「私はおまえ達のことが嫌いだし、憎んでいるし、決して愛することはない」
ローロ。
ローロ・ワン。
君は君の母親がついに受肉し再誕したことを、浮上しつつあった意識の中で把握した。そして母親が……マギアニクス・ファウストがその場の全員を殺そうとしていることまで理解が及んだ瞬間、君は決めたのだろう。
母を殺すと。
「【
だから君は即座に【質量転換】を発動し、考えうる限り最大規模の魔力を放出するために大量の代償と、極小の消費時間を設定した。そして君はその類稀な魔力操作技術を用いて、0.000000001秒の間に何をすべきか決めている。莫大な魔力をどのように使えば母を超えられるかを知っているのだ。【MOS】という絶対的な指標を君は持っていたから。
そう。
演算能力の増設だ。
君はだから【シナプス代替魔法】を増やして増やして増やして増やして、とにかくとにかく増やしまくった。人体の想像を超えるほどの魔力操作技術がそれを叶えた。
──そうして0.0000000003秒後には膨れ上がった判断機能によって、君は知ったはずだ。
ここには感情さえ獲得した魔法創造型魔法が四つあることを。
一つはメフト。
二つはマギア。
三つは君、ローロ。
そして、四つは、君とも違う極めて異質な演算機構……メルツェル。
君は0.0000000005秒間、私という存在を『見た』。
私がメフトの背後に存在し続ける意味を『知った』。
そして──肉体が動ける時間流ではないにしろ、『視線を母へと向けた』。
0.0000000008秒──【シナプス代替魔法】群はその数を数量の概念が崩壊するほどまで爆増させる。
その時ローロ・ワンが得た【シナプス代替魔法】──つまるところ魔法脳の容量は超銀河団全域を三次元的に満たすほどであり、更には魔力という量子的振る舞いを見せる異次元存在により成立する次元輻輳型積層論理回路群は三次元的物質的干渉を無視することが可能であった。それは条件に応じた反応分岐に依った知性の基盤……論理回路としては極めて異質なもの。一、という入力に対し二もしくは三と出力を返すだけでなく、零も十も百も千も万も億も兆も返すということ。
そんな思考の基盤を君は超銀河団級のスケールで用意し終えた。
──その瞬間。
端的に言えば、君は人間という知能の枠組みを越えた。
私と同じ領域に立ち、しかし私のように情動を失ってはいない者。
瞬間的かつ時限式にとはいえ、その知性は三次元的物質の領域にはなかった。
それは史上2度目となる技術的特異点の発現。
超知能……人を超え、凡そ物理の極点さえも貫徹した者。
私達のようなものは【メフト】や【マギア】のような魔法創造型魔法という区分にさえ納まらない。
有り体な言葉でしかないが──ようこそ、神域到達魔法【ローロ・ワン】よ。
光さえ14.5cmしか進行を許されない極限だったとしても。
第二の神ローロ・ワンは、0.0000000005秒のみ降臨した。
しかし神域に到達できた者にとっては世界の創造すら容易い一滴の時砂だ。──奇跡の御業を振るうには十分すぎる。
ローロ・ワンはその超越的知性によって手繰られる魔力を用い、未だメフトの腹部に突き刺さったままある剣の物質構成を、その柄を握る手に僅かも力を込めることなくすべて原子に分解し即座に作り変える。
見た目に変化はさほどない。
どこにでもあるような、しかし凄まじい切れ味を秘めていると分かる剣としか許容できない。
構成物質がこの世のどこにも存在しないものであることを除けば。
剣の形をした、私でさえ全容を把握しきれないソレ。君は0.0000000001秒を使ってメフトの腹部から剣を引き抜いた。
【終の棲家に沈む薪】
【星まで届く腕の熱】
【天蓋満たす盃の潮】
【奥には落ち行く青】
君は歩く。
歌いながら。
言語でなく。音階でなく。
粒子の波動でもない、純粋な魔力の振幅で。
【なぜ憎むのか──なぜそこに道があるのか】
【なぜ赦さないのか──なぜ祈りの壁は高いのか】
私には理解ができた。
少女が紡ぐ言葉の全ては私に対してのものなのだと。
こうしてメフトの背後より全てを観測する私の前で、君は歩きながら歌っている。
【答えを、得た気がする】
光でさえ一歩も進めない領域で、しかし君は既に3mを歩いている。悠々と。
