「痛みはメフトさまと出会えた証ですから」




 大喧嘩をして別れたきり会ってない友人のことがふと気になって、だからティアレスには『ちょっとした用事でしばらく戻りません』なんて書置きを残した。

 旅──と呼べるほどの時間をかけずに彼女が住む屋敷へと向かったのを覚えている。空中を高速で飛翔した。当時の自分にはまだ、時間をかけて道程を楽しむ情緒がなかったから。

 そうして屋敷について、まず真っ先に荒れ放題な庭に驚いた。あれだけ花を愛で、庭中を花畑で満たしていたマギアの園芸趣味はどこへいってしまったのだろう? そう思いながら屋敷の扉を開けた。扉を叩いて来客を知らせるだとか、そんな気遣いを持っていなかった。

 なにせこの屋敷は、マギアの生まれた家であり、メフトという女が生まれた家でもあるのだから。

 屋敷へ入り、友人はどこだろうと屋内を歩く。

 ふと──耳に響いた物音。

 リビングだ。


「マギアー、様子を見に来たわよー」


 声を上げながら廊下を歩く。物音は徐々に徐々に強くなっていく。次第に鮮明になる物音に奇妙な違和感を覚えた。

 ……まるで、硬く絞った雑巾を、更にきつく絞めあげるみたいな。

 きつく。

 きつく。

 きつく。

 引き絞る。力を込める。生々しい何かを締め付ける、そういう音で──。


「マギア?」


 扉を開けて、見た。それを。

 テーブルから転げ落ちたグラス。零れ、床を汚す酒の赤。蹴飛ばしたように倒れた椅子。

 床に押し付けられるように倒れる幼子。

 伸し掛かる、大の女。長い銀髪が覆う背中。

 ありとあらゆる力を込めて突っ張った肘、腕、怒る両肩。

 少女の首に掛かる、女の細くて長い指──



 ぎり ぎり ぎり ぎり



 自身の娘を全身全霊で絞め殺そうとするマギアニクス・ファウストの背中に、メフトは咄嗟に攻性魔法を放っていた。

 殺傷性の薄い、せいぜいが人を吹き飛ばす程度の威力をした砲弾型魔法。

 呆気なく吹き飛んだ女が上げる悲鳴。それと同じくらいメフトは大きく口を開いて──。

 …………今では考えられないほど無神経なことを、言った。




 ◇





「──」


 瞼が瞬間的に押し上げられる。全身を使って呼吸をした。早鐘を打つ心臓の重みに釣られて、腹部から焼け付くような痛み。体中に嫌な汗が張り付いていた。


「…………夢か」


 見慣れない天井の形に、ここが五年以上生活していた廃城でないことを理解する。一夜の宿のつもりで寝泊まりした、アル・ルールの実家だ。……寝室か。

 ローロがマギアに乗っ取られて、ティアレスとアルが命を賭けてマギアをローロから切り離して、受肉したマギアが……ローロに切られて……マギアが撤退して……。

 それから自分は、どうやら気絶してしまったようだ、とメフトは今の状態を把握した。あの場で五体満足だった者といえばアルだから、彼女が三人を連れてきたのだろう。視線をつい、と窓へと寄せて──そこで全身が硬直した。


「ろー。ろ」


 少女がいた。ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけ、そのまま俯きがちに目を瞑っている少女が。

 出会った当初は身長を超すほどに長かった髪。美しい銀髪。だが今では肩口以下の短さまで減ってしまっていた。随分と軽やかになって、その人形めいた精緻な造りの顔立ちもあいまってどこか中性的にも見えるローロ・ワン。

