「もぞもぞむずむず……」


 その後ローロは細々とした自分事に時間を使った。ティアレスの介抱に時間を割いたおかげでメフトやアルとの夕食は食べれていない。炊事場に行くと、ローロの分の食事──パンとスープ、焼いたソーセージが置かれていた。きっとメフトとアルが気を利かせてくれたのだ。ありがたく夕食を終え、風呂場で体を清め、自室に戻れば髪の手入れにじっくりと時間をかける。

 そこまで済ませればもう夜の十時を過ぎていた。普段のローロならばベッドで横になり、【シナプス代替魔法】群を──つまり私を非稼働状態に移行させる頃合いだ。

 自室のベッドを見つめる。

 灯りもない暗闇の中では、丁寧に整えられたベッドシーツはどこか調度品のようにも見える。


 ・──『今日は』『なんだか……』


 そうだね。一人で眠りたい気分じゃない。

 寝る前に少し話をしたい人がいる。

 ローロは立ち上がり、枕を手に持ち部屋を出る。客室のアルを起こさないよう注意しながら(なぜ気を付ける必要があるのか自分でもよくわからない)、足音を忍ばせて向かう先は隣室。王の私室だ。

 扉を数度叩くと、ゆっくりとドアノブが回った。キィ────という軋む音は室内の人間が発する警戒を露わにするようで。


「メフトさま。今日は一緒に寝たいです」

「ろ、ローロ」


 薄手の長衣一枚という普段通りの寝間着姿をした城主が、驚いたように目を丸くしていた。


「だめですか?」

「別に……断ったりなんかしないけど」


 言いつつ扉を開けるメフトに続いてローロは室内に入る。メフトの私室は、窓の傍に置かれた丸い机に複数枚の書類が乱積していた。このところ『議国』との戦後処理に追われ書簡のやり取りばかりをしているのだ。


「てっきり今日は来ないものかと……」


 開け放したカーテンの先には、濃い黒色をした夜闇が広がっている。それを眺めつつベッドの縁に腰掛けたメフトがおもむろに言った。


「……ティアレスは元気になったみたいね」

「はい。アルの魔法も効果があったみたいです」

「そ」


 大した情も乗っていない相槌。メフトの隣に腰かけても、彼女はこちらを見ようとしない。

 メフトは夜空を見つめ続ける時がある。何かを探すみたいに。

 今日は雲が広がっているから月明かりは部屋まで届くことがなかった。曖昧な輪郭をしたメフトの横顔はしかし、すっきりとした顔立ちと生白い肌色が浮かび上がるようだった。


「ローロはティアレスのことになるとすごく真剣になる」

「ティアレスさまは私の理想の騎士さまですから」


 これもまた、唐突にメフトが言う。さして悩むこともなく言葉を返すと、メフトは、途端に。


「……ふーん。へー。そ」


 ごろりと。

 そのままベッドに倒れ込んだ。脱力するみたいな動きのまま、彼女は体を回し、足を畳む。──こちらに背を向ける格好で。


「そうよね。ティアレスはローロの『理想の騎士』でしょうね。大事に決まってる」

「?」

「対し私はいちいちネチネチ言わないと気がすまない陰険で嫌味で口の悪い女ってわけ」

「メフトさま? 急にどうしたのですか?」

「つーん」


 ……。

 今『つーん』と口に出して発音したのだろうか。

 

「メフトさま」

「つーん」


 これは本当にどういう状態だ。一体。

 メフトがこれまでにないほどに理解不能な形態になってしまっている……。


「あの、私が何か粗相をしたのなら謝ります。ですからせめていつものメフトさまに戻ってほしいです」

「……冗談よ」


 そうは言うが、メフトは背を向けて丸くなったままだ。焼く前にパンみたいにもちもちした丸まり方。彼女のつるんとした素敵な黒髪はどこかいつもの色艶がない。

 というか、こんな風にそっぽを向いてしまったメフトを見るのは初めてだ。

 ローロが何を言うべきか迷っていると、


「…………ごめんなさい。冗談のつもりでいたかったけどやっぱり複雑」


 ようやく彼女が体の向きを戻す。仰向けになったメフトはその薄くて細い体をのろのろと動かした。片腕で目元を覆い、はあ……と重い溜息をつく。


「ローロがティアレスを甲斐甲斐しく世話するのを見てると、……というか世話をしてると知った時点でとてつもなく面白くなかった」


 どう考えても話題は今日の日中、ティアレスの看病をしていた時の騒動についてだ。メフトは正直に自身の心情を吐露してくれている。

 ローロも、ローロなりの分析を持ってメフトに訊いた。


「ひょっとして、拗ねてたんですか? 私がティアレスさまの看病をしたことが不満で?」

「…………………………………………」


 沈黙。

 メフトは目元を隠したまま微動だにしない。

 1秒のようにも5秒のようにも1分のようにも10分のようにも1時間のようにも感じられるほど、極めて長い、押し黙ってしまったメフトの言葉を待つ時間。

 だけど。

 とくとくと鼓動を高めて主張し始めた自身の緊張が、不思議と不快ではないことが、ローロには奇妙に思えて。

 誤魔化すように言葉を重ねる気になれなかった。

 メフトの。自身の主君の言葉を待ちたかった。──どこかで期待している、小さな頷きを。いやでもまさか。そんなはずは。メフトは城主であり、主君であり、女王であり、魔王で、それで、それで。


