「わたしね、ローロのこと大好きだけど、先輩や魔王さまと一緒に暮らすのも結構好きなんだと思う」

 一泊で済ませるつもりとはいえ、ゆっくりと湯船に浸かることは外せない。

『国民なき国』の城では湯脈から湧き出る温泉に好きな時に好きなだけ入れる生活が当たり前だったせいで、四人の誰もがそう考えていた。

 そのため、アルの実家で最初にするべきことは──まず風呂場掃除から、ということになった。


「おっふろ、おっふろ、お風呂そうじ〜」


 鼻歌交じりにバスタブをスポンジで擦るアルはそれまで抱えていた不安を忘れた様にニコニコとしている。

 同じ様に風呂場全体を使い古しのタオルで拭いていたローロは、年上の幼馴染の楽し気な様子につい口を開いた。


「アルって掃除が好きだよね」

「えー? だって楽しいじゃん! 綺麗になっていくのって単純に気持ちがいいよねー」


 メフトとティアレスは二人で寝室の掃除をし、ついでに食糧を確認している。アル曰く『日持ちする缶詰ならあると思うよ』とのことだから、一泊程度の食事には困らなさそうだ。


「このお風呂使うのも久々だなあ」

「私が士官学校の寮で寝泊まりするようになって、一年くらい後に実家を離れたんだっけ」

「そそ、あれっきり帰ってなかったからなんか自分の家じゃないみたいな感じする!」


 アルの実家は地方によくある一軒家だ。フラットな印象を抱かせる角ばった壁と屋根、塗装などしていない素地のレンガで造った外壁、狭い庭、規則正しく配列された窓ガラス。どこにでもある家で、父母と共にアル・ルールは育った。近くの屋敷に住むローロ・ワンと共に。


「なんというか、すごく懐かしいね、アルの家にいるのって」

「だよね! わたし、お父さんとお母さんが家にいないって分かってなんだか怖かったけど……今は少し嬉しいんだー」


 手を動かしつつ彼女はどこか満ち足りた表情を見せる。

 心の底から今この時を喜べると、アルの横顔は語っているようで。


「わたしね、ローロのこと大好きだけど、先輩や魔王さまと一緒に暮らすのも結構好きなんだと思う」

「私もそうだよ」


 アル・ルールがメフトに疑われるのも仕方のないことではあった。事実として過去に彼女は誘拐事件を自演している。それでもアルは『国民なき国』で共に暮らしており、好意だけではないにしろ城主たるメフトとも友好的な関係を保てている。

 アルの両親が一年以上不在であること。だというのにアルの両親を差し出し人とした手紙が届いた事。この状況には何らかの作為が確実に潜み、それは明確な害意を伴う可能性が高い。それでも、そこにアル・ルールは関係していないとローロは信じている。──信じたいのだ。3歳の頃から共に過ごしている七つ年上の幼馴染を。

 さて、その後つつがなく風呂掃除を終えた二人は、台所で食糧の確認をしていたメフトとティアレスの下へと戻った。


「お風呂場掃除終わり! そんでもってお風呂も沸きました!」

「お疲れさま。それなら食事より先にお風呂に入っちゃいましょうか」


 机の上に並べた缶詰を見ていたメフトが労いの笑みと共にそう言うと、家主であるところのアルが少しだけ申し訳なさそうに目を伏せる。


「ごめんね。うちの風呂、お城みたいに広くないから一度に入るなら二人が限界かな……」

「私は最後でいいです。メフトさま達からお先にどうぞ」


 自然な発想として、ローロ・ワンは自分が最後に入浴を済ませればいいと考えていた。メフトの騎士であるからには主君を優先すべきだと。

 そんなローロの提案にメフトは何かを思いついたと目を瞬かせ、小さな笑みと共に。


「せっかくだし──」

「じゃあわたしローロと入る!」

「…………ありがとう。なら、お言葉に甘えさせてもらうわ」


 覆い被さるようなアルの言葉によって、何故かメフトは途端に表情を消してしまった。風呂場へそそくさと歩いて行ってしまった彼女の背中は何も語らない。


「ティアレス、一緒に入るわよ」

「えっ普通に嫌なんだが。なんでお前と膝小僧を突き合わせてまで風呂に入らないといけないんだよ。最後でいいよ私は」

「うるさい。とにかくさっさと入らないとローロがゆっくりできないでしょ」


 道すがらティアレスの腕を掴んでずるずると引きずっていくメフトは、どこか不機嫌そうに見えた。



 ◇



 メフトとティアレスがバチバチに殺意の眼光を突き合わせつつ風呂場から戻ってくると、入れ替わりでローロとアルは風呂場へ向かった。

 アル家の風呂場はシンプルなバスタブが中央に置かれ、そこに湯水を溜める方式だ。庭の井戸が枯れていなかったのは僥倖だろう。小規模な【強化】魔法を使えばローロでも水汲みがすぐ済ませられたし、アルのおかげで丁度良い温度まで暖めるのも大した苦労ではない。