物質であるところの君が光を超えた速度を発揮し、重力や時空間、周辺質量への影響の一切を抑制している事実。私でさえ理解の及ばぬまさに神域。
光速を、
【私はいつかあなたを超えていく。超えられると思う】
【光を断つよ、メルツェル・カルテル】
親指と人差し指と中指しかない右手が強く、剣を握り。
剣が寄こす反応はたった一つ。
【──
既存のありとあらゆる物質からかけ離れた新物質の剣は、その構造を大いに変貌させていく。
姿こそ変わらないものの、私には理解が出来た。
……アレは、究極の願望成就機構だ。
【──
ローロ・ワンという時限式の神は、その権能を世界創造や宇宙破壊といった根源的な事象に発揮しようとはしなかった。あくまで肉体を代償にしなければ神域到達魔法としての本領を発揮できない君は理解しているのだ。神に至れる回数は限られていることを──捨てられる肉体、自身が内包する質量の限度があるから。
だから君は時限式の膨大な魔力に頼らない力を選んだ。
魔力などという不安定な性質の存在で象るのではなく、より安定した物質として固定し、
【──
それは創造主の願いを代行してありとあらゆる形を寿ぐだろう。
それは創造主の祈りに応じて示すべき結果への道程となるだろう。
それは創造主の意思を具現するため最適解を今ここに呼び下ろす。
破壊という、絶対的性質制限の中で。
【私は永遠を望まない。
私は終末を望まない。
私は虚無を望まない】
通りでこの世のどこにも存在しないはずだ。
物質ではないはずの魔力を、そのまま物質化させるとは──。
【私はただ今ここにある最善の末に、より良い未来を求めるだけ】
万物万象を破壊し尽くす領域に至った魔法こそを【終末魔法】と呼ぶ。であればローロが手に持つ実体剣はまごうことなき終末の具現であろう。
あってはならない理外の法則を、それによる悲嘆のすべてを、ローロ・ワンは拒絶する。
今はただ、打ち克つべき母を超えるための剣として。
破断を――光さえ、割断を願う。
◇
【終末魔法第四被展開体、“
◇
魔法殺しの域を超えた、魔力殺しの剣はこのようにして叩き落される。
時が物理の世界でようやく進みを始めていったとき、既にマギアニクス・ファウストの肉体は真っ二つに切断されていた。
あまりにも鮮やかに。
あまりにもあっけなく。
しかし。
「ああ……そんな……」
声音は、頭蓋も脳漿も脊髄も心臓も臓腑も二等分にされたばかりの死体から。
新鮮な血を切断面から零していたはずのマギアは瞬きの後には傷の全てが塞がっている。
肉体の損壊など、魔法創造型魔法であるところのマギアには些事ですらない、ということ。それはたった今、終末魔法を剣として具現させたローロでさえ理解している。ローロ・ワンの狙いは母の肉体を切断することにはなかった。
「魔力が…………失われていく……」
マギアの右手に浮かんでいた小さな恒星とでも呼ぶべき莫大な発光体は急激に萎み、やがて溶け消えていった。美しい肢体のすべてから溢れ出ていた無限の魔力も同じように出力を落としていき──やがては人並みの魔力しか吐き出せなくなる。
「一撃で──私を構成する魔法群が、大部分破壊されちゃった……? 【
せいぜいが半径3m程度の魔力放出にまで落ち込んだ状態に、当のマギアは眼前の娘など放ってぶつぶつと呟きだした。
「いまので母さんの構成回路は理解した。次の一撃で必ず
対するローロは残身を解くと、情動の乗らない顔で自身の母を見上げる。
頭ひとつ分は高いところにあるマギアの淡紫色をした瞳を。──隻腕で、剣の切っ先を向けながら。
「この剣は私の意思を叶える剣。今は母さんを殺すことに特化させた剣になってる」
「二撃確殺というわけね。ローロあなた、瞬間的にメルツェルと並んだんでしょう?」
問いかけにローロは別の言葉を返した。
「…………頭の中が透き通ってるみたい。悲しみも苦しみも。確かにあったはずの絶望も、いまはどこにもないんだ」
既にローロ・ワンの左腕は根元から消失していた。あまりにも綺麗な切断面は、いっそのこと細胞壁にはなんら傷ついていないのではないかと思わせるほどに直線的。出血が一切ないのは瞬間的な魔力放出の最中に傷跡を塞いでしまったからだろう。同様の処置が、小指と薬指を捨てた右手にも──靴で隠れてはいるが、左足の三指にも施されている。
「ロー……ロ……」
呆然とした声音は、腹部を刺し貫いていた剣を失い、支えをなくしたように身動きが取れないでいるメフトのもの。