 恐らく眠っているのだろう。規則的なすうすうという寝息に、体中を侵す強張りが僅かに緩み、メフトは片腕をそっと少女へと伸ばそうとして──動きが止まる。


「……っ」


 気付いた。今更のように。

 少女が着るシンプルな黒のシャツは、左袖が根元から垂れていた。本来なら通されるべき物体がないからこそ自重に従い垂れる布地。ぽっかりと、虚ろさだけを示す衣服。

 少女は左腕が根元からなかった。恐ろしく切れ味の良い剣で絶たれたように。

 ──それだけではない。

 折り目正しく膝の上に置かれたローロの右手は、小指と薬指が無くなっていた。これまた同じく、根元から失われている。

 思い出す。ローロが自身の母を叩き斬るために捨てた肉体の何もかもを。

 ……【質量転換マスコンバート】。分け与えたのは、自分だった。



 悪魔がどうして、彼女に触れられるなどと思い上がるのか。



 少女へと伸ばしかけていた腕が震え、そのまま元に戻ろうとする。が、しかし。


「権利なんてないと、そう考えているのですか?」

「……っ」


 その手を取る者がいた。僅か三指でメフトの手に触れ、掴み、柔らかな動きで自身の頬へと触れさせた少女が。

 ローロが、無垢な淡い紫の瞳をまっすぐにメフトへと向けていた。彼女の手から伝わる熱量に少しだけ目を細めながら。

 ──愛しく思う者の仕草。

 ──慈しむ表情。

 そんな顔を向けられる権利なんて、メフトという女にはないはずなのに。


「だめよ。ローロ。だめ……こんなのは……許されていない……」

「私達にどのような過去があったとしても」


 様々な過程を排した会話は、それだけ直情的だった。


「私はメフトさまと共に生きたいです」

「……!」


 真摯な祈りがローロの眼差しに宿っている。

 目を、逸らすことなんて許されないのだとメフトは悟った。


「……だから自分を捨てるような真似、しないでください」


 奥歯まで噛み締める。大声で少女を叱りそうになる自分をメフトは必死に抑えつける。

 与えたのは自分。

 望むがままに許したのは自分。

 少女がたくさんのものを捨てられるようにしたのは、自分だ。

 その末に、それでもメフトの怪我を心配するローロに、かけるべき言葉などあるはずがないと。


「……アルとティアレスは?」


 だから穏やかな笑みを浮かべることだけはせめてもの努力で形にした。

 精一杯の思いを込めた、装った声音に、ローロは頷く。


「ティアレスさまは別室で寝ています。アルはその看病を」

「ティアレスの体は……」

「アルが復元しました。けれど元通り動くかはまだわからないそうです」

「……そう」


 先の戦闘でティアレスは重傷を負った。耐久限界を迎えた右腕が物理的に落ち、左手は神経までぐちゃぐちゃになっていたはずだ。稀代の治癒系魔法使いであるところのアル・ルールによって形だけは復元が済んだようだが、動くかどうかはこれから次第、ということか。

 きっとメフトが負った腹部の貫通という怪我も、アルによって治癒が成されたのだろう。堪えがたい痛みこそあれど、命が損なわれるような苦痛がない。


「メフトさま」


 ゆっくりと頬に当てた手を下ろし──しかし未だに重ね合わせたまま膝に置き、ローロが口を開いた。


「……なーに? ローロ」

「教えてくれませんか? メフトさまと母さんの間に何があったのか」


 その質問は当然の帰結だとメフトは思った。

 マギアニクス・ファウストという復讐に駆られた憎悪の塊によって、ローロは肉体を乗っ取られるまでされている。ティアレスは重傷を負い、アルは心を砕かれた。

 これだけの事件が起きたのだ。……伝えるべき義務が自分にはある。


「長い話になるわ」


 それでもいい? と目線で問えば、ローロは静かに頷いた。

 メフトは一度目を閉じる。少しの間、どこから話すべきかを思案する。

 ……ゆっくりと瞼を上げた。今度こそローロ・ワンという少女を真っすぐに見つめた。

 淡い紫の瞳に映る自分の顔を、その翳りを心の中だけで小さく笑いながら。


「……そこにいるんでしょ? こっちに来て一緒に話を聞いたらどーお? ティアレス、アル」


 メフトが唐突にローロから視線を外し、寝室の扉へと声をかける。顔を上げたローロと共に待つこと数秒、扉がひとりでに開いた。

 そこには女が二人いる。金髪に青い瞳をした長身の女は、全身という全身に包帯を巻かれてはいるものの、二足でしっかりと立っていた。だらりと垂れた両腕こそ痛々しいものの、さほどの痛苦もないのだと真っすぐに伸びた背筋が物語っている。

 もう一人、やや陰鬱な赴きで顔を曇らせている栗毛の女もいた。怪我という怪我こそないものの、疲弊しきった精神を思わせる暗い瞳。以前までの明るさは死んだように鳴りを潜めている。

 扉口に立つティアレスとアルへと、メフトは語りかけた。


「あなたたちにも関係する話だから。……ローロ、いいかしら」

「はい」

「……そういうことなら、私は聞くけど」

「元来盗み聞きは好かん」


 二人がローロとは向かい合う形でベッドの脇に椅子を持ってくる。アルが二人分の椅子を用意し、彼女たちが腰掛ける。それを見ていたメフトは不意にティアレスの青い瞳と視線が重なって。

