自身の仕事に戻るアルに二人は頭を下げる。そして静かになったダイニングで、ティアレスはよろよろと椅子から立ち上がった。

 ローロには次にティアレスが何を言うのか想像がついていた。


「仕方ないな……はは。ここにいては風邪をうつしてしまうから、森に引きこもるよ……」


 ほらやっぱり。


「だめですティアレスさま。風邪は引き始めが肝心なんです、体をしっかり休ませなければなりません。もちろんしっかりと休める場所で、です」

「だがなあローロ……──へくしょい!」

「病人の強がりほど無意味なものはありません」


 えぶえぶと咳とくしゃみで辛そうに顔を歪めるティアレスの手を、有無を言わせぬ口調でローロは引っ張っていく。

 次に目指したのは城内で使われていない客室の一つだ。ここ数か月アルが給仕として城内の掃除を担ってくれているおかげで、普段誰も使っていない部屋というのも手入れがされているのは僥倖だった。世界をメフィストフェレス条約で縛り支配する『国民なき国』に宿泊を要する客人など来ることはまず無いが、こういった時に役立つ。

 普段のアルからは想像もつかないほど丁寧な掃除がされている客室は、ベッドメイクも完璧だった。洗濯されたばかりのシーツの上にティアレスを寝かしつける。メイド服は脱がしてやった。


「いいですか。今日はここから出てはいけませんよ、ティアレスさま」

「う、うん。……なんだかベッドが柔らかすぎて落ち着かないな。床で寝てもいいか?」

「だめです」


 即答したローロは一旦客室を後にして、すぐ炊事場へ向かった。病人には病人食を食べさせてやって、あとはとにかく眠ってもらうしかない。

 細かく刻んだ野菜と共に麦を煮て、少量の塩で味付けした麦粥。あとで果物も持っていってやろう。食事の用意を終えたローロはそそくさと客室に戻っ──戻ろうとして。


「あらローロ。お腹すいてるの?」

「メフトさま」


 廊下で偶然出くわしたのは、この城の主であるメフトだった。今日も優雅に色艶の濃い黒髪をたなびかせて歩く彼女は、ローロを見つけた途端に悪戯っ子がするような悪い笑い方で近寄ってくる。彼女が見ているのは、ローロがお盆に乗せた湯気を立てる麦粥だ。


「いけない子。……でも私も書類仕事ばかりで疲れてて、少し何かつまみたかったの。よかったら一緒に食べてもいーい?」


 どうもおやつ代わりの軽食をこそこそ食べようとしている騎士──に思われているらしかった。


「あの。実はティアレスさまが風邪を引いたんです。これはティアレスさまのお食事です……」

「…………ティアレスが? 風邪を? 引いたの?」


 スタッカートに跳ね上がる声の調子は、それだけメフトの驚きを現していた。

 やがて女は笑みを消し、平淡な表情で腕を組む──さらりと肩に流れる黒髪を手で払う。


「それでローロが看病をしてるってわけ」

「はい」

「ふーん。そ」


 声音は、どこか冷え冷えとしたものが交りつつあった。ローロは突然メフトの態度が急変した理由が分からず素直に答えることしかできない。


「──私も行く」


 そしてそう言い放つと、ローロの隣に並んだ。よくわからない話の流れだが、ティアレスの様子を見たいということだろうか? 

 二人して廊下を歩く間メフトは一言も口を開かなかった。……どこか、彼女の横顔がむすっとしているような、いないような。

 とにもかくにもティアレスが横になっている客室に辿り着く。


「ティアレスさま。お食事をお持ちしました」


 ベッドの上でぐったりと目を瞑っていたティアレスが、その青い瞳を胡乱げにこちらへと向ける。──正確には、ローロの隣に。


「…………メフト、お前なんで付いてきてるんだ?」

「なによ。だめなの?」

「別に……」

「丁度メフトさまがいたので、ティアレスさまの件を伝えたら、自分も様子を見ると……」

「その言い方だとまるで私がティアレスを心配してるみたい」


 え、違うの? 

 客室の、何故か隅の方に椅子を置いてそこに座り込んだメフトは、何故かティアレスをじっと見つめている。


「私は弱ってるあなたを見に来ただけよ」

「……ふん。私もお前に見下ろされたくはないね」


 今一要領を得ない態度だが、まあいいか。ローロはトレーの上に乗せた麦粥入りの器と共に、ベッドの側にある椅子へ座った。


「はい、麦粥です。塩気があるといいと思ったので、ちょっと味付けしてあります」

「なんだか至れり尽くせりで悪いなあ。……うん、はは、なんか腹も空いてきた気がするぞ」

「『気がする』? 食欲なんかないって顔をしていたのに?」

「……では口を開けて下さい。はい、あーん」


 匙ですくった麦粥をそっとティアレスの口元へ寄せていく。横になったままの女は、風邪で赤くなっている顔を更に赤くしてみせた。首筋に大粒の汗が浮かびだす。


「あ、あーんて……やらないとだめかい? さすがに恥ずかしいぞ」

「やらないと駄目です。あーんしてください」

「ムムム……」


 病人が無駄な体力を使うべきではない。ローロの頑なな態度に唸っていたティアレスはやがて諦めたように、おずおずと口を開けて。


「あ……あーん」

「なーにティアレス、あなたそんな従順に口なんか開けて。雛鳥みたいね」


 謎に一々言葉を挟んでくるメフトに、ティアレスは毎回言い返す元気もないのだろう。というかローロがせっせと麦粥を運んでは食べさせているので喋る暇もない。やがて器の中身が空になったタイミングで、水差しからコップに注いだ水を飲ませてやる。ここまで来るとティアレスは何も言わずにされるがままだった。


「汗をかいているようですし、あとで蒸らしたタオルを持ってきますね」

「なっ、だめよそんなの。ローロがティアレスの体を拭くなんてダメ」


 急にメフトが椅子を蹴飛ばす勢いで立ちあがった。

 本当にどうしたのだろう、この人は。


「……メフトさま。さっきからどうしてしまったのですか? メフトさまがティアレスさまのお身体を拭きますか?」

「それは嫌」

「ふん。私もごめんだ」

「なによ。ローロにだったら喜んでやってもらうってわけ?」

「はン。お前だってもしそうなったら、顔を真っ赤にしてローロにそのほっそい背中を見せるくせに」

「な────」


 煽る言葉に、我を失った表情になるメフト。あ、とローロが彼女を制止するよりも早く。


「そんなわけないでしょ!!」


 つんざく叫び声。たまらず両耳を手で塞いだティアレスが、いよいよ我慢の限界だと口をめいっぱい開いた。


「──あーもーうるさい! 貴様の陰険な嫌味が頭に響くんだ、頼むから静かにしてくれ! そもそも薬を貰えれば森に引きこもるつもりだったんだ、貴様の嫌味ったらしい言葉なんか聞きたくないんだよこっちは!」

「な……なにそれ、自分が病床に伏せってるからってその立場を悪用するわけ?」

「ネチネチネチネチ! ケーチケチ! ネチネチ!」

「なにそれ私の鳴き声だって言いたいの!? ちゃんと言葉を喋りなさい!」

「うーうー!」

「うーうー言うのもやめなさい!」


 売り言葉に買い言葉とはこのことだ。

 うんざりした様子のティアレスが顔を真っ赤にしてぎゃあぎゃあ騒ぐと、それに釣られるようにメフトも声を大きいものに変えていく。普段ならばいつもの喧嘩が始まったなあと諦め半分に二人が落ち着くのを待つローロだったが、時と場合というものがあった。


「メフトさま」


 その、尖りはなく滑らかな少女の声音に、二人の口論がぴたりと止まる。

 一年以上の付き合いになる女達にはすぐにわかったのだ。ローロが滅多に見せない怒りの感情を、その声に織り交ぜていることを。そして少女の目線は真っすぐにメフトへと向いていた。


「な……なーに?」

「今すぐ部屋から出ていってください。病人に悪影響です」

「……………………はい」





 ◇





 さて夕暮れ時。そろそろ陽も沈もうかという頃合い。

 いつ何があってもいいようにとティアレスが眠る客室に残り編み物をしていたローロは、ベッドで寝息を立てていた女が身じろぎするのに気付いて顔を上げた。

 もぞもぞと体を動かしていたティアレスが、一度強く目を瞑ってから、明確に瞼を押し上げる。そしてその青い瞳できょろきょろと辺りを伺い、少し離れた位置にいたローロを捉えた。

 涼し気な目元が、ふと気恥ずかし気に笑んだ。


「けっこう眠ってた気がする」

「三時間くらいです。お身体はどうですか?」

「ああ。なんだか眠ったら随分楽になったよ。……とはいえ」


 上体を起こしたティアレスの体に、肌着のタンクトップがぺたりと汗で張り付いている。


「お湯とタオルを持ってきます。体を拭きますね」

「すまない、助かる」


 ティアレスの声音には随分活力が戻っていた。アルの魔法のおかげか、はたまたティアレス自身の再生力がなせる技か。

 ローロが炊事場で湯を沸かして、清潔で柔らかいタオルと共に部屋へ戻ると、女はぼんやりと客室の窓から見える夕焼けを眺めていた。普段は後頭部で子犬の尻尾のように一つに結ばれている金髪も、今はすとんと下ろされている。

 なんだか新鮮だ。


「一年くらい前にもこんなことがあったな」


 ベッドの縁に移動したティアレスの背中に回り、タンクトップを脱いだ女の背中をローロは湯に浸したタオルで拭いていく。そこには幾つかの古傷があり、そして無駄な脂肪というものが一切皮膚の下になかった。彫像じみた美しい背中はそれだけティアレスの力強さを物語る。

 世界最高峰の強化型魔法使い、ティアレス・ティアラ・ホルル。彼女はその強さ以上に、その在り方が剣として完成されていて、いつもローロはティアレスのようになりたいと思っている。ローロにとってティアレスは理想の騎士だ。

 そんな理想の騎士さまも、風邪を引く時があるのだ。


「……城で暮らしませんか」


 つい、ローロはそんな提案をしていた。しっかりとした筋肉で覆われた彼女の右腕を持ち上げ拭きつつの言葉に、ぴくりとティアレスの頬が揺れる。


「悪いがそれは御免被るよ」


 そしてにべもなく首を振ってみせた。


「……それはやはり、メフトさまがいるからですか?」

「ああ。今日のメフトの態度を見たろう? 逆の事が起きたとして、私も同じことをするだろうね」


 なぜああまでメフトがティアレスに食って掛かったのかは、正直ローロには分からない。分からないが、二人は顔をつき合わせるとすぐに口論に発展してしまう仲だった。喧嘩するほど仲が良い──という言葉の領域を超えて、喧嘩するほど仲が悪い、だ。


「今、私達は奇跡的に釣り合いがとれているんだ。あまり多くを望みすぎてはいけない」


 背中やティアレスが自身で拭きづらい部分を綺麗にし終えると、顔を巡らせた女が手を差し出す。タオルを手渡し、彼女が満足するまで自由にさせた。

 着替えに袖を通したティアレスにローロは静かに言う。


「今日は泊っていってください」

「そうだな。ここはローロの言う通りにするよ」

「それがいいと思います。……何か必要なものはありますか? 果物なら林檎がありますよ」

「いい、いい。明日の朝までまた眠って、風呂に入って、そしたらきっと体調も戻っているさ。森に戻るよ」


 恐らく自身の体が快復に向かっているのが分かるのだろう。ティアレスが普段通りの声音をするので、ローロもそれ以上の介抱は止めておいた。


「ローロ。今日はありがとう」

「いいえ。これくらい当然です」


 水差しだけ客室に置いて、部屋を後にした。



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