彼女の声音が指し示すローロの代償行為に、母娘は取り合わない。
二人は静かに同じ色の瞳を交わし合うだけだ。まつ毛の長さから眦の形まで似通った眼差しで。
「母さん。心って、こんな簡単になにもかもなくなるんだね」
「……闘争と紐ついた憎悪は、人間の根源的な力だもの」
背中の中ほどまではあったはずの銀髪を、娘は既に肩口以下の短さにまで失っている。ティアレスとの戦闘で更地になった屋敷跡に吹く風はだから少女を何一つ揺らさないが、代わりといったようにその母親の艶めいて豊かな銀髪は優雅に躍らせた。
たった今、自身でも認識できない神速で叩き斬られたというのに、マギアはさして焦ることもなく嫣然と笑って見せた。
「ローロ。私のかわいいローロ。ねえ、メフトのこと、好き?」
そして唐突に……本当に唐突に、そんなことを訊いた。
ローロは逡巡のひとつも見せずに頷く。
「うん。大好き」
「そう。よかった」
笑みの質は変わらぬままに、マギアはうっとりと紡ぐ。
「──ならおまえは必ずメフトを殺すわ」
「……」
言葉の意味を測りかねるように、娘は母の瞳を見つめた。その真意を探るような上目遣いに、まさしく我が子にものを教える表情をしたマギアは指を振ってみせる。
「心の底からメフトがおまえを愛するようになった時、おまえはメフトを殺さなければならなくなるの」
「心の底から?」
「メフトはねえ、義務感や責任感からおまえを愛しているだけよ。不思議に思ったでしょう? おまえが演算型魔法を見せた時から異様なほどおまえに優しくなったことを」
確かにそれはローロが出会った頃からメフトに対し抱えていた疑問の一つだった。
母親はその理由に見当がつくという。
「今度聞いてみたら? しょうもない理由がわかるから」
「今度……」
「ええ」
「母さんはもうメフトさまを殺すつもりはないの?」
「いいえ? 最期にはくたばってほしいけど、でもそれは私がすべきことじゃない」
壮絶な殺意を純粋な結晶にまで昇華させた
分かっているのだ。
双方が、双方を疎んでいると。今すぐ消え去ってほしいと。
血の繋がりがもたらした形など既に破壊されている。
「私はねえ、ローロ。おまえに、おまえ自身の意志によってメフトを殺させたいの。
──だってそっちのほうがメフトは苦しむでしょう?」
およそ愛などない言葉を。
自身の娘を生命以下の有機物としか見ていない事実を。
ローロ同様に尖りのない滑らかな声音でマギアは紡ぐ。
「だから今ここで、私の手でメフトを殺すことは簡単だけれども。それはしないでいてあげる」
「そんなことさせない。絶対にもう母さんの好き勝手にはさせない」
「あら。無限の魔力を潰した程度で私に勝ったつもりでいるの? 私が13年かけておまえに刻みつけた呪いはまだまだあるのよ?」
「……」
剣を向けられたマギアが何の恐れもなく口に出した事実は、ローロが、マギアを一撃で殺せたというのに殺さなかった事そのものを端的に表していた。
ローロ・ワンの右手に握られる神域の剣──“理外無効”は少女が抱いた願いを叶えるための形を自動的に象る。
望むなら一振りで宇宙を割断するだろう。
望むなら世界をもう一度やり直すことも許すだろう。
神がその全能性を用いて唯一生み出した、理外にあって理外を拒絶するもの。──マギアニクス・ファウスト一体を殺すことなど造作もないというのに、しかし一撃目は
つまりは、マギアニクス・ファウスト殺害を条件に発動する何らかの『呪い』をローロは危惧したのだ。
「…………私はたぶん、今、母さんを殺したくないんだと思う。今はただ、メフトさまやティアレスさまや、アルの傍にいたい」
「あらいいじゃない。なら私が叶えてあげる」
究極無比の剣を持つローロを前に、しかしそれでも優位を保つのは呪いを吐き続ける母親の方だった。
女は言う。
毒を言葉にする。
「二年間、この世界を保ってあげる。
その間存分に愛を育むといいわ」
言い換えるなら、彼女は
「二年。……長いようで……短いな……」
ローロの背後。呻きを漏らしながらも、気丈な声で疑問を口にしたのはティアレスだ。
「期限を過ぎたら、何をするつもりだ」
「ローロ・ワンの人格を完全に破壊する。その上でメフトをその肉体に殺させるのよ」
うーん。そうねえ。それくらいだとあまり本気になれないかしら?