 両腕が動かない女を見て、メフトは苦く笑った。


「元気そうね」


 ティアレスも同じく、呆れたように薄く笑う。


「お前こそ」


 それ以上の会話に価値を見出せないと二人ともが察していた。

 マギアの凶行を前に何も出来なかったメフトをティアレスは詰らなかったし、全生を賭けた結果として両腕不随に陥ったティアレスをメフトは労うことがない。一度は殺し合うまでいった仲はしかし、冷めきっているのでも、気心が知れているわけでもない関係性に落ち着いていた。


「アル、ティアレスを直してくれてありがとう。私の傷も」

「いいよ別に。出来るからやっただけ。……まだ痛む?」

「痛むだけだから」


 アル・ルールの落ち着いた口調にメフトは少しだけ驚いたが、それがマギアによる魔法を解かれてのことだと納得した。頑なにローロと視線を合わせようとしないアルの態度に、メフトは掛けるべき言葉を持ち合わせていない。

 だから、話を前に進めることにした。


「──ここに居る全員が、マギアニクス・ファウストという女と何かしらの因果関係にある。そして私以外の誰もが、彼女がどうしてああまで復讐に狂ってしまったのかを知らない」


 結局のところメフトが知っている事実というのは、ローロの母親についての全てでしかない。

 これから先の展望に繋がる話でもなければ、未来を切り開く可能性に満ちた希望でもないのだ。

 過去。

 そこにはただただ愚かな悪魔の成した罪業だけが転がっている。


「……私は、自我を持った魔法を作ったことがある。彼女の名をメルツェル。メルツェル・カルテル。……だけど始まりはメルツェルじゃない」


 何もかもに起点を置くなら、それは──。


「あなただったのよ、ローロ」

「え……?」


 視線をもう一度ローロへと。

 メフトはゆっくりと、だけど正しい発音で、言葉を選ぶことなく続けていった。 


「ローロ。ローロ・ワン。生まれながらの神経細胞移動異常症であり、同年齢の脳と比べておよそ8割が正常に機能していない少女」

「────私の、頭の中の『空白』……」

「それでもあなたは生きている。ええ、【シナプス代替魔法】による脳機能の代替を、あなたは生まれた瞬間から行っていた」

「私はそれがないと、きっと……もう」

「恐らく歩くこともままならない。喋ることも、考えることも」

「……」


 事実だけを述べた言葉に、アルが重く項垂れ、ティアレスは何かを考えるように目を閉じた。


「……ローロは、生まれながらに重い病を負っている、ということか?」

「そうよ。20世紀初頭の今の医学ではそもそも病名さえ定義されるはずのない、脳機能障害。簡単に言えばね、ローロの生体脳は普通の人間のようには成長していないの」

「それを補っているのが、【シナプス代替魔法】……」

「ええ」


 本来ならローロ・ワンは……彼女・・が使・・って・・いる・・肉体・・は、その歳まで生きることは叶わなかった。常人と違い成長とともに発達することがない脳は本来ならば多くの機能障害を起こし、1900年代初めの医学では太刀打ちできるはずのない奇病として少女は生まれて数年で死ぬはずだった。