「ローロぉ、石鹸貸してー」

「はい。……まだ余っててよかったね」

「ほんとだよねえ」


 一年は住人がおらず使われていなかったはずの家屋は、何故か生活必需品の類が十分な量、備蓄されていた。

 まるでこうなる時のために用意されていたのではないかとさえ考えてしまう。──が、あり得ない話ではないな、と思い直した。長期間の度に出るアルの両親が、いつ一人娘が実家に戻って来てもいいようにしっかりと備えていた……という気遣いだろう。

 二人で体を洗い終えさっぱりとしてから、アルとローロはバスタブにゆっくりと身を沈めていく。


「昔はこうやって一緒にお風呂入ったよねー」


 向かい合って、肌身に触れる湯の暖かさに体が奥底から解れて、自然と両者の足が膝を伸ばす──触れる双方の足先の感覚に、表情を緩めていたアルがびっくりしたように目を丸くした。


「あれっこのバスタブこんな狭かったっけ!?」

「大人になったんだよ私達」


 十歳にも満たなかった頃とは違い、二人とも肉体的には成長期を終えている。アルは24歳、ローロは17歳だ。足を伸ばせば当然相手側に体が触れてしまう。というか、少しでも前に詰めれば二人の体が密着するほどだった。

 ちゃぷちゃぷと湯の水面を揺らしつつ、アルはバスタブにもたれる形で両膝を抱える。湯から出たつるりと丸い膝の上に頬を突いた。


「魔王さまと先輩には悪い事しちゃったかも……」

「なんかすごい顔してたね二人とも」

「すっっっごい入浴中は静かだったけどね」


 同じようにして膝を抱えているローロに、アルは声を忍ばせ笑って見せる。二人の体の揺れでまた水面が震えた。

 風呂場にもうもうと立ち込める湯気の中で、年上の幼馴染は目を瞑って「懐かしいなあ~」と呟いた。


「あの頃はずっと二人きりだったよね、私達。いつもこうやってお風呂に一緒に入ってた」

「うん。私もお風呂はアルと入った記憶ばかりだなぁ……」


 風呂にまつわる記憶は、思い出しても思い返しても、ローロはアルの家で入浴を済ませた思い出しかない。母……マギアニクス・ファウストは大抵ローロが眠っている時間に風呂を済ませているようで、一度も同じ時間を風呂場で過ごした事が無かった。


「なんていうか毎日このバスタブでお風呂に浸かってた気がする」

「あれ? そんなにローロってわたしの家に入り浸ってたっけ? 逆じゃなかった?」

「そうなの? 私の記憶だとたいていこの家で過ごしてた気がするけど……」


 きょとんとアルが小首をかしげる。幼い頃の記憶なんていうのは本人の都合の良いように捻じ曲がるものなのだろう。何年も共に過ごしているのにこうした記憶の相違が出るのも、仕方がない。

 仕方がない、はずだ。


「……よく、アルのお父さんとお母さんが『アルの妹ができたみたいだ』って笑ってたよね」

「え……そんなことあったんだ。全然覚えてないかも」


 アル・ルールは本当に覚えていないと首を振る。極めて小さな困惑で揺れる緑の瞳。その中に映る、淡い紫の瞳をした少女の顔。

 ──よくないものが、どこかで膨らんでいく気がして。

 打ち消すようにローロは僅かに頬を膨らませてみた。


「失礼な話だよね。私の方がお姉さんなのに」

「なにそれなにそれ! わたしの方が子供っぽいって言いたいのっ?」


 ぎゃあぎゃあと言い合う言葉の応酬。そのうち体が触れ合うのも気にならなくなった二人が、狭いバスタブの中で素肌を擦り合わせる。幼い頃に戻ったかのように頬を引っ張られ、引っ張り返し、そして絶えず笑い合う時間をローロは精一杯刻み込んだ。

 何にかと言われれば、──脳でなく、心に。




 ◇




 しっかりと体を暖めた二人がリビングに戻ると、缶詰の中身を皿に盛っただけの簡易な料理が出迎えていた。

 塩漬けされた牛肉を焼いたもの。久々に空気に触れることでその柔らかさを取り戻しつつあるパン。シロップで保存加工された果物まである。


「おー。美味しそう! いただきま──」

「アル。せっかくなんだから、四人で一緒に食べよう?」

「……それもそうだね! あぶないあぶない!」


 早速椅子に座ったアルがパンへと手を伸ばしかけるので、慌てて制止した。

 やがて湯気を立てている大きな鍋をティアレスが持って来て、メフトが拭いた皿を配膳する。鍋の中身は缶詰にされていた野菜類を使ったスープだった。

 調理役を買って出ていたティアレスがうんうんと頷きつつ椅子に座る。


「日持ちする食糧というのはいいよな。うん、はは、なんというか機能美を感じるよ」

「食べられるものが多くてよかった」


 と、同じように椅子に座りつつメフトは続けた。


「確認できた限りなら二週間程度は食事に困らない量の備蓄があったわ」

「そんなに、ですか……」


 アルの家には貯蔵に向いた地下室がある。冷え冷えとした暗所には、想像以上にたくさんの備蓄があったらしい。それを聞いたアルは「そんなにたくさんの備蓄はさすがになかったと思うんだけどなあ……」と首を傾げていたが、やがて目の前の食事に我慢ができなくなったのだろう。


「じゃあ四人そろったし、いただきます!」


 アルが満面の笑みでスープが盛りつけられた更にスプーンを差し込み、一口。


「おいしい!」

「そりゃよかった」


 ローロも同じようにスープを口に含む。香辛料をいい塩梅で利かせているスープは体の奥底から暖まっていくようで、ほっとする味だ。

 塩蔵された牛肉も普段使う干し肉とは違い新鮮さがあり、パンも焼き立て……とまではいかないが柔らかく、十分に美味しいと言えるものだ。


「缶詰ってあんまり使ったことがないですけど、おいしいんですね」

「最近は工業化があちこちで進んでいるだろう? 安定した品質で大量生産が出来るようになったんだろうね」


 廃墟と化している土地のためここら一帯に送電網は敷かれていないが、城から故郷までの道すがらにあった大きな街ではガス灯ではなく電灯が街中に敷設されたりもしていた。近代化が進む都市部では簡単に湯を沸かすことも、調理の度に薪を使って火を熾すこともないと言う。


「そのうち長距離の移動も、馬車よりもっと便利なものが出てきそうです」

「みんな魔法使えた方が便利になりそうじゃない?」


 もぎゅもぎゅとリスみたいに頬を膨らませてパンを食べていたアルが、ごくりと喉を鳴らしてからそう言った。 

 アルのように感覚で魔法を常用できる天才肌の魔法使いならばともかく、大抵の人にとって魔法は『殺傷性が高すぎる軍事兵器』としか捉えられていない。誰もが放出可能な魔力は激情によって魔法に発展しやすく、そしてそういった強烈な感情の発露は概ね殺意の具現化にしかならないからだ。そんな魔法をより理論化し洗練させた者達──ここにいる“魔法使い”や“騎士”は国家対個人の戦争を成立させてしまうほどに常識の埒外にある。

 そんな危険な力学を、平然と日常生活で駆使できる自体はよっぽど来るとは思えないが。


「魔法なんかなくても、いずれ人はもっと便利な力学を見つけ出して活用するわ」


 ローロのそんな意志を代弁するかのようにメフトが呟いた。パンをスープに浸しては少しずつ食べている彼女は、誰にでもなく続けている。


「技術というものを生活の向上や発展に正しく使用できる状態というのは、文明の成熟度合いを大きく加速させる。観測機器の精度向上、電気の発見、その利用と普及。ここ十年で人々の生活は大いに進歩したし、それはこれからも続くことよね。雪だるまが気付いたらすさまじい大きさになっているように、そのうち自らの生み出した機構で星さえも抜け出すはずよ」


 そこまで言い切ったメフトは、他の三人が黙っていることにようやく気付いたのか唇を僅かに尖らせた。


「……なーに? 私そんなに変なことを言った?」

「まるで未来を見通してきたみたいなことを言うんだな、と皆思っているんだよ」

「ある意味では似たようなものよ」

「?」


 意味深な発言にローロが首を傾げる。その真意をアルもティアレスも分かりかねていた。


「メフトのなにやら難しくて面白味に欠ける話はともかくだ」

「ちょっと」

「今日は早めに寝てしまおう。残念ながらこの土地で夜を過ごすには前時代的な灯りが必要だ」


 それに……とティアレスはリビングに備えられた窓へと目を向ける。空は既に黒一色で満たされ、湿った雑音を鳴らしながら雨を降らせていた。

 同じように窓の先を見ていたアルがぽつりと呟く。


「明日には晴れるかなあ」

「あまり良い天気とは言えないな。恐らく明日も降り続けるぞ」

「そっかあ」


 ぼんやりとした言葉をアルが口に出していると、


「あっおいそれ私の肉だぞ!」

「なーに? よそ見してる方が悪いのよ」

「お前嫌味を言われたからってやり返し方がひどすぎるだろ! ……返せ! 返せよ私の肉!」

「はい美味しい。あなたの皿にあったお肉だと思うと三倍美味しいわ」


 などと急に喧嘩を始めた普段通りのメフトとティアレスを見て、──ふふふ、と幼馴染は笑う。


「こういう騒がしい食卓ってわたし好きだなー」

「私と一緒に食べてる時はいつもあれくらいうるさくしてなかった?」

「ローロが居ない時はすっごく静かだったもん」

「……」

「雨が降る間はこの家で過ごした方がいいかもね!」


 そう言ってアルは笑った。

 きっと、自分の家にたくさんの客人が来て、嬉しいと思っているのだ。それがローロには手に取るようにわかった。彼女がする満面の笑みはいつもローロ・ワンの傍に寄り添っていたものだから。



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