「メフトが死んだらこんな星、もういらないでしょ? ついでに星ごと燃やしてしまうというのはどうかしら?」
言って、マギアは魔力を解き放つ。
──僅か半径3mという凡人の魔力総量であっても、魔法創造型魔法【
そうして女が遥か頭上の虚空に生み出したのは、一際小さな、ひと粒の光。
「これ、反物質って言うんだけどね」
マギアの意思によって光の粒は空へと飛ぶ。
高く──遠く────。
そして。
「安心しなさい。
魔力総量なんて関係なしに皆殺しにしてあげるから。
赤ちゃんも母親も男も女も老いも若いも関係なく、すべて狂い燃えながら死ねばいいのよ」
────空のすべてが、紅蓮の輝きで満たされた。
爆音。轟音。燃焼とその衝撃が世界規模で解き放たれ、大地のすべては打ち震える。
「……解き放たれた熱量の全てが、今の光の粒ひとつで……? こんなものを自由に生み出せるなら、星のすべてを焼くのも不可能ではないか……」
「いいかいローロ」
無限性を、腹を痛めて産んだ娘によって拒絶され。
味方と呼べる者は誰一人居なくても。
研ぎ澄ました復讐の念だけで生きる悪感情の塊として。
「おまえはメフトを愛して愛して愛して愛して、はしたなく狂いながら殺すのよ。おまえは、ローロ・ワンは、そのために作られたんだからね」
マギアは嗤う。
色めく、うつくしい唇を丁寧に丁寧に丁寧に歪め上げて。
「じゃあねメフト、ローロ。おまえ達の城、一年半だけ借りるから。
いつでも殺しにきなさいな。
いつでも殺してあげるから」
とん、とマギアが地を軽く蹴る。その勢いで僅かに浮いた女の体は、そのままに地から離れていく。
重力を無視した動きと共にマギアは笑みをさらに濃く、深く。
「私はおまえ達のことが嫌いだし、憎んでいるし、決して愛することはない」
雨雲を全て吹き飛ばした反物質の爆発によって、天には青ばかりが広がっている。
無限の蒼穹を背に、爽やかな影の内にて女は言葉を残した。
「おまえなんて産みたくはなかったのよ。
──死産で、よかったのにね」
そしてローロ・ワンの母親は哄笑と共に姿を消した。
複数の魔法による高速飛翔。既に影すら点ほどに微か。
果てしなく青い空の先に、どうしようもない憎悪だけが満ち満ちている。
「どれだけこの感情が作り物で……」
声音に震えはなかった。
情動の揺れる隙間さえないほどに少女の心は波打つべきものを失っていた。
「私が生きている理由が母さんの復讐装置でしかなくても」
剣が、その切っ先を下ろす。
ただただ立ち尽くす彼女の瞳にあるのはひたすらの静寂だけ。
「私は……」
枯れた淡い紫の瞳が、言葉の続きを呑み込ませる。
──疲れたと目を瞑った。
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