 しかし少女は生きている。

 ローロ・ワンとして、息をして、体を動かし、成したいと願った行いを為せる。 


「私はね、ローロ」


 【シナプス代替魔法】。それは本来ならば正常に役割を果たす脳内の神経細胞が大部分機能不全に陥っているがために、脳機能代理を目的として展開・維持され続ける魔法だ。

 それはローロ・ワンという個体の人格を培うほどに高次機能を司るようになり、それは齢17になった少女が愛を胸に抱くほど高度な魔法であり。

 ──決して、この世には存在しない、してはならない魔法の一つ。


「私は…………」


 メフトは言葉を続けようとした。

 自らが言うべきことを、愕然と受け止める他ない少女へと伝えることこそが、自身の罪を明かすことになるのだからと。

 だというのに。


「私、は……」


 思い出す。

 思い出してしまう。

 夢にまで見てしまった光景を。


『よかった。よかった。よかった……! 生まれてくれた! 見て……メフト、あなた。女の子よ……私の……私の娘……!』  


 ──出産直後、マギアニクス・ファウストは本当に本当に慈愛のこもった表情で笑っていたのだ。

 泣き喚くことのない小さな赤子を胸に抱いて。息も絶え絶えに。それでも柔らかく。

 あんなに愛していたのに。




 ぎり ぎり ぎり ぎり




 それから三年後には、マギアニクス・ファウストは自身の娘を絞め殺そうとした。

 狂ったように笑って。

 憎悪だけで淡紫の瞳を歪ませて。


「……………………なんでだろう」


 ──罪だ。

 罪だけが過去にはある。

 どうしようもない。後戻りも、やり直しも決して許されない罪ばかり。

 そして未だに誰一人、罪を犯した悪魔じぶんを罰することができていない。 


「言うつもりだった。今なら、言えるって、なのに」


 シーツを掴む。握りしめる。視界が歪んで、喉が震えて、逸らすべきでないローロへの視線が途切れた。

 目を閉じてしまうのは己の弱さの象徴だ。

 間違えてしまった自分を殺そうとしたマギアは何一つ間違・・って・・いない・・・。そうとも、いかに狂った復讐の鬼と化していようとも、マギアの憎悪には正当性がある。

 それほどの事をしたというのに──どうしてこんなに。


「言葉が……出てこなくて……!」

「メフト」


 それは、泣いてばかりいる女に投げかけるにしては、ひどく優しい声音だった。

 ティアレスが、かつての怨敵に穏やかな眼差しを投げかける。


「ここにはお前の罪を責め立てる者はいないよ」

「……!」

「それを許されているのは私でも後輩でも、マギアニクス・ファウストでもない。……ローロだ。ローロだけがお前の罪をきっと許せる」


 だから、なあ、メフト。

 ……話せよ。


「私は黙ってそれを聞くよ」


 ティアレス・ティアラ・ホルルはそれだけ言って、口を閉ざした。言葉を紡ぐことができないメフトを責めることも、現状を詰ることもやはりせずに。

 右腕がもう使い物にならないかもしれないのだ。

 左手だってそう。

 騎士が剣を握れない事実──それでも真っ直ぐ伸びた背筋が曲がることはない。彼女はそういう人間だ。まさしく騎士として生きようとする強い者。


「…………わたしは魔王さまがローロに何をしたか知ってる」


 次いで言葉を発したのはアルだった。

 重みを増した、ある意味落ち着き払った口調は以前まであった底抜けの明るさを失っている。それでも、だからか。彼女の言葉にはどこか丁寧な響きがあった。


「でもそれはマギアニクスおば様から伝えられたことでしかないんだって、知ったよ。……あの人の言うことにどれだけの真実があるのかわかんなくなっちゃった。わたしにも魔王さまを叱る権利なんかないよ。うん、そんなことできる立場じゃないってわかる。それは先輩の言う通りだと思う」


 だから教えて。……と。

 アル・ルールは極めて冷静な貌をして、メフトに苦々しい笑みを浮かべてみせる。


「わたしはただ、知りたい」


 背を優しく押されている。この場における年長者らしい、彼女なりの気遣いだった。

 そして。


「……どんな過去でも、私には今ここにある全てが最善です」


 ローロは、自身の膝に置いた右手を……三本の指を、緩く曲げる。その下に重ね置いた女の手指をそっと握る。

 少女の手には血の通った熱があった。

 それがどれだけ素晴らしいことかをメフトは何年も前から知っている。


「痛みはメフトさまと出会えた証ですから」


 少女が、実に可憐な笑みを浮かべる。

 場違いなほど華やかで。美しくて。

 生きている事実そのものを喜ぶ表情に、メフトは、ついに心を決めた。


「……これまでたくさんの間違いを犯してきた」


 涙で震えきっていた喉に鞭を入れる。

 目端を空いている片手で拭い、上体を腹部の痛みを無視して起こした。

 視線を少女へ固定して。……曖昧に笑って見せる。 


「何度も何度も失敗して、失敗して、少しだけ前進しても後悔を繰り返すばかり」


 いつもそう。

 あとになってから取り返しのつかないことをしたと気づく。


「それでも全ての始まりと言える罪はただひとつ」


 片手に触れている熱。

 少女の手指の感触は──親子だからだろう。

 母親になったマギアニクス・ファウストが、臨月を迎えた頃、自身の中で育つもう一つの命へとメフトの手を導いた時のそれと酷似している。

 マギアの大きく膨らんだ腹部に触れた時。

 全てはあの瞬間だった。








「私が、胎児だったマギステルシア・ファウストに与えたの。

【シナプス代替魔法】を──魔法群による脳を」








 罪は。

 マギステルシア・ファウストとして生まれるはずだった少女を、ローロ・ワンとしてしまったことそのもの。


「──私は数え切れない罪をあなたに罰してもらうために、今も息をしている」


 それからメフトは語りだした。

 罪業の在り処である、どうしようもない過去を。

 始まりは今から23年前。

 14歳だったマギアニクス・ファウストが、メフトという悪魔を創ったところから。




<3章 完>



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