「ええ、拗ねてた」

「…………」


 な。

 なにを言えば、いいだろうか。

 私の主君メフトさまが、私のことで拗ねているなんて! 


「だけど迷惑をかけて申し訳なく思ってるのも本当のことよ。あんなにティアレスと口論する気はなかったの。……いつもそう。感情の制御が効かない獣みたいで嫌になる」


 くすりとメフトは口端を鋭く歪める。夜の闇を従えるほどに濃い黒の瞳が隠されているだけで、表情の意図は読めなくなってしまう。


「幻滅した?」

「……複雑なものを感じます」


 これは推測になるが、メフトは拗ねているのと同時に、落ち込んでもいるのだろう。それは彼女の弁明じみた言葉の節々から現れている。

 そんなメフトに何を感じているのかと問われれば、──ローロは首を横に振る他ない。

 一言で言い表せる情動ではなかった。


「メフトさまはいつも聡明でしっかりとしていて、だけどティアレスさまが関わると途端に人が変わる所があります。意地を張り合おうとするというか。私の知ってるメフトさまとはあまりに違うので、戸惑います」

「そうね。うん、そうだと思う」

「それに、その」


 そこから続く言葉を発するのは、少しだけ時間を要した。「?」と目元を覆う腕を少しずらしたメフトの視線に気づいてしまい、慌てて俯く視線。

 もぞもぞと重ね、揺らし、絡ませる両手の指の動きに意味はない。──考えがまとまらず悩んでいることから来る仕草ではなく、自分の中でほぼ確定的になっている事実を口に出すことが、少し、躊躇われてしまうだけだ。

 けれど聞いてみたいという欲求の方がローロ・ワンの中では強かった。

 小さな勇気をもって隣のメフトへと目線を動かす。

 視界の中心にとらえた彼女はいつも通り、病的なまでに白い肌が、闇に溶けることなく美しい。


「嫉妬……してくれている……でいいんですよね」

「し、嫉妬……」


 ──言った。言ってしまった! 

 身も蓋もない表現にメフトでさえ言葉を失っている。が、それでもローロ・ワンが見つめ続けていることに気づくと、──途端に。


「そー、なんじゃないの?」


 メフトの白い頬は急に赤みを帯びた。突然色づいた朱色はそれだけでローロの頬を柔らかく緩ませてしまう。


「嫉妬されていると分かった途端、どうしてか胸の奥あたりがもぞもぞむずむずします」

「もぞもぞむずむず……」

「だけど同時に、メフトさまがそんなに私を思ってくれているんだなぁとわかって、嬉しいのです」

「……そ、そう。嬉しいんだ」


 頷いて。コクコクとまた頷いて。そうしてから、なぜかメフトはまた体の向きを変えてしまった。ほっそりとした体のラインが浮き彫りになる。


「嬉しいのね、ローロは。私が嫉妬すると」

「複雑で、自分でもよくわかりません……」

「ふーん?」


 細い背中だ。ティアレスのそれとは違い、多くを持たない背筋。丸まっていることで浮彫になる脊椎の隆起と並び。薄い脂肪と筋肉とが滑らかに覆う、ローロの相応に短い両腕でもぐるりと回せる細い、細すぎる腰。

 だってお尻の丸みより寛骨による凹凸とくびれの滑らかさにばかり目が行くのだ。

 それがどうしてこんなにも蠱惑的に映るのか。触りたくなる欲求は非常に生理的で根源的なもので、堪える代わりにローロはメフトが普段浮かべる柔らかな笑みを思い出す。それで『何か』を我慢する。


「でもメフトさまにはいつも笑っていてほしいです。私はメフトさまの笑顔が好きです」

「……」


 突然、ぴたりとメフトの動きが止まった。かと思うと唐突に体を起こし、振り向きざまに。


「──女たらし」

「ええっ。え、どういう……」


 いきなりとんでもない言葉を吐かれる。それも、初めて見る半眼の目つきで睨まれながら。ともすれば上目遣いのようにも見える俯き加減で言われた言葉に戸惑いを隠せないでいると、メフトはいつの間にか笑っていた。頬を赤くしたまま。


「でもそうやっていつも自分に正直でいるのが、ローロのいいところなんだと思う」

「は。はあ」

「……ローロはいつも真っすぐで、真っ直ぐすぎて、時折私には眩しい時がある。私もね、あなたのそういうところにすごく複雑な気持ちを覚えてしまうの。なぜってローロは誰にだって真っ直ぐだから」


 でも。

 うん、そーね。


「二人して色々考え込んで、正直に話し合って、複雑なものを複雑だと共有できるこの時間は……」


 笑顔は、頬に差す朱色で増したように華やかだ。

 くっきりと弧を描いた双眸、長いまつ毛、丁寧な歯並びでその白さを際立たせる口元の半月、潤んだ……柔らかそうな唇。

 どのような時でも忘れられない笑顔が今、目の前にある。


「なんだかとても心地いい。そう思えない?」

「……はい。私もです、メフトさま」


 自然と頷けば、メフトもどこかすっきりとした様子で頷き返す。

 そのうち、どちらからともなく同じベッドの中で横になった。共に並べた枕の中で、メフトが言う。


「そろそろ寝ましょう?」

「はい。……あの、今日お話しできてよかったです」

「私もよ」


 やがて目を瞑る主君にならって、ローロも目を閉じた。

 一人きりの闇の中で、だけど隣から聞こえ始めた小さな寝息がひたすらに充足感を与えてくれる。

 ローロ・ワンは、非稼働状態へ移行し──そのまま眠りに就いた。


「──くちゅんっ」



 ◇




「くちゅんっ、くちゅっ、くちゅんっ」

「メフトさま、替えのタオルです」

「あ……ありがとう、ローロ……」


 王の私室。ベッドにてぐったりと横になるメフトの額に、そのつるりとした額に濡らしたタオルをそっと置くローロ。献身的な看病に病人のメフトが弱々しく笑っていた。

 二人きりの夜を過ごしてから数日後、メフトの体調は悪化していた。咳、明らかな体温の上昇、くしゃみ、食欲不振……何ならティアレスの風邪よりも症状は重く、ローロはかかりきりになって世話をしている。


「絶対にティアレスの風邪が移ったのよ……」

「……ひょっとすると私を経由したのかもしれません」


 どうかしらね、とグロッキー気味な目線を寄こすだけで答えるメフトに、ローロは申し訳なさを感じてしまう。

 あり得ない話ではないのだ。

 ティアレスの風邪をローロ・ワンが経由し、メフトに感染してしまったという仮説は。

 ローロは、ローロ・ワンという肉体は、その主たる制御を【シナプス代替魔法】群による判断機能が司っている。生体ユニットであるところの生体脳スレーブと魔法ユニットである主制御セカンダリが密接な関係にあるとはいえ、生体が受け持つ判断機能と魔法として受け持つ判断機能はそれぞれ独立している。つまり、極論を言ってしまえば、『ローロ・ワン』という存在は自身の肉体的問題の一切を無視して魔法的判断機能のみで制御可能なのだ。


 ・──『言われてみると』『体がだるい気もする』


 私は私を構成する生体部分……自身の肉体的状態に、少し鈍感なところがある。

 簡単に禁術の代償に肉体を消費してしまえるのも、そういった生体由来で受け持つ動物的本能が──自己損傷への忌避念慮が極めて薄いせいかもしれない。

 と。

 唐突に扉が開け放たれる。


「──ハハハハ! おいおい聞いたぞメフトォ!」


 そこには完全回復を果たしたメイド服姿の女が哄笑と共に立っていた。『国民なき国』に住む四人の中で最も背の高いティアレスは、漲る活力で背筋をまっすぐ伸ばしつつ、ずんずんと足音を鳴らしメフトの傍に立つ。……実に嬉しそうな顔をしていた。


「私の風邪が! うつった! らしいな!」

「う、うるさい……頭にガンガン響く……」

「くくく私の苦しみが分かるだろう。いい気味だなあ、ええ?」


 先日の恨みを晴らす心積もりなのだろう。青い顔で押し黙る他ないメフトを見てこの上ないほどティアレスは上機嫌だった。


「よーし今日はここで酒盛りでもしようかな! 祝いだ祝い、宴会をやるぞーっ!」

「く、クソ女……後で覚えておきなさい……」


 その場で小躍りまで始めだしたティアレスにいよいよローロは我慢の限界である。


「ティアレスさま」

「な、なんだいローロ。そんな真顔をして」

「宴会をされるというなら私も見せたい芸があります」

「おおっ、ローロの芸かい? ややっ、楽しみだなあ何を見せてくれるんだい!」

「歌です。ティアレスさまが感動のあまり部屋を飛び出すような歌です」

「歌か……。ん? 歌?」

「それでは聞いてください。ローロ・ワンで、お歌。『わったしがー、りーそ」

「わかった出てく! 出ていくからその歌はやめろ────ッ!!